ふと視線を感じた気がして、アレンは顔を上げた。
 真っ暗な夜空。星が幾許か闇の中で輝き、それは不思議なことに一向に夜の闇を薄めることなく更に増してゆく。
 真っ白い月の色さえも、あまりにも夜空の色に反発しすぎるがゆえに、交じり合うこともなく。
 当たり前か、とアレンは思った。その闇の深さに。
 既に日付は変わっている。普段ならこんな時間には決して出歩いたりしない。
 アクマの気配を感じてレベル1のアクマ数体と戦い始めたのは、まだ「前日」の出来事だった筈だ。
 リナリー達には先に次の街で宿を取っているよう残してあるから、じきに追いつけるだろうが、今日中にこの街を出ることは無理なようだ。
 親切にも夜遅くまで営業している宿屋というのはあるから野宿なんてことになりはしないだろうが、誰の足音も響かない、街灯さえ途絶えがちの路地を歩いていると、いかなアレンでも息を顰めたい気分になる。
 まるで自分以外の何者の気配をも感じぬ静寂。
 耐え切れぬように見上げた空では、下弦の月がアレンの視線を受け止めきれぬように目をそらしているようだった。
 見上げる速度、僅か呼吸のひとつ。
 見下ろす速度、地面には影ひとつ。
 それがふと、二つに割れた。
 ぎょっとしたようにアレンはもう一度頭上を見上げる。
 地上からは街灯ほどの明かりしかない月に、人影が見える。
(……っあ)
 正確には、ビルの屋上に足を掛け、こちらを見下ろしている人影があった。
 一瞬それが月に透け、彼が月から来た者であるかのように勘違いしてしまう。
 勿論それを口に出して言えば、馬鹿にされるだけであるとは知っている。
「何を呆けた顔をしている」
 静寂にするりとその声が滑り込んだ。
 声と同時に、彼もまた、タンと軽い足音と共に地面に降り立った。
 身を覆う黒い団服は彼専用の、確かに見覚えのあるもので、けれど一瞬彼がそこにいることが信じられなくて目を疑う。
「君は――君の師匠のところへ」
「アクマの気配を感じたから気になって」
 忍び込むように語尾を遮られる。
「来てみればお前がいるから、驚いた」
 すらり、と彼――神田は手に持っていた剣を揺らしてみせた。
 イノセンスは発動させていない。けれど、剣が薄く黒光りしている……それは僅かに剣が大気を灼いた痕だ。
「――僕も」
 何を言っていいか判らなくて、それだけを答える。言葉が上手く出てこなかった。
 彼と会うのは……あの日以来だ、と思う。
 何の気も無く、何の前触れも無く、
 噛み付かれるのと同じくらいの熱い口付けを与えられた――あの日。
 理由なんて、勿論知らない。
 ただ熱くて熱くて、押し返そうとしてもびくともしなかった……身動くことも許されず。
 あの日も彼は滑り込むように、滑り入るように、自分の身体をいとも容易く絡め取ったのだ。
 本当に何の前触れも無かった。
 ただいつものように資料室で調べ物をしていて、いつものように神田は不機嫌で。
 それは本当にいつものことだったから、資料を取ろうと伸ばした手を絡み取られたときには、驚いた。
 そのまま、そのさりげない仕草のまま。
 ……気付けば本棚と彼の間で呼吸をしていた。一分の隙間も無く。
 一度。二度。
 三度目の呼吸で、どうしたの、と尋ねようとした自分の唇を、彼は。
 本当に唐突に。
(近づいて、)
(それで)
 アレンは紅くなってしまいそうな顔を押さえた。夜だから、見えはしないだろうけれど。
 何があのときの彼を突き動かしたのか。
(酷く真剣な目)
(真剣すぎて)
(拒めない目)
「何体だった?」
 歩き出しながら神田が問う。
 意図は無いが何となく神田の後を追いつつアレンは答える。
「五体……六体くらいでした」
「コムイへの報告はお前からしとけよ」
「判ってます」
 会話が途切れ、アレンは神田の黒髪が揺れるのを見つめながら歩く。
 急いで来たのか、結わえない髪は黒く闇のようで、星のまばらな夜空に溶けてしまいそうだ、と思う。
(月でも闇でも)
(よく似合う)
 本当に似ているのかもしれない、とアレンは不意に視線を上げた。夜空、月。
 見上げても逸らされる視線。
(どうしてって)
(見上げたのに)
 あの日、資料室で、わけがわからず彼を見上げると、それに気付いて、一瞬眉を顰め、すぐに。
(逸らされた視線)
 その目がどこを見ているかなんて、気にしたことはなかったのに。
(唇が熱い)
「……おい」
 気付くと、目の前で神田が立ち止まっていた。
 あやうくぶつかりそうになって顔を上げる。気付くと落ちていた目線。
 その様子を呆れた表情で神田は見ていた。
「それは貴様の常態か」
 その言葉を一瞬の後に理解し、
「何が」
 と返す。
 すぐに彼の眉が顰められる。
「さっきから何度も呼んでいる」
 全く気付かなかったことにアレンは自分で驚いた。
 首筋に手をやりながら小さく呟いた。
「すみません、ちょっと疲れてて」
 彼はきまずそうに視線を逸らして、そうじゃない、と一言ぽつりと零した。
「そうして視線を落とすのは癖なのか?」
(視線を)
(落としてる)
(僕が?)
「いつだってお前は」
 ふ、と一歩彼が近寄る。
 その身体、目、表情からたちあがる気配。
 殺気でもない、怒りでも悔しさでもない――それ以外の、自分が知らない彼の気配。
「まっすぐ俺を見ない」
 その声の低い揺らぎに、くらりとアレンは眩暈を起こしそうになった。
 それだけで射殺せそうな低く、
(切ない)
(声)
 あとずさろうとするが、足が動かない。
 あのときと同じだ、と思う。
(見てほしいときに見てくれないのは、君の方なのに)
 見上げる。
 見上げようとして、躊躇う。
 今度こそ、彼が直接に自分を見ているのを感じて。
 見上げてしまえば、本当に、動けなくなってしまう気がして
(君はその目で)
(僕を縛るから)
 見上げるよりも前に身体を抱きすくめられる。

「あんな怯えた目で見るなら、いっそ軽蔑してくれればいい」

 吐息のように密やかに殺された声。
 闇に溶けそうな彼の髪に触れる。
 小刻みに震えているのは、彼か、自分か、それとも、抱きすくめられているからか。
 アレンは腕の中で見上げようとしたが、見るな、というように腕がそれさえも拒む。
 軽蔑なんてしていない、と軽く否定することを雰囲気が退ける。
 怯えていたのは、事実だ。
(答える自由さえ)
(君はくれない)
 いつもの余裕然とした様子を失った、自分を抱きすくめる神田に触れる。
 布越し、体温なんて判らない団服の厚み。
 どんなに触れたって伝わらない体温。
 どんなに見上げたって絡むことのない視線。

(まるで僕が拒むことを恐れているかのように)

 互いを追いかけながら決して触れることのできない自分達は、太陽と月にも似ている、と気付く。
 与えることの出来ない視線の代わりに、アレンは、彼の胸元のローズクロスにそっと口付けた。



 


(終)



「し」 視線


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