そろり、と風が柔らかく凪いだ。
 髪が併せて揺れて、少し伸びた髪が鬱陶しく視界を遮る。
 自分の長さでこうなのだから、彼ほど伸びたらきっと邪魔なのに違いない。
「何だ」
 視線を先に悟られて、彼がゆるりとこちらを向いた。
 彼の行動にはいつだって隙というものがなくて、その代わりに、無くてもいいのじゃないかと言いたくなるような強い視線がある。
 それがいつもより少し和らいで見えるのは、凪ぐ風の為だろうか。それとも、いつもは結わえている髪を解いている為だろうか。
 勿論アレンには、それが故意によるものではないことくらい判っていた。
 いつだって神田は、少しだけ優しい目をする。人を看取った後は。
 多分、それを知っているのは自分くらいだ。
「俺を詰りたいなら、そうすればいい」
 黒い目で黒い髪で、低い声で彼はそう言う。
 そんなに非難めいた視線で彼を見ているつもりは無かった。
 ただ目の前に惨然と横たわる死体を見るのが厭で、そうでないものを、見ていたくて。
 そんなつもりはない、そう言い掛けた声が喉で詰まる。目の前で死んでいった人間の血が、喉に絡まったような錯覚を覚えた。
 掌は血みどろだ。左手に関しては、それはいつだって同じなのだけれど。
「どうなんでしょうね」
 結局そんな曖昧な言葉が漏れる。そうなのだから、曖昧な人間なのだろう、自分は、きっと。
「アクマにころされる方が幸せだったんでしょうか」
「お前がそう思うのなら」
 神田はざくり、と足元を踏みしめる。
 大地はここにある、と確かめているように。
「そうなのかもしれないな」
 俺には判らないが、と低く呟く。地を這うように低いそれなのに、はっきりと聞こえるから不思議だった。
「彼女は、気付いていたんでしょう?」
 そう呟いて、目の前で掌を胸の上で組んだ少女を見る。
 その掌はアレンが組ませた。神田は目を細めてみていた。
「彼がアクマだったってことに」
「恐らくな」
 暫く沈黙が続いた。
 それはまるで当然のごとく、最初から決められたようにするりと二人の間に流れ込んで、風に紛れて過ぎ去っていく。
 風はこんなにも柔らかいのに、とアレンは思う。
 それでもこの風は総てを見ていたのだ。
 彼女がアクマに殺されかけるのも、もしかしたら、彼がアクマになるところも。
(殺さないで)
 彼を庇って彼女は言った。
(このひとを、殺さないで)
 そのひとは、いや、ソレは――とアレンが叫んだ。
 「ソレ」は黒髪に黒い瞳をしていた。年はまだ若い。レベル1特有の表情と片言の言葉を紡ぎ。
 けれども、だからこそアレンはそれを見逃すわけにはいかなかった。レベル1なら対処出来る。2になると限界がある。
 彼の右肩からぼうっとのぼる黒い光は崩れかけた魂を映し出していた。
 そのひとは、アクマなんです。
 あなたの知っているそのひとではないんです。
 アレンがその一言を言う前に、彼女が叫んだ。
(知っているわ)
(だから)
(殺さないで) 
(私は)
(このひとを)
「殺されたかったのでしょうか」
 もう一度アレンは同じ言葉を吐き出す。
 神田が反応した。
「だとしてもそれは、彼にじゃない――彼の皮をかぶったアクマに、だ」
「そう、なのだとしても」
 アレンには、判らないでもないのだ。
 その気持ちが。
 その、一瞬こころを掠め取る衝動が。
(殺されてもいいと思った)
 何度目を閉じても、何度眠っても、思い出す。思い出してしまう。
 ただの骨組みになってしまったひと。
 身体を土に埋めたひと。
 あの優しい掌も声も体温も総て失って、それでもなお魂だけ引き戻されてしまったひと。
(マナ)
 自分が死んで、マナが救われる、それでも。
 それを一瞬でも望んだ自分がいた。
 あの一瞬、総ての感情がない混ぜになって、言い表すことの出来ない激情が怒涛のようにアレンを襲った。
 世話になったから、とか、自分を拾ってくれたから、とか、そういうきちんとした言葉に出来ない理由。
(すきだから)
 あの頃の自分にとって、マナは総てで、世界だった。
 すき、という言葉も知らないうちから、その感情だけは知っていた。
 だから。
 気持ちは判らなくもない。
 中身は違っても、元には戻らなくても、そんなことはアタマでは判っていても――そのひとといたい、少しでも長く――そういう気持ちが。
「おい」
 不意に呼ばれて顔を上げると、驚くほど近くに神田の顔があった。
 身長は僅かに神田の方が高いので、自然、見上げる形になる。
「何を考えている」
 全く、何ていうタイミングだろう、と思う。
 いつだって負の感情に体が染まり切るよりも早く彼は声を掛けてくるのだ。
 そのタイミングの善さが決まり悪くて、アレンは言葉を濁した。
「昔のことですよ」
 その答えに満足したのか満足していないのか。
 神田はすっと目を細め、
「……ろくでもねえ」
 と、まるでアレンの心を読んだかのように吐き捨てた。
「酷い言われ様ですね」
「自覚があるんなら無駄なことに頭を使うな」
 そっと神田の手の平がアレンの額を捕まえる。
 剣を使うためだろうか、アレンよりも大きな手の平は額にとどまらず、僅かにアレンの銀灰色の瞳を隠す。
「そんな目をして見られる方が迷惑だ」
 ぐ、とアレンは息を飲み込んだ。
「どんな……目をしてます、僕」
 神田が小さく溜息をつく気配がした。
「酷い後悔をしてる目だ」

(殺さないで)
 アクマが暴走したのは、彼女が力の限りそう叫んだ直後だった。
 隙があったと言えば、あったのだ。瞬間動き出すことが出来なかった。アレンには。
 ヒトの形を喪ったアクマは、ただ貪欲に人間を求め、その体から生み出された砲台はアレンに照準を合わせた。
 神田が六幻の柄を握りなおすのを見た。
 動かなくては、と頭のどこかが思った。
 自分の名前が叫ばれる。
 腕が動かない。
 どうして。
 重い。
 動かない。
 痛い。
(視線が) 
 アクマの視線が貫く。目を、ではなく、こころを。
 タスケテ。
 タスケテ。
 ワタシヲ、ドウカ。
 ドウカタスケテクダサイ。 
 声が蘇る。

『呪うぞ、アレン――』

 どうしてあのひとはあのとき、あんなすがたになってまでもないていたのだろう。

(アレン!!!!!!)

 強く呼ばれて、振り向く。
 振り向こうとして目の前に影が落ちる。
 おんなの、ひと。
(だから)
(言ったでしょう)
(私は)
(このひとを)
 ざくり、と前から闇の錐が突き刺さる。
 そして、アレンを押しのけるようにして、音も無く。
 剣が。
 肌を破って真っ赤な血を流す。
 彼女ごと、アクマを突き刺して。
 何も言えないアレンの前で、彼女はふわりと笑った。
(愛してるって)
 そして音も無く、
 闇と赤が霧散する。

「護ろうとしたんだろう」
 神田の声が落ちる。
 人間をも貫いた剣は、今は丁寧にその鞘に収められている筈だ。
「それは、誰を」
 誰を護ろうとして、彼女は自分とアクマの間に立ちはだかったのだろうか。
「さあな、ただ」 
 神田は言葉を切る。
 何かを言いかけ、躊躇って、それからまた口を開く。
「俺と彼女が護ろうとしたものは、同じものではなかった」
 だから、と彼は目を細める。
「俺は殺したんだ」
 アレンは目を閉じる。こめかみが疼くような感覚を覚えて。
 人間を護るべきエクソシストが、人間を殺す。これ以上のパラドクスがあるだろうか。
 そう、この間も。
「ブックマンの小僧にも言われたんだろ」
 近寄っていた神田が、不意に指先でアレンの顎先を持ち上げた。
 強引に上げられた顔は、迷いと躊躇いも隠せず神田の目前に晒される。
「護るべき相手を間違えるな」
 ずくり、と心臓が戦慄く。
 師匠も。
 ラビも。
 神田も。
 どうして皆同じことを言うのか。
「神田――」
「……お前が」 
 呼びかけの声にも応じず、神田は低く地を這う声で唸る。
「お前がそれでないのだとしたら、俺は誰を護ればいい」
 持ち上げられた唇に、獰猛な口付けが、落ちる。

(判っている――)
 判っては、いるのだ、とアレンは眉を顰めながら思う。 
 自分だって、アクマが黒髪に黒目の少年であったりしなければ、身体が動いた筈なのだ。
 どうしても、揺れる黒髪に、彼を重ねてしまって。
(ああ)
 灼けつくような痛みを覚える。
 もう今は、死んで誰かを救うことさえ、許されない。 
 こんなに強く、ひとを想う筈ではなかったのに。
 強く想う誰かを失った痛みは判っている筈なのに。
 再び誰かを喪ってしまったら。
 そのときは。
 
 今度こそ、そのときは、護るべき相手を間違えてしまうのかもしれない、とアレンは目を閉じた。



 


(終)



「ま」 護る、間違える


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