ESCAPE



 ほんのちょっとだけなら、大丈夫と思った。

 ほんのちょっとだけドアを開けて、ほんのちょっとだけ外に出る。
 ふわりと暖かい風が吹き込んだ。新鮮で、柔らかい。
 俺は嬉しくなって、鍵も閉めずに部屋を出た。大丈夫。ちょっとだけだから。
 踏みしめるみたいにコンクリート色の階段を下りると、マンションの前にはセブンイレブンがあった。
「・・・コレ。」
 吸いもしないのに、何となく久保ちゃんがいつも使ってるものが欲しくなって、セブンスターを一箱買った。
 羽織ってきた久保ちゃんのシャツに入ってた千円札を差し出すと、ジャラジャラのお釣りが来た。100円玉と10円玉。
 手のひらで転がすと、ちょっとだけ鉄の匂いがする。
「ありがとうございました」
 機械的な店員の声を背に、俺は右手に煙草と左手に硬貨を握って店を出た。
 ちょっとだけ嬉しくて。
 久保ちゃんのシャツ着て久保ちゃんと同じもの買って、―――久保ちゃんと一緒みたいで。
 少しずつ足を進めて、少しずつマンションから離れる。
 ・・・久保ちゃんが知ったら怒るかな。もう戻ろうかな。でもあの電信柱まで。あのコンビニまで。あの曲がり角まで。
 そう思いながら、気が付くと結構賑やかなところまで来てしまった。
 周りはけばけばしい彩りをしたネオンと、土気色の顔をした人がひしめくように笑っている。
 目がチカチカして、俺は手袋の中の右手をぎゅっと押さえた。
 ―――もう、戻った方がいいかもしれない。
 そう思ったときだった。
 歩いてた男と、ガツンと肩が触れた。
「おい。」
 腕を掴まれるのと同時に降って来た不機嫌な声。
 引っ張られて俺は軽くつんのめる。
 嫌だな。久保ちゃんが言ってた、「カラむのが大好きな暇人さん」かな。
 ・・・何だよ。
 そう言おうとしたとき。
「お・・・お前は・・・ッ!!!」
 俺をみた男の顔が驚愕に歪んだ。
 ・・・え?
 俺は瞬間的に本能で腕を振り払った。
「いたぞっ、サンプルDだ!!捕獲!!捕獲しろッ!!!」
 人ごみの中から、わっと沸いてくるように男たちが現れた。 
 
 俺の手から、チャリンチャリンと100円玉が零れ落ちた。







 
 息を整えながら、汚れた壁に身をもたれた。
 通りから大分離れた裏路地。喧騒が遠くに聞こえることを確認して、俺はほっと息を吐いた。
 冷たい感触がじわりと指先に伝わるまでに、少しの時間を要する。
 いつの間にかぎゅっと握っていた右手を開くと、ぺしゃんこになった煙草がコトンと落ちた。
 右手は開いたまま、意識とは別に小刻みに震えている。
 それは次第に体へと広がっていって、痙攣みたいにガタガタと歯がかち合った。
「―――っ・・・」
 俺はズルズルと地面へへたり込んだ。
 吹く風は生暖かいのに、それでもアスファルトは冷たい。
 その冷たさにぼんやりと身を任せながら、俺は足元へ流れる紅い液体を見た。
「血・・・」
 先ほどの闘争で、何処か撃たれたのだろうか。そう言えば脇腹辺りに振動を感じたような気がする。
 見ると、なるほど掠めたようにシャツが千切れていた。
 ―――久保ちゃんのシャツなのにな・・・
 黒のシャツに紅い血がしみこんで、ますますどす黒く色を変えていく。
 ちょっと勿体無いな、と思った。

 ―――ほんのちょっとだけなら。
 そう思ったのがまずかった。
 
「はぁ・・・・・」
 闇雲に逃げたせいで、帰り道などとうに分からなくなっていた。
 しかも夕闇は次第に視界を覆い、自分がどこにいるのかも把握しにくくなってくる。
 大きな通りに出れば、それでも分かるかもしれなかったが、今目立つところに出れば、さっきの男たちにまた追いかけられることは目に見えていた。
 追いかけられるのも、逃げるのも、もう嫌だ。
「・・・うあ、止まってねーじゃん」
 脇腹を探れば、だんだん暗くなりつつある視界の中で、どす黒い液体はべっとりと手のひらに付いた。
 全然血がとまらない。異常なほどに。
 もしかすると先ほど撃たれた弾は特殊弾だったのだろうかと考えて、ため息をついた。
『猛獣を飼うにはそれなりの鞭が必要だ』
 「組織」にいた頃、そんな話をおぼろげに聞いたことがある。
 その特殊弾が「鞭」であったとしても、おかしくはない。
 ―――とすると、このまま何の処置も施さなかった場合。
「俺、ひょっとして死ぬ?」
 そんな当たり前のことに、ようやく気付いた。
 とりあえず、よいしょと体を起こす。痛みはない。それも特殊弾の効果なのだろうか。
 実際血が流れ出さなければ、きっと傷にも気付かなかっただろう。
 左手をおもむろに開くと、体温にぬくもった10円玉が、光を跳ね返すこともなく転がっていた。
 逃げるときに落としたせいで、数はあまりない。
「1,2,3・・・30円かよ」
 30円。
 ・・・5円チョコだって6個しか買えやしねぇ。
 心の中でそう毒づく。

 段々と冷えていく街で、血の温もりだけは確かだ。
 この血には血でない何かも流れていて、だからこそ俺は追いかけられたり殺されかけたりするのだろうけど。
 ・・・その結果大量出血で死ぬなんて、馬鹿らしい。
「・・・あ?」
 よろめきかけた俺は、視界の端に光を見つけた。50メートルくらい路地を奥に入ったところにある光。
 それが何なのかを見とめるまでに、また少し時間がかかった。
 
 公衆電話。

 いわゆるボックスではなく、煙草屋の電話みたく軒先みたいなところにドンと置かれている。
 置かれているのは酒屋だろうか。閉まっているのか、電話の周辺を除いては灯りはない。
「あ・・・」
 俺は手元の硬貨を確かめた。増えもせず減りもせず30円。
 5円チョコ6個分。 
 ・・・でも、これなら。
「携帯にかけれるかも」
 久保ちゃんの携帯電話。
 家の番号は覚えてないけど、それだけはしっかり覚えていた。よく帰りが遅いときにかけるから。
 俺は血が流れてるのも忘れて電話にかけよった。大丈夫。使える。
 衝動的に30円を投げ込もうとした俺は、そこではたと我に返った。

 ―――電話?
 久保ちゃんに電話かけて、どうするつもり?

 ・・・出逢って1ヶ月ほどの、俺とは何の関係もない男に電話して、一体俺は何を話そうというのだろう。
 「助けて」とでも言うつもりだったんだろうか。
 この俺でさえ逃げ切るのに必死だった奴らの眼をかいくぐって、助けに来てくれって?
 俺の頭は急速に冷えていった。
 指先で10円玉をかざしたまま、空白の時間を逡巡する。
 だいいち久保ちゃんだって、拾っただけの俺にわざわざそんなことしてくれるなんて思えない。
 ・・・面倒くさがりだし。
「どーしよ・・・」
 その間にも確実に気温は体温を奪い、そしてそれ相応の血液は流れ出している。
 人の命がどれくらい持つのかは知らないけれど、少なくともこのまま夜明けを迎えたら確実に死ぬだろう。
 
 『出逢って1ヶ月ほどの、俺とは何の関係もない男』

 そう形容してみて、初めて気付いた。
 俺と久保ちゃんの繋がりは滅茶苦茶薄い。
 前に俺を診てくれた「コウ」って人は久保ちゃんと長い付き合いみたいだったけど、俺なんかまだ会って1ヶ月やそこらだし。
 久保ちゃんが優しいから、久保ちゃんの傍があんまりにも居心地いいから、ずっと前からそこにいた気になってた。
 俺はさっき落とした煙草を手のひらから灯りの元にさらした。
 くしゃくしゃだけど、何故か捨てられなくて拾い上げてしまった煙草。
 久保ちゃんの大好きなセブンスター。
 時々コンビニで買ってくるアイスクリームやガムやビールの種類なんかはいつもまちまちなのに、これだけはいつも変わらない。
 『何でもかんでも飽きやすいから。』
 自分でそう言ってたっけ。
 飽きやすいのに、いつも同じなのは、やっぱ久保ちゃんはセッタが好きだからで。
 久保ちゃんが唯一「飽きない」モノなんだろうな、多分。
 ちょっとだけ、いいなと思う。
 ・・・こんなにくしゃくしゃになっても、コイツは求められてるんだ。

 ―――チャリン

「・・・・・あ。」
 手が滑って、10円玉が電話機に入ってしまった。
 手が冷たくなっていたせいで、力が入らなくなっていた。
 続いてチャリン、チャリンと10円玉が飛び込む。
 覚悟が出来ていないままに事態だけが動いてしまっていて、俺はちょっと混乱した。
 受話器を取って耳に押し付けると、聞きなれた一定の電子音が聞こえる。
 ・・・もう、どうにでもなれってやつだな。
 俺は腹を決めた。
 ピ、ポ、パ、とゆっくりと番号を押していく。
 背後から冷たい風が頬を撫でて、俺はぎゅっと受話器を握り締める。
 血がついている右手がぬるりとした。

 トゥルルル・・・トゥルルル・・・トゥルルル・・・・・・・・プツッ

「はい。もしもし?」

 乾いた呼び出し音がして、久保ちゃんの声が聞こえた。いつもの声だ。
 どこか壁か何かの近くにいるのか、ちょっとだけ声が響いている。
 変わらないのんびりとした声に、俺は言う言葉が見つからなくて戸惑った。
「・・・・・・・・・・・・・ぁ・・・・・・・・・・・・・・」
「時任?」 
 久保ちゃんは耳聡く聞きつけて、尋ねる。
 どうしよう。何言おう。
「久保ちゃん・・・今、外?」
「うん。出てるけど。・・・時任は家じゃないね」
 当り障りのない言葉に、当り障りのない返事が返ってくる。
「公衆電話でしょ、そこ」
 それでも久保ちゃんは「何処?」なんて尋ねたりしない。
「うん。そう」
「何してんの?」
「ちょっと・・・お使い」
 セッタ買っちゃった。
 そう言うと、電話の向こうの久保ちゃんは「ふうん」って相槌をくれる。
 いつも話してる調子と変わらない、平穏な雰囲気。 
 そんなことを話してる場合じゃないのに。30円で携帯相手じゃ、時間はあんまりない。
「あのな、久保ちゃん・・・」
「ん?」
 『助けて』
 どうしてもその一言が出てこない。
 意地じゃない。久保ちゃんと俺の繋がりが薄いからでもない。ましてや、無理だからと諦めてるわけでもなく。
 ―――このまんま死ねるなら、それもいいかな。
 そんな考えが頭の中を占め始めていた。
 目を閉じて、久保ちゃんの声だけが聞こえて、他には何もないけど、でも。
「・・・ちょっと幸せかも。」
 久保ちゃんの声聞きながら死ねるっていうのは。
 そういいながら、本当に足の力が抜けていくのが分かった。
 がくっと膝を付くと、自分の血が作った血だまりがぴしゃんと跳ねた。
 それでも俺は受話器を離さずにいた。
「質問していい?」
 受話器の向こうで、久保ちゃんがのんびりした声をあげる。
 その声もどこか遠いようで近いようで、いよいよ耳もイカれてきたかと俺は苦笑した。
「何?」
「どーして時任さぁ・・・」
 遠いようで近いようで、まるで受話器越しじゃなく直接話し掛けられてるみたいで・・・・・・って、え?

「おつかいにいって血まみれになってんの?」

 その声は、確かに受話器越しなんかじゃなく。 
 よくよく耳を澄ませれば、受話器はとうに役割を終えて、ツーツーと電子音が鳴っている。
 それは背後から伸びた誰かの手が受話器置くところをガチャンと押さえているからで、
 いつからそうだったのか俺は知らない。

 ・・・ただその腕に纏わりついた、背後からも分かる嗅ぎ慣れた煙草の匂いは。

「久保ちゃん!!」
「・・・や。」
 イキオイよく振り向くと、薄明るい灯りの元、久保ちゃんがいた。 
 ・・・耳に携帯電話を当てて。煙草咥えて。 
「・・・・・・ニセモノ?」
「いや、本物だし」
 頬をつねってみるが、意外と痛かった。
 これが現実だとすると・・・じゃあ・・・
「久保ちゃん、いつから居たの・・・?」
「え?さっきから。」
「な・・・ッ・・・!!!」
 あまりのことに、俺は唖然とする。
 さっきから? じゃあ、俺ってばすぐ近くにいる久保ちゃんに電話してたのか?
 ってか久保ちゃんも言えよ!!
 何か言い返したかったけど、口がパクパクしただけだった。
「あ。とりあえず―――と。」
 久保ちゃんは俺を軽く引き寄せると、自分のコートを脱いで地面の上に広げた。
 その上に俺を横たえる。
 そして、脇腹辺りの傷を確かめるようにシャツを引きちぎると、眉もひそめずにそれに唇を当てた。
「うあ・・・ッ!! ちょ、ちょっと久保ちゃん、何して・・・」
「撃たれたんデショ?ココ。」
 そう言いつつ、ポケットから小さい瓶のようなものを取り出して、口に含んだ。
 それをゆっくりと傷に馴染ませるようにして吐き出していく。
 そのとき俺は初めて久保ちゃんのコートが血まみれなのに気付いた。
 俺の血じゃない。ある程度乾きかけた血だ。
「コレ・・・」
「ああ、返り血」
 何気なく久保ちゃんはそう言うと、ズボンに引っ掛けてたソレをゴトリと地面に置いた。
 ―――銃。
「時任追っかけてた奴ら、全員殺してきたから」
 変わらない口調で久保ちゃんはそういうと、笑みを浮かべて傷口から顔を上げて、俺を見る。
「だから、もう心配しないでいいよ?」

 ぞくり。

 俺の背中を、何か寒いものが走った。 
 俺は思わず跳ね起きると、反動でよろめくのも構わずに叫んだ。
「何で・・・何でそんなことするんだよっ!!!」
 その言葉に、ほんの少しだけ久保ちゃんの表情に戸惑いが表れる。
「え?・・・でも時任、殺して欲しかったんでしょ?」
「そりゃそうだけど!!」
 ・・・それはそうなのだ。確かに。
 追いかけられるなんてゴメンだし、正直そうでもしなければ俺は助からなかっただろう。
 だけど―――だけど。
 コートでなく久保ちゃんの手が血まみれになってしまったようで。
 そうさせてしまったのが自分だと分かったから。
「だけどさぁ・・・・・・・・」
 久保ちゃんは時々子どもみたいだ。凄く無邪気で、飽きやすくて。
 だけど煙草一本でも好きな物を取り上げられたら、相手を嬲り殺してでも取り返すんだ。きっと。
「時任は人殺しの俺は嫌い?」
「嫌いじゃねぇよ!!でもさ・・・・・・」
「でも、何?」
「でも・・・・・・・・・・・」


 ああ。分かった。ダメなんだ、この人は。
 誰かが傍に居て、「もうやめなよ」って言わないと、自分が血まみれになることも厭わない人だ。
 俺が居てやんないと、ダメなひとだ。


 気付くと、涙がぽろぽろ溢れていた。
 誰かの前で泣くなんて初めてだった。
「時任・・・?」
 俺は、人殺しをする久保ちゃんが嫌いなんじゃなくて、
「久保ちゃんが人を殺すのが、嫌なんだよ」
 そういうと久保ちゃんは、うん、と頷いた。
 そして無言のまま傷に唇を当てると、また薬を口移しし始めた。
 それもきっと奴らから奪ったものなのだろうけど、俺はもう何も言わなかった。
 ただ次第に疼き始める傷に痛みを堪えながら、ネオンの映らない空を見上げていた。
 真っ暗で透き通っていて綺麗な夜空は、まるで久保ちゃんのようだと思った。

「久保ちゃんは俺のモンだから」
「じゃあ時任も俺のだね」
「・・・俺、ずっとここにいるかんな」
「え?でもアスファルトの上、風邪引くよ?」
「ちっげーよ!! 俺が言ってんのは・・・・・・・・!!」

 
 だからどうか、君の傍で。
 逃げた先が楽園でなくとも、・・・俺は。  







 (終)






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