OBSERVER


 珍しくオフの日。
 目覚し時計も付けずにそのまま眠り込んでしまった昨日。
 誰も邪魔するはずのない惰眠。
 ・・・が。
「おーい。いい加減起きろよ、おっちゃん」
 そんな声に、目を覚ました。

 


「・・・で、何してんだよ、時坊」
 葛西はボサボサの髪も直さずに、目の前で寝転がってTVを見ている少年に言った。
 手元にはコーヒー。湯気さえ立ち上らせながら、ブラックの芳ばしい香りを漂わせている。
 既に勝手知った時任が、葛西のために淹れてくれたものである。
 それを一口二口含むと、葛西はガリガリと頭をかいた。
 今日がオフであるということは、それは久保田あたりから聞いたのかもしれない。
 それはいいが、と葛西は思う。
 連絡もなくその日に葛西のアパートにやってきて、用があるかと思えば彼のしたことは――
「え?TV見てんの」
「そりゃ分かるからよ・・・」
 と、こうである。
 葛西は一気に脱力した。
 別にせっかくのオフの邪魔されてどうこう、と言うのではない。
 どっちにせよオフにしたってすることはないのだから、麻雀を打ちに行こうかという予定くらいしかなかったわけであるし。
 コーヒーを再び口に含むと、苦いような甘いような味が広がった。どうやら砂糖を入れたらしい。
 長年砂糖など入れて飲んだことのないコーヒーは、甘ったるいようで、少し閉口する。
 しかし目が完全に覚めていないことも確かだから、葛西はそれを流し込むように飲んだ。
「だぁからさ、何しに来たかって聞いてんだよ。――ってかお前、ちゃんと誠人にこのこと言ってきたんだろうな?」
「え〜?久保ちゃん??しらねぇよ、多分」
 時任はそう言うと、細い足を無防備に投げ出した。
 先ほどまで葛西が寝ていたベッドは、すっかり時任の持ち物になっている。
「しらねぇってな、お前――。〜〜〜〜〜そういうことしたら俺の方がアイツに睨まれるんだぞ」
「何で?俺おっちゃんの家に来ただけだし〜。別に久保ちゃんが怒るようなこと何もしてないじゃん」
「そーゆーことじゃなくてよ」
 葛西は昨夜脱ぎ散らかしたのであろう服の中から煙草を引っ張り出すと、窓辺に寄って火を付けた。
 自分ひとりならアパートの中でも平気に吸うのだが、誰かがいればいかんせんそういうわけにもいかない。
 特にその相手が時任ならば、だ。
 葛西は自分の甥の、どこを見ているか分からない瞳を思い出して、背筋がわずかに寒くなるのを感じた。
 久保田は時任が勝手に外出することを何よりも嫌う。
 一緒にいるときでさえ、他の人間が時任に触れることを厭うのだ。
 いつだったか時任が話していたが、どこかの男が勘違いして、久保田を待っていた時任に馴れ馴れしく話しかけたことがあるという。
 そのとき、戻ってきた久保田は一点の曇りもない笑顔を見せながら、
『ねぇ、勝手に人の物に触っちゃ駄目って――教わらなかった?』
 そう言って、男を散々に叩きのめしたという。
 それは、周りの人間が警察を呼んでしまうくらいに。
 結局パトカーが到着する前に、時任は久保田の手を握って逃げ出したのだというが――
 ――時々俺、久保ちゃんてさ、・・・ホントは滅茶苦茶弱いんじゃないかって思うんだよ。
 そんなふうに、時任は言っていた。前に時任が葛西の家を訪れたときのことだ。
 こうして時任は、葛西のオフを見計らうかのように時々家に上がりこんでは、他愛もないことを話して帰って行く。
 そして決まって時任が帰った後に久保田から電話が入り、
『俺の了解ナシに猫を手懐けないでね?』
 と何とも言い応えの出来ない脅しを受けるのは、他ならぬ葛西なのである。
 今回も自分の煙草の匂いを染み付けて時任が帰ろうものなら、今度こそ脅しではすまないかもしれない。
 ふう、と葛西はため息をついた。
 そして甥の同居人に目をやって、そこではたと葛西は気付いた。
「・・・?どうした、時坊。具合でも悪いのか?」
 いつもなら跳ね回っている元気な時任は、今日に限って何を口にすることもなく、だらだらと葛西のベッドに寝そべっている。
 天井の穴を数えるような仕草で、しかしその視線はどこを見ているのか分からない。
 酷く、――虚ろなのだ。
 そういえば今朝は、起こされたときから今まで一度も時任が笑っていないように思う。
「おい、時・・・」
「――なぁ、何とかってクスリのことなんだけど」
 視線を天井の向こうに合わせたまま、時任は葛西の言葉を遮った。
 "クスリ"。そのフレーズに、一瞬葛西の顔が刑事のそれに変わる。
「WA・・・か? それがどうした?」
 成分も効果も不明であるクスリ。ただ残っているのは、獣化した人の体。
 決して優秀でないことはない日本の機密警察でも未だに解明しきれない、その薬物の謎。
 葛西はチラリと時任の右手に目をやった。手袋に隠れたその下には・・・葛西が今までに幾つも見てきた死体と同じように、獣化した手がある。
 その視線を感じてか、時任は右手を軽く上に掲げた。
 寝そべったまま、ほんのすこしベッドが軋む。
「――俺がもし、そのクスリ飲んでたとしたら、さ」
 時任の顔に、一瞬わずかに笑みが浮かぶ。自嘲のような、彼には似合わない笑みだ。

「・・・俺もいつか、ああいう風に死んでいくわけ?」

 葛西は胸にズキンと強い痛みが走るのを感じた。
 半分ほど吸ってしまった煙草を片手に、窓から見を乗り出してアパートの階下を見る。
 どこかの主婦が、ゴミ袋を片手に出てきている。
 ・・・馬鹿らしいほどに平和な世界。
「――飲んでたのか?」
「わっかんね。飲まされてたかもしんねぇし。よく思い出せねぇけど」
 時任は久保田に拾われる前、どこかの組織に追われていたという話を、葛西は不意に思い出した。
 久保田が時任のことで最初にここを訪れたとき、そんなことを言っていた。
「じゃあやっぱさ、こぉオオカミ男みたくなって、何もわかんなくなって、それで――」
 時任の声が不意に止む。
 葛西は部屋の中を見た。
 朝日に比べて酷く暗がりが支配する部屋で――時任は手のひらを目の上に当てて、言葉を失っていた。
 ――それで?
 葛西は思う。
「それで人やらドーブツやらを殺して・・・死ぬんだろうな」
 傷つくと分かっていて、わざとそんなことを言ってみる。
 実際、WAに冒された人間たちが、忘我状態であったことは確かだ。
 そしてその結果、周りにいた人間たちを殺したり傷つけたということも。
 ・・・だから、もしも。
「もしも俺がそうなっちまったら――」
 時任はわずかに手のひらをずらして、視線で葛西を見た。
 光のわずかに差し込むその部屋で。

「・・・頼むから、おっちゃんが殺してな?」

 ジジッとかすかな音。
 葛西ははっと我に返った。
 おそらくその様子は、時任には見えていないだろう。
 葛西は短くなった煙草を見つめながら、
「――そゆこた誠人に頼めよ」
「だってさぁ、そうなったら多分、久保ちゃんさ、」
 時任の表情に浮かぶ、わずかな笑み。愛しくて愛しくて、けれどどこか痛みを持った、小さな笑み。
 葛西はなぜか、焼け付くような予感を覚えた。
「多分――俺と一緒に死んじゃうから」
 
 葛西の中にはずっと、予感めいた構図がある。
 夢に見るとかありがちだとかそういうことではなく、もしかしたらという思いがある。
 その構図が、不意に鮮明に脳裏に浮かんだ。
 時任が立っている。
 血まみれだ。何処かを怪我している。
 その瞳は必死に何かを見ていて――
 その視線の先には、久保田がいる。
 久保田は力抜け切ったように時任の腕の中で、
 ――穏やかに笑っている。
 そんな構図だ。
 
 そしておそらく自分が辿り着いた時には、その構図さえ崩れて、
 自分だけが残っている。
 そんな淋しい絵だ。

「俺ねぇ、久保ちゃんには死んで欲しくない」
 俺がどうなったとしても。
 時任はまっすぐな瞳で、葛西を見て言う。
 ――誠人も同じことを言うだろうよ。
 葛西はその言葉を、必死に飲み込んだ。
「だってさ、俺がもし死んでも、絶対生まれ変わって、その時に、」
 ・・・たとえ人間じゃなくても。
「その時にもやっぱ――久保ちゃんに拾って欲しいから」

 それを何と呼ぶのだろう。
 葛西は知らない。
 これほどまでに強いモノを、葛西は知らない。
 愛と呼ぶほど嘘綺麗なものでなく、絆というほど大げさなものでもない。
 それよりももっとありふれていて、強くて、手あかにまみれているようで。
 ・・・葛西は知らない。
 ――結局は。
 結局は、自分はどうしたところで、ただの通行人に過ぎないのだ。
 例えば麻雀の中で、牌同士がぶつかり合って戦いを繰り広げる。打ち手は相手の顔色を探りながら闘う。
 人間は駒だとよく言ったものだが――
 自分はおそらく牌ですらない。
 その麻雀を、少し離れたところから見るだけの、ただの見物人だ。
 だから良くも悪くも、手出しは出来ない。
 観察者。
 誰が死んでも、誰が生きても、ただ、それを見届けるだけの。

「――行けよ、時坊。」

 葛西はトン、と煙草の灰を落とした。
「・・・え?」
 時任の声がする。
 葛西は背を向けた。
 朝日がゆっくりと高く上っていく。高く、高く。
 自分など、手の届かない場所へ。
「好きなところに行きやがれ」
「・・・おっちゃん?」
「――まったくお前らはよ・・・」
 いつか一人になるその日が来ても、多分自分は見届け続けるだろう。
 この少年がいなくなる日が来ても。
 そしてこの少年を誰よりも愛する、自分の甥がいなくなる日が来ても。
 それはおそらく予感ではなく。
 もしもそれが使命ならば。
「・・・葛西さん?」
「――心配すんな」
 葛西は背を向けたまま、煙草をはさんだ指を、軽く上げた。

「ちゃんと――見ててやるから」  

 ・・・・・・・・・うん。
 時任は小さくそう言うと、
 ――じゃあ帰るな、俺。
 多分いつもの笑顔を浮かべて、
 ――バタン。
 扉を閉めて、帰っていった。

 葛西は、窓を背にしてズルズルと床へ滑り落ちた。
 煙草を捨てた無骨な指で、無精髭だらけの顔を覆う。
 
 わずかに歪めた顔で、指の隙間からは――自分の部屋だけが見えて。
 
 そして指を伝った滴りは、
 きっと悲しみではなかった。


 (終)






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