"R"



『おい、この少年がそうなのか?』
『ああ、実験体にはいい素材だろ。』
 耳元で聞こえた声に、うっすらと目を開く。
 白い服を着た人間が、自分の横に立っていることに気付いた。
 ぼんやりとした思考と視界が、喘ぐ時任の吐息に重なるように、意識を妨げる。
 眩しい光に目を奪われる。無影燈だ。
 これから手術でも受ける患者のように、全裸で寝台にねそべっている自分に気付く。
 ―――俺、死ぬのかな?
 不意にそんな考えがよぎった。
『確かにな。うってつけの逸材だ。・・・さぁて、どんなふうになるのやら・・・』
『前回も前々回も失敗しましたからな。今度こそ・・・』
 不意に、チクンとした痛みが、時任の感覚を急醒させた。
 右腕に突き刺さるような痛み。
 ぼんやりした意識が、目覚めるように晴れていく。 

 自分。
 俺。
 時任稔。
 生きてる。
 イキテル。
 ・・・生きている。
 何かが刺さっている。
 チュウシャ。注射。
 熱い。暑い。右手が。体中が。
 血が沸騰するように。アツイ。
 ・・・俺、死ぬ?
 死ぬの?

 ・・・嫌だ。

 ―――がばっ。
『う・・・うわぁあああああッ!!!』
 白衣を着た男が、起き上がった自分の姿を見て怯えるように後ずさった。
 時任はそれを見ないフリして立ち上がろうとし、余計にずらずらとくっ付いたコードを引きちぎる。
 血管が千切れるみたいな、嫌な音がしたけど気にしない。
 その部屋に一つしかない扉を蹴り開けると、そこで自分が裸だということに気付いた。
 皆同じ服を着ているので、その中の一人を殴り飛ばして服を奪う。また『外』に出られたら新しく買えばいい。
 廊下に出ると、待ち構えた白衣の男たちは、人数とは裏腹に誰もが恐怖に彩られた顔をして、時任に道を開けた。
 どこに行けば『外』に出られるのかは知らないけれど、きっと、こうやってたどり着く場所は、あの無影燈の下よりマシだと思った。
 ―――ジュワ。
 痛みを感じて右手を見る。
 なぜか真っ赤に焼け爛れたその右手は、見たこともない様相へと姿を変えていた。
 ・・・まるで獣だ。生を貪るだけの。
 そんなことを思った。
 規則のようにはめられた手袋を一つ奪うと、時任はそれを自分の右手にはめる。
 革が焦げるような嫌な匂いがしたが、それも気にしない。
 自動式の扉を通ると、途端に警告音がなり始めた。

 ビーッ ビーッ ビーッ・・・

 その警告音の中、時任は何気なく空を見上げた。
 寒い夜で、息を吐くと白く濁って空に溶けた。
 暗い、暗い空だった。
 ただそこに浮かんだ月が、嘲うかのように自分を見下ろしていた。

 丸くて白い、大きな月が。










 カシャン、と耳障りな金属音がする。
 後ろ手でフェンスを握り締める手のひらに力を入れると、おおかた錆びているのか、塗料が剥げて手にこびりついた。
 じわり、と汗がにじむ。
 足元を見下ろすと、ずっとずっと小さなイキモノが、ちょこまかと動いているのが見えた。
 自分が巨大化したわけでも、小人の世界に来たわけでもないのに、なぜか俺はそれを異界人でも見るかのような目つきで見ていた。
 自分と同じ姿をした、「人間」というイキモノを。
 ふう、と吐息が漏れた。
 ・・・マンションの屋上。
 ひゅうひゅうと吹きすさぶ風は、まるで俺を後押しするように強引だ。
 フェンスに囲まれた向こう側ならともかく、申し訳程度に作られたフェンスのこちら側では、おそらく手を離してしまえば、あっという間に自分など吹き飛ばされてしまうだろう。
 自分の命を繋いでいるのは、右手。
 あまりにも皮肉な現実に、思わず笑い出してしまいそうになる。
 黒い手袋に隠れた獣の右手は、自分があやうく『彼ら』のせいで死にかけた証であるというのに。

 『今日』に限って、久保ちゃんは帰ってくるのが遅かった。
 空を見れば、丸い月が自分を見下ろしている『今日』。
 ―――オオカミ男でもねぇのにな。
 そう呟いて、俺自身がそれと何ら変わりないことに気付く。
 ただ違うのは、自分がそれらと違って、月の光を浴びたからといって暴れ出すわけではないということ。
 むしろ逆だ。
 満月の日は、どうしようもなく気が滅入る。
 この真っ白な、自分など存ぜぬといった月を見るたびに、自分が獣になってしまった日のことを思い出す。
 ・・・だから、なのだろうか。
 「出るな」と言われていたマンションの一室を抜け出し、誘われるように屋上へと上がり。
 月に魅せられるがごとく、フェンスを越えてしまったのは。
 
 俺は、右手のフェンスの感覚を確かめる。
 そうして見下ろす地上は、近くも、遠くも見えて。
 ―――死ぬってのも、同じことなのかな。
 そんなふうに、思う。

 たとえば今、「生きている」として。
 「死ぬ」ことは、きっと近くも遠くもないことだ。
 逆に、息が届くほど傍にあるかと思えば、眩暈がするほど遠くに思えてしまうこともある。

「なぁんだ」

 その声に、一瞬俺は息を呑んだ。
 間延びするような、煙草を吸うわりにはあまりしゃがれていない、低い声。
 振り返る間もなく、周りの空気が違う流れで動く。
 ―――トン。
「こんなところに居たの?」
 さがしたんだよ?
 気付けば、久保ちゃんは俺のすぐ隣、つまり俺から見て「フェンスのこちら側」にいた。
 声を上げる一瞬の間に、フェンスを飛び越えて来たんだろうか。
「久保ちゃん・・・!!」
「や。」
 思わず声を上げれば、久保ちゃんはフェンスを掴むこともなく突っ立って手を上げる。
 伸ばした髪が風になびいて、今にも吹き飛びそうに見えた。
「うわ〜・・・さっすが高いねぇ・・・」
 そう言って、まるで鍋の中を覗き込むような仕草で地上を見下ろす。
 俺は、フェンスから手を離せずにいた。
 ―――怖いからではなかった。
「久保ちゃんも・・・怖くねぇの?」
 そう尋ねると、黒いコートを着た久保ちゃんが振り向いた。
 満月がそれを照らし出し、まるで死神のようにも見える。
「怖い?・・・この高さがってこと?」
「うん」
 子どものようにこくりとうなずくと、さてね、と久保ちゃんは目を細めた。
 そして、自然な仕草で煙草を取り出すと、風が入らないように気を付けて火をつける。
 まさか付かないだろうと思った火は、あっけなく煙草の先に残った。
 ふう、と煙を吐き出す。
「・・・時任は?・・・怖いの?」
 その言葉に、俺は一瞬顔をこわばらせる。
 だがすぐに、ふるふると首を横に振った。
「やっぱ、怖ぇのかな、普通は・・・」
 一言を区切るようにつぶやく。
「さぁ、どうだろうね。」
 俺は怖くないけどね。
 そういって、久保ちゃんは煙草を手に持ち替えると、トントンと器用に灰を落とす。
 それはあっという間に風の濁流に飲み込まれ、跡形もなくなってしまう。
「俺、『普通』じゃねぇのかな・・・・・?」
 俺は流れていく灰を目で追いかけることを諦め、自分の手に目をやった。
 
 いまだ、フェンスを掴んだままの右手。
 黒い手袋はいい加減あちこち傷んでいて、きしむ。
 その中には―――その、手袋の中には。
 明らかに自分が『普通』ではないという、証拠が汗ばんでいる。

 怯えたのは、一歩踏み出せば「死」にまっ逆さまなこの場所で、少しも怯えることのない「自分」。
 ・・・獣と化してしまった「自分自身」。
 
「・・・・死にたいの?」
 穏やかな問いが紡がれる。
 死にたいのかどうなのかなんて、俺には分からなかった。
 むしろアノ時―――完全に『獣』になっていれば、こんなふうに苦しんだりしなかったのかもしれない、なんて思う。
 それは確かに死への渇望にも似ていた。
 昔、虎になってしまった男の話を読んだことがあるけれど、自分も似たようなものだ。
 生きていることに固執するがあまりに狂い損ねて、生と死の狭間でゆらゆらと浮いている自分も。
「そーなのかも。」
 正直に答えると、久保ちゃんは煙を吐き出した。
「なんで?」
「・・・・・わかんない・・・・・・・・」
 そう言って、フェンスを握る手に力を込める。 
 それは、飛び降りるまいとする仕草にも、いざ飛び降りようとする仕草にも見えた。
 
 自分は、どうしたいのだろう。
 どこへ、行くのだろう。

 ―――ぎゅ。

 右手に力を感じて、俺は振り向いた。
 獣の手の、その上を覆う手袋の。その上から確かに伝わる、ぬくもり。
「久保ちゃん・・・?」
 フェンスに絡められた右手の上に添えられたのは、久保ちゃんの手だった。
 力が抜けてしまうような気がして、慌てて左手でフェンスを掴む。
 それを見て、久保ちゃんはゆっくりと右手を握りなおした。
 
「お前が落ちたら、俺も一緒に落ちるから。」

 そうして笑みさえ浮かべて、俺を見る。
 もたれたフェンスがギシッと鳴いたかと思うと、久保田は手を繋いだまま、一歩足を進める。
 ひゅう、と風が吹いた。
 ・・・俺は、久保ちゃんから目が離せなかった。
 ―――どうして。・・・どうして・・・?
「酷ぇ・・・そんなの・・・・・・・・・」
 声が、上ずるのが分かった。
 久保ちゃんが、自分を見ているのが分かっていた。
「死ねるわけ、ねーじゃんか・・・・・・・・・」
 身をよじるように、久保ちゃんがいないほうへ顔を背けると、途端に涙があふれた。
 嬉しいんだか、哀しいんだか、自分でも分からなかった。
 ただ、久保ちゃんを死なせたくないと、それだけを思った。
「かもね。」
 笑みを絶やさずに答える久保ちゃん。
「でもね、俺もー決めてるから。」
「・・・?」
 不可解な言葉に、思わず振り向いてしまう。


「                   」


 何を言ったのか―――俺はそれを、耳ではないところで聞いていた。
 ・・・久保ちゃん?


「・・・だから、落ちるんなら一緒に落ちましょうや。」

 ―――・・・一緒に。


 次の瞬間、強い風が吹いた。
 俺の体が、それにあおられてグラリと揺れる。
 俺はその時、確かに一瞬浮かび上がって、そして・・・
 ―――どくん。
 屋上から、地上を見た。
 何もない、自分の足元を見た。
 右手に、温もりを感じた。

 ・・・怖い。

 がしっ。
 自分の手を引き寄せたのは、右手だった。
 右手に絡められた、もう一つの左手。・・・久保ちゃんの。

 気付くと俺は、ガタガタと震えながら久保ちゃんにしがみついていた。

「ほーらね。怖くなったっしょ?」
 さっきと同じ笑みを浮かべて、久保ちゃんは言う。
 憎らしさも覚えなかった。
「・・・・なんで・・・・・・・・・・・・・?」
 あれほど怖くなかった高さ。屋上から見下ろす景色。
 さっきまでは、このまま飛び降りることさえできると思っていたのに。
 さっきまでは、全然怖くなかったのに。
 ・・・さっきまでは。
 ―――ぎゅ。
 不意に右手の感触を思い出した。
 まだ、繋がっていた。

 ・・・そうか。

 一人で生きていると、死ぬのはそれほど怖くない。
 誰もいないと、この小さな命を費やすことは難しくない。
 たとえばこんなふうに誰かの手を握っている方が、
 ずっとずっと、死ぬのは怖い。

 だって、「誰か」の傍にいたいと、思ってしまったから。
 そしてこの手は、死なせたくない「誰か」の命も握っているわけだから。

「久保ちゃん・・・」
 抱きついたそのままで声を出すと、それは妙にかすれていた。
「ん?」
「俺、ココア飲みたい。」
「うん。」
「久保ちゃんと連ドラ見たい。」
「うん。」
「ゲームして、今度こそ久保ちゃんに勝ちたい。」
「・・・・・・・・・それは無理かもね。」

 たとえば俺が獣でも、
 たとえば今日が満月でも、
 ・・・たとえばここが、生と死の間でも。

「久保ちゃん。」
「うん。」
「俺、生きたい。」

 それでも久保ちゃんは俺の傍にいる。
 ・・・違うかな。
 うん。
 久保ちゃんは、じゃなくて。
 ・・・『俺は』、久保ちゃんの傍にいるから。

「・・・・・・・・・・・・うん。」

 久保ちゃんは、初めから全てを悟ってた、みたいに笑った。
 いつも、こうだから。
 俺が泣いて、わめいて、久保ちゃんにむしゃぶりついて。
 でも結局、久保ちゃんは最後にこうして俺の体を抱きしめてくれる。
 『時任のことくらい、お見通しだよ』って目で、笑ってくれる。
 そうすると凄く温かくて、
 俺はちょっと、安心する。

 ・・・ちょっとだけ嫉妬したりもするんだけど。
 だって俺のことばっか久保ちゃんに分かって、俺は全然わかんないから。

「じゃ、とりあえず帰ってココア入れて連ドラ見てゲームして・・・」
「久保ちゃん・・・」
「ん?」


『俺は、時任と一緒に死ぬって決めてるから。』


「・・・・・・・・・・ありがと。」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ん。」



 月が、満月が僕らを照らしていた。
 生と死の狭間で、僕はそれを見ていた。
 あの時、警告音の中であれだけ怖いと思った真ん丸の月は、
 君の腕の中で、ちっとも怖くなかった。

 ・・・初めてその光を、綺麗だと思った。

 (終)






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