Kiss me,Baby.



「・・・綺麗な空だねえ」
 君の瞳が窓の外に向いた。
 煙草の煙がゆらりと青色に揺れ、ほんの少しだけ色を掠めて。
 君は笑みを浮かべたまま、俺に手を伸ばす。
「ね、ちょっとカケオチしてみようか?」
 俺は思わず、その手を取った。




 人気のない四階。
 既にチャイムが鳴った後の、何処か閑散とした雰囲気さえ漂う、空き教室。
 時々に吹き込む秋の風。
 パタンパタンと咥え煙草で自分の前を歩く、その後姿に、思わず時任は呟いた。
「・・・って、ただのサボリじゃん」
 その声に、くるりと久保田が振り向いた。
「・・・へ?」
「駆け落ちって、ただのサボリじゃねえか」
 ほんの少し責めるような視線で見上げると、とぼけたように眼鏡の奥が見える。
「・・・そうだけど?」
 その言葉に、予想はしていたけれど、ガクッと時任は膝をついた。
(別に何か期待してたわけでもねーけどさ・・・)
 思わずぶつける言葉もなくて、足を止めた久保田を見やれば、先ほどと少しも変わらない飄々とした顔をして、時任を不思議そうに見ている。
 ――そう、別に何を期待していたわけでもない。
 ただ単に、午後の授業はほんの少しつまらなくて、
 空がほんの少しだけいつもより綺麗で、
 その空を見上げた久保田が――ほんの少し嬉しそうにそれを見上げたように見えた、ただそれだけのことだ。
 ただそれだけの。
「どしたの、時任?」 
「何でもねーよ、別に」
「ふうん・・・」 
 呟いて、また歩き始めるかと思いきや、しゃがみこんだ自分と同じ視線まで、腰を下ろした。
 窮屈そうな足。
 それが自分との足の長さを示しているようで、時任はむっとした。
 久保田はそんな時任の瞳を覗き込むようにして自分の顔を近づけると、
「カケオチ、期待した?」
「・・・なッ、何言ってんだよ!?」
「――ね、カケオチ、したかった?」
 時任が目を逸らす暇さえも与えず、久保田はじっと時任の瞳を見た。
 みるみるうちに、時任の顔が真っ赤になっていく。
「べ、別に俺は・・・ッ」
 そこまで言い捨てると、ぐいっと久保田を睨む。
「んなの、したいわけが――」
「・・・そっか」
 時任の言葉を途中まで聞いた久保田は、納得したようにつぶやくと、時任の手を引いて立ち上がった。
「おいで。カケオチしよう?」
 その手を取ってすたすたと廊下を歩きはじめる。
 強引に手を取られた時任は、二、三度つんのめって、
「わッ、ちょっ、あぶねえじゃんかッ!」 
「だってカケオチだもん」
 意味のよく判らないことを言いながら、久保田は時任を振り向いてわずかに口元を上げる。
 時任は慌てて目をそらした。
 ――何に、期待したわけでもない。
 その笑顔は、本当に、綺麗で。
 ムカつくくらいに格好良くて。


 がらり、と扉を開けると、その部屋には人の気配が無かった。
 扉のプレートには、白地に黒で「音楽室」の文字。
 3年生は基本的に芸術の時間が無いので、音楽室に入るのは2年生の芸術の選択授業以来ということになる。
 時任は、淡い色をした、床とは違うふみ心地の絨毯に足を踏み出した。
「誰もいねえのかな?・・・先生とかさ」
「うん。いないみたいだね」
 きょろきょろと見回す時任とは対照的に、久保田はその時任の手を握ったまま、平気で部屋の中に入っていく。
 とりあえず、授業には使われない時間帯のようである。
 音楽準備室へ続く扉にも首をつっこんで見るが、やはり無人だ。
 音楽室は、基本的な構造はホームルームと同じなのだが、普通なら教卓があるあたりのスペースに大きなグランドピアノが置かれている。
 黒光りさえするそれは、音楽の時間でさえ眠りこけていた久保田と、それに便乗してほとんど口パクで歌っていた時任には無縁のものだったが、こうして誰もいない教室で見てみると、やはり大きい。
 蓋は開けっ放しになっていた。教諭でも使ったあとの、そのままなのだろう。
 しかし誰もいないというのは好都合だ。
 つまり、サボるにはもってこいの場所というわけである。
 だが、何を考えたのか、久保田は時任の手を離すと、グランドピアノの傍まで歩いていった。
「どしたの、久保ちゃん?」
「・・・いや、折角だからさ、」
 咥え煙草をしたままで、久保田が指を一本ピアノの上に置いて、ポーンと音を出した。 
「カケオチの記念にピアノでも弾こうかと思って」
「・・・はぁ?」
 唐突な言葉に時任が目を丸くする。
 久保田はピアノの椅子に腰掛けた。
「き、記念?」
「――そ。折角だから」
「折角だからって・・・」
 時任は開いた口が塞がらない。
 駆け落ちの記念なんて、聞いたこともない。
「だってさ、滅多にカケオチなんてしないじゃない?」
「いや、頻度を聞いてるわけではなくて」
「なんかいいじゃない、カケオチの記念」
「・・・よくねえよ」
 つーかさ、と時任が繋げる。
「久保ちゃん、駆け落ちって意味判ってんのか?」
「愛する者どーしが人生をより良く生きるために奔走するコト」
「・・・合ってるよーな違ってるよーな・・・」
 とぼけたような久保田の物言いに、はあ、と時任は息をついた。
 これを聞いていたのが桂木なら、まず間違いなく『全ッ然違うわよッ!!』と暴れていたところだろう。
 久保田は指をもう一本キーの上に置くと、また一つ音を鳴らした。
 その音に、時任がふと思い出したように久保田を見る。
「そういや、久保ちゃんってピアノ弾けたんだ?」
「まーねー。一通りは習ったから」
 そう言いつつ、久保田は右手と左手、両方を乗せる。
 えーと、と位置を確かめると、勢い良くその指が動き始めた。
 途端、部屋の中に旋律が流れる。
 とても聞き覚えのある、時任でも題名の判る楽曲だ。
「あ。『エリーゼのために』だ」
「あったり〜♪」
 そのまま弾き続け、一つの曲が終わる頃には、時任の目は久保田の指に釘付けになっていた。
 まるでそれ自体が一つの生き物のように動く指。
 それは自分に触れるときのそれとも、煙草を取るときのそれとも違っているようで――正直、嫉妬した。
「・・・はい、オシマイっと」
 最後のキーを叩くと、気だるそうに久保田は背伸びをした。
「あー、何か久しぶりに弾いた気がする」
「すっげぇ・・・久保ちゃん、実は楽器類、得意だったりする?」
「得意って程でもないよ。この曲だって簡単な部類だしね」
「うっそ・・・」
 時任の眉が歪む。
「でもさ、こんなに巧いんだったら、今でも弾けばいいのに」
「んー、別に好きなわけじゃないから、ピアノ」
「じゃあ何で習ってたの?」
 そう尋ねた時任は、煙草を咥えて天井を仰ぐ久保田の表情にどきりとした。
 ――まただ。
 また、あの表情をしている。
 どくどくと心臓の鼓動が早まるのが判った。
「そうだねえ・・・ま、一通りは習わされたからさ」
 久保田は口元に笑みを浮かべたまま、天井に向かって煙を吐いた。
 笑って居るくせにどこか寂しげで、それなのにその正体を尋ねることを憚られるような、そんな表情。
 それはきっと、久保田の過去に由来しているのだろう――と時任は思う。
 自分の知らない久保田。出会う前の、そして決して語ろうとはしない、彼の過去。
 聞きたいけれど、ついぞ今まで聞いたことはない。
 そしてそんな表情を見るたび、すぐそこに久保田が居るのは判っているのに、『ハイ、ここまでね』とガラスの境界線でも引かれたような、そんな孤独感を感じてしまう。
 そしてそれを感じると、自分は久保田の傍になど居ないのだと実感する。
 とても、とてもその姿が遠くにあるような、そんな錯覚を覚える。
「久保ちゃん・・・、」
「――多分、ねえ、」
 不意に浮かんだ沈黙に耐え切れずに吐き出した時任の言葉に重なるように、久保田がぼそりと口を開いた。
 まだ笑っている。椅子に腰掛け、天井を仰いで。
 仰いだその顔を、時任は真上から見た。
 その瞳が自分を捉えるのが、時任には判った。
「多分ね、こーして、いつか時任に聞かせるためだったんだよ」
 そうして、笑う。
 自分にだけ聞える声で言う。
 そうすると――もう、
 "そんな莫迦なこと言ってんなよ"なんて、笑えない。

 時任の喉の奥が、ずくり、と熱くなった。

 それは嘘かもしれない。
 単なる彼の逃げ口上かもしれない。
 そして本当に、自分は久保田の傍なんかにいないのかもしれない。
 ――それでもいいと思った。
「時任とカケオチしたときの為に、ね」
 自分に笑う、その人がいるなら。

 すべてを、
 久保ちゃんに繋がるすべての過去を取り除くことなんて出来ないけれど、
 それでもせめて、傍に居ることで、傍にいる振りをするだけでも、
 俺が"逃げ口"になれるなら。
 それだけでも、こうして笑ってくれるなら。

「・・・莫迦」
 時任はぐっと喉の奥の熱さをこらえると、久保田の咥え煙草を指で取り上げた。
 そして、その天井を仰ぐ顔の、その唇に、自分のそれを近づけた。
 少しだけ、驚く雰囲気があった。
 唇を離そうとすると、自分より少し大きい手のひらが、頭を離すまいと押さえ込んだ。
 ぐい、と唇が重なり合う。
「・・・ん・・・」
 かすかな吐息が漏れた。
 何度か向きを変えて、だんだんと舌を絡めて――意識が混濁する。
 息をつこうと唇を離したときには、目の前が薄く霞んでいた。
 久保田は息一つ切れていない。
「久保ちゃ・・・息、続かねえよ」
「だって時任からしてくれるなんて久しぶりだったんだもん」
 つい嬉しくって、と久保田は悪びれもせずに言う。
 そして今度は真正面に向いた時任を、いつものように引き寄せた。
「時任って不器用だよね」
 間近にある瞳が、ほんの少しだけ、その視線が揺らいだ気がした。
 でも、と口を開く。
「――ありがと?」
 おどけたように首をかしげて、軽い口調で、
 全然軽くはない瞳で。
 
 彼は、笑った。

 うん、と俺はうなずいた。
 光が差し込んでいた。
 冷たくなり始めの風が吹き込んでいた。
 俺は視線をわずかに逸らしたまま、何も言えなかった。
 ――いとしいだとか、愛だとか、そんなことはよく判らないけれど。
 痛みにも似た何かが、じわりと心に染み込んで行く。

 好きだよ、
 久保ちゃん。貴方を、きっと誰よりも。

 好きだよ、泣きたくなるくらいに。

 

 

 


 (終)






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