ある一つの小さな崩壊



 誰かが言った。
 "人間は、獣に成り損ねた神である。"
 

「久保ちゃん」
 呼ばれて、久保田はゆるりと振り向いた。
 街中、雑踏に混じるように、自分の隣を歩いていたはずの少年が、少し離れたところで自分を手招きしている。
「・・・どうしたの、時任?」
「――コレ」
 時任、と呼ばれた少年は、いつもは鋭い黒目がちの瞳を揺るがして、人の行き交う道の、ほんの少し離れた路地裏を指した。
 久保田はがしゃがしゃと買い物袋を鳴らしながら、その傍に近寄る。
 指された先にあるのは――外の光に目が馴染んだ久保田にとっては、ただの暗がりにしか見えなかった。
「何?」
「だから、コイツだって」
 時任はつ、と暗がりに足を踏み入れると、数歩あるいてうずくまった。
 そして抱えるくらいの大きさの箱を示し、くい、と久保田を見る。
 久保田も暗がりに入り、目をこらした。
 ようやく慣れかけた目に、その箱に入った、手のひらサイズの何かが動くのが見えた。
 それが何かを悟って、久保田は眼鏡越しに、時任を見た。
「・・・猫」
「そう。子猫。捨てられてンのかな」
 箱の中に入っていたのは、一匹の子猫だった。
 みぃ、としかまだ鳴けないらしく、怯えたように耳を震わせながら、箱の端にじっとうずくまっている。
「だろうね。この辺りじゃ多いし」
「多いの?」
「らしいよ。この間コウさんが愚痴ってた」
「・・・ふうん」
 時任は曖昧に相槌を打つと、指先でこしょこしょと猫をくすぐった。
 衰弱しているのだろうか、ふるふると首を揺らすと、猫は目を閉じて、ぐったりと箱の中で崩れてしまった。
 久保田は、じ、と時任が自分を見つめているのに気付いた。
 放って置いたら何を言い出すかは判っていたから、先回りをして口を開いた。
「――駄目だよ」
「なッ・・・!?」
「飼えないよ。これ以上、猫は。」
 無感情にそう言うと、久保田はポケットから愛用の煙草を取り出し、一本咥えた。
 猫を見るために曲げていた腰を伸ばす。
 ふう、と自分の頭より少し上でたなびく煙に、時任は怒鳴った。 
「俺、まだ何にも言ってねーじゃん!」
「言わなくったって判るよ、時任のことくらい。――その猫、」
 言いながら、煙草で猫を示す。
「飼おうって言い出すつもりだったんでしょ?」
 そう言って、そ知らぬ顔で、久保田は煙草をふかした。
 うっ、と言った風に、時任の整った眉が歪む。
「どうして駄目なんだよ。いいじゃねーか、一匹くらい!」
「駄ぁ目。そもそもウチのアパート、ペット飼えないし。それにこれ以上猫増やすと世話が大変だし」
「これ以上って、猫なんざ――」 
「飼ってるデショ、ホラ」
 そう言って、久保田はふう、と煙草の煙を時任に吹きかけた。
 ごほごほ、と時任が咽る。
「・・・・・・面倒なのが一匹いるんだから」
 数度咽て、それがようやく自分のことだと気付いたのか、かっと時任の顔が赤くなった。
「お、俺は猫じゃねえッ!!」
「そーだね、もっとタチが悪いモンね」
「・・・ッ・・・」
 如何いう意味だよ、と言いかけた時任の唇を、久保田は煙草を取った指先で掠めた。

「とにかく、駄目。」

 久保田は自嘲のような笑みを浮かべて、冷たい声を響かせた。
 それがじんわりと裏路地の壁にぶつかって、消える。
 時任は、何でだよ、と言いかけて、久保田の瞳を見て――口をつぐんだ。 
 口答えをしてはいけない。
 そんな雰囲気が在った。
「下手に俺達が優しくしない方が善いんだよ」
 優しく久保田は時任に言う。
「でなきゃ、後悔することになりかねないしね」
 だから、駄目。
 久保田の声と目に、時任は視線を逸らした。
 ――なんだろう。
 今、久保田の目に、一瞬優しさとは違う光が走ったような気がする。
 言っていることは、良く判るような、判らないような。
 どうして猫を拾うことが、いけないんだろう。
 猫を拾っても、俺は絶対に後悔したりしないのに。
 時任は手元の箱の中にいる猫に、そっと視線を落とした。
 汚れてほつれてしまってはいるが、ちゃんと綺麗にしさえすれば、ふわふわの子猫に違いない。
 ちょっとだけ、手元に置いてみたいなんてことを考えたけれど――
「・・・うん。判った」
 久保田の言葉にうなずくと、時任は箱を地面に置いた。
 何となく、逆らってはいけない気がしたから。

 

 

 


 

 

 


 久保田はぼんやりと天井を見上げた。
 ゲームは、既に一時間ほど前に全部クリアしてしまった。
 やはり自分ひとりでやっても、面白くない。
 そう思って、ふと時計を見る。
 ――午後五時半。
 時任が、コウさんに用があるからとアパートを出て、既に二時間。
 だらだらと弛緩させていた体をゆっくりと持ち上げ、窓の外を見る。
 どうやら、その二時間の間に、雨が降り始めたらしい。
 そう言えば、時任が家を出る前に、洗濯物を取り込んで居たような気がする。
 料理は面倒くさがってしないくせに、そういうところだけは几帳面だと思う。
 そして時任のいないアパートの中というのは――不気味なくらいに、静かだ。
 夕方の雨だというのに、部屋の明りも付けて居ないせいだろうか。その静寂は、まるでひたひたと近寄ってくるそうで、少しぞっとした。
 久保田は軽く背を伸ばすと、そのままソファへともたれかかった。
 そのまま瞳だけを動かして、玄関に通じる廊下に目をやる。
 まだ暗い。
 まだ、帰って来ない。

 ――でなきゃ、後悔することになりかねないしね。 

 不意に、先日自分が言った言葉を思い出した。
 後悔。
 ・・・そう、こんなに怖いとは思わなかった。
 久保田はカチリ、とライターの火を付けた。
 だが煙草を咥えたまま、その火は宙ぶらりで部屋を照らす。
 玄関からは、まだ何も音がしない。
 しない限りは、きっとこの明りに、自分以外の誰かが照らし出されることはないだろう。
「だいぶ切れてるなぁ・・・」
 カチ、カチ、と火をつけては消すことを繰り返しながら、久保田はライターをかざした。
 中身が見えるわけでも無いのに、何となく軽くなった気がして、そんなことを呟いてみる。
  
 時任が何と言おうと、彼を拾ったのは自分の意思だ、と久保田は思っている。
 勿論動物と人間は違う。
 だが、よしんば時任が獣と人間の狭間にいたとしても、それが自分に与える影響は、爪の先ほども無い。
 あの時、あの場所で倒れていたのが時任だったから、拾った。――それだけなのだ。
 周りの人間、とくに叔父貴にはことあるごとに「どうして拾ったんだ」と聞かれるが、煩がって、真面目に答えたことは一度も無い。
 言い訳が面倒なわけではない。ただ、きっとそれは、彼らには理解出来ないことだろうと思うのだ。
 そう。
 『時任だから拾った』などという、根拠もない論理などは――
 だから、久保田は知っている。
 あの時、時任が猫を手にしたのは。
 其処に――おそらく数ヶ月前の、自分の姿を見たからに違いないことを。
 久保田はようやく判った。

 多分、自分は後悔しているのだ。取り返しがつかないほどに。

 猫を、
 猫を拾った。
 ひどく獰猛で、綺麗な猫だった。
 噛み付く彼を、何度も宥めた。
 優しくもした。
 笑いかけた。
 彼も笑うようになった。
 懐くようになった。
 自分の傍を離れなくなった。
 いつだって自分の傍にくっついて、その腕に腕を絡めて、指を指に絡めて。
 彼が傍で笑うことに慣れてしまった。
 ――だから。
「後悔、してるねえ」
 ぼそりと呟いた。
 ふと、考えてみることがあるのだ。
 こうしてたまに彼の居ない家の中で。
 それも決まって雨の日に。
 ぼんやりと薄暗い部屋の中で、一人。

 彼が傍に居ない、自分のことを。

 ああ、こんなことなら、あんなに優しくしなければ良かったと思う。
 彼なんて、拾わなければ善かったと思う。
 彼のいない自分を、自分を忘れた彼を想像しただけで、

 思わず笑みが浮かぶくらい、気が狂いそうになるのなら。

 誰かを傍に置くことは、誰かが傍にいることは、まるで心がぼうっとするほどに、温かいことだ。 
 毛布でまるごと包まれたように、優しい気持ちになれる。 
 だが、恐ろしいのは、その温もりが失せたときのこと。
 それは、快楽と同時に得られる、どうしようもない絶望に似ている。
 暖かさを憶えてしまった手のひらは、風の吹きすさぶ場所に人で立ち尽くす、その冷たさには二度と耐えられないだろう。
 ――そう、それを知ってしまった。
 不安を。
 その温もりが失せるかもしれない不安を、
 憶えてしまった。

 

 だから出来ることなら、こんな想いは、彼にはさせたくないのだ。
 ずっとずっと、不安なんて知らないままで。

 ・・・それは、単なる言い訳に過ぎないかもしれないけれど。

 


 ガチャ、と玄関の開く音がした。
 久保田は起きると、暗がりの中、玄関へと向かう。
 開けた主が、部屋の中に入ってくる気配はない。
 明りも付けずに玄関までたどり着いた久保田は、明りのスイッチに手を伸ばそうとして――止めた。
「・・・ぼちゃ・・・」
 時任が、呆然とした様子で、玄関に佇んでいる。
 ぽたぽた、と滴がしたたり落ちている。
 傘も差さずに、この雨の中を帰ってきたらしい。
「・・・くぼちゃ・・・」
「――うん」
 泣き出しそうな、甲高く掠れた声に、久保田は答えた。
 ぐ、と時任の顔が歪むのが判る。
 その胸元に、何かを抱えている。
 ・・・久保田には、それが何か判っていた。
「猫、死んじゃった」
「――うん」
 だから小さく、低く答える。
 時任は泣きじゃくるように肩を揺らした。
「おれ、俺ね、嘘、ついて――」
「・・・うん。」
「久保ちゃんに、内緒で、ずっと面倒・・・見てた、あの、路地裏の、」
「・・・・・・うん」
「路地裏の猫、ずっと、・・・で、俺にも、懐いて、」
「・・・・・・・・・・うん」

 ああ、やはり。
 やはり言い訳だったのだ。

「・・・ミルク、飲んで、俺の指舐めて、可愛くて、」
 ・・・うん。
「俺、コウさんトコ行くって言って、・・・路地裏に行って、」
 知ってるよ。
「猫の世話、して、・・・だって飼えないって言うから、だからせめて、死なないように、って」
 知ってるよ、時任。
「死なないようにって、思って、」
 お前のことなら、何でも。
「それで、でも、今日、行ってみたら、・・・みた、ら、」
 ・・・お前の見るものは、何でもね。

 時任は、震えながら、手のひらに抱えたソレを差し出した。
 赤茶けた、小さなカタマリ。

「猫、死んじゃって・・・た・・・ッ・・・」

 知ってるよ。
 知ってるんだよ、時任。
 だって俺だもの。
 俺なんだもの。
 

 その猫殺したの、俺なんだもの。


「きっと俺が世話してたから、だからコイツ、不用意に人間に懐いて、それで・・・っ・・・!!」
「――そう」
 そう言って、久保田は軽く時任の頭を引き寄せてやる。
 濡れたままの頭が服をぬらすが、そんなことはちっとも気にならない。
「久保ちゃんの言うこと、ちゃんと聞いてとけば、こいつ、死ななくて済んだかも――っ」
「・・・時任」
「ごめ、・・・俺、全然判って無くて、ごめん・・・・」
 自分の胸に顔を押し当てる、その背中をぽんぽんと叩いてやる。
「体、冷えてるね」
「雨・・・降ってて」
「シャワー浴びといで」
「でも、猫・・・っ・・・」
「後で、」
 久保田はゆるりと笑った。
「後で、埋めに行こう」
 こくり、と時任はうなずく。
「ちゃんと弔ってやろうね。・・・大丈夫。きっと、時任のことを恨んでやしないよ」
「――そう、思う?」
「勿論。」
 そう言って笑みを覗かせると、時任は初めてほっとしたような顔をした。
 そして、戸惑ったあと、久保田に猫を渡し、シャワー室へと歩いて行く。
 久保田は時任を見送って、それから猫を一瞥し、玄関に敷いた新聞紙の上に横たえて、そっともう一枚、その上から被せてやった。
 ・・・猫に罪は無い。
「ごめんね」
 だが、久保田は笑んだままで、そっと呟いた。
「時任に見つけられた自分を、恨んでね?」
 背筋が寒くなるほどに、優しく笑んで。


 そう、自分以外の何も、彼の目に映らなければ善い。
 彼の最期の瞬間まで、自分だけが見取れば善い。
 後悔するほど、愛しい人よ。 

 貴方が見るのは、僕だけで善い。

 

 

 


 (終)






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