熱量保存則

「……あ……れ」
「何だよ」
 クラスメイトだと思って開けた玄関の向こうにいたのは、昼に別れたばかりの無愛想なキャッチャーだった。疲れて休んでそのまま夢でも見てるんだろうか、と頬をつねってみるが、頬がのびて痛いだけだ。
 そんな三橋を見て、阿部はそっと視線を逸らせた。
「オレで悪いか」
「そんな……こと……は」
「あるって顔だな」
 吐き捨てて、ため息をつく。その音に三橋は思わずびくりと肩を震わせてしまう。
 何が怖いって、この世で一番怖いものは、阿部のつくため息だ。誰に嫌われるのも厭だけれど、誰より阿部に嫌われるのが一番怖い。
「田島君が……来るって……」
「先に病院行ってるから、夕方くらいに来いってよ」
「あ……うん」
「マッサージは夕方の方が空いてんだと」
 オレは単なるお出迎えだ、と阿部は首をすくめてみせた。分かってる、という意思表示に、こくこくと頷いてみせると、その顔を見て阿部は少し怪訝な顔をした。
「おまえ、熱はかってるか」
「え、うん……」
「嘘だな」
 さっきと同じくらい大きいため息をつき、阿部はさっさと玄関に上がってしまった。
「顔真っ赤だぜ。熱上がってんじゃないのか」
「そ……かな」
「体温計は?」
「オレの部屋……」
 その言葉に、無言ですたすたと歩き始めた阿部を追いかけて、三橋は自分の部屋へと階段を駆け上がった。

「7度5分」
 まだ高いな、と阿部が一人ごちる。
 三橋は天井を見上げた。強制的にベッドに寝かされている。
「ちゃんと布団に入って寝てたか」
「寝てた……よ」
「ふうん」
 三橋はそっと頬を手の甲で触れてみた。
(あつくは……ないけど)
 思った瞬間、手のひらを阿部に攫われる。
「手も熱いぜ」
 確かめるように両手が片手を包む。
「わかんねぇだろうけど」
 ぐっ、と力が込められる。
(あ) 
「……わかる」 
「あ?」
(オレとオレの……じゃ分からないけど)
「阿部くんの手、冷たい……カラ」
 その言葉に、なぜかバッと阿部は手を離した。彼にしては珍しく視線がさ迷ってから、三橋に集まる。
「ナニ、言ってんだ。突然」
「阿部君の手、冷たいカラ……オレ、熱ある……って」
「あー。分かった。分かったけど、それは体温計の数字で気づいてくれ」
 ひらひら、と阿部は離れた手を振って、もう一度視線を外した。熱があるわけでもないだろうに、阿部の頬も赤くなっているような気がするのは気のせいだろうか。
(気のせい……にしとこ)
(わかんないけど)
(……怒られたらやだし)
 ふ、と息をつく。吐息が少し苦しい。普段は7度5分なんて平気なのに、やっぱり疲れが残ってるんだろうか、と思う。
「つらいか?」
 気づけば、じ、と阿部が真剣な顔で自分の顔を覗き込んでいた。ぶんぶん、と首を振る。
「つらく、ない……よ」
「つらいなら、寝てろ。まだ、時間あるから」
 そ、と阿部の手のひらが近寄る。額と目を覆うように作られた暗闇が心地よくて、三橋は目を閉じた。
(あ)
(やっぱり)
(ひんやりしてて……きもちい……)
 頬へとなでる手のひらは、決して柔らかくはない捕手のそれ。
 しなやかで、強くて、冷たいけれど、
(やさしい)
 ふ、と意識が揺らぐ。
(阿部くん)
(……みたい)

 眠りへと意識を落としたらしい。
 三橋は阿部の手のひらに顔を寄せたまま、静かな寝息を立て始めた。
(まったく)
(わかんねぇやつ)
 阿部はそっと溜息をかみ殺し、布団を手繰り寄せてやる。
 すうすうと立てる呼吸がくすぐったくて手のひらを離したいのだが、離れたら温度差で目覚めてしまいそうで、とりあえずそういう理由で、阿部はベッドに腰を下ろした。
 柔らかな猫っ毛がふわふわと呼吸に合わせてゆれる。離れない片手のせいで、触れられない距離。
(いつだって)
(こんな顔しないクセに)
 手のひらから伝わる柔らかい頬の無防備さ。
 つらくない、の一言より、ほしいのはこの表情なのだと、そう言えば伝わるだろうか。
(伝わんねぇ)
(だろうな)
 彼を思う気持ちは、投手に向かう捕手のそれには違いない。だけれど。
 試合のときに自分だけに向けられる、あのどっぷりと信頼されている感覚が――グラウンドの外でさえ、欲しくてたまらないのだ、と。
(自覚したら、負けだ)
 それは分かっているのに、止まらない。
(だから)
(気付くな)
 気持ちを伝えたいのか、伝えたくないのか。
(伝えたい)
(けど)
(気付かないで欲しい)
 
 彼と自分の温度差で気付かれたら、きっとこの気持ちは行き場をなくしてしまう。
(動けないこの手のひらのように)

 ならいっそ、熱が高いほうから低いほうへうつるように、気持ちも自分から彼へ伝って、いつか。
(同じ温度になればいいのに)
 願いさえ気付かれぬように、阿部はちいさな口付けを落とした。