鋼の錬金術師


 雪がはらはらと舞っている。
 昼間降りしきっていた雨は、いつのまにか雪になっていたらしい。
 足元の水溜りは薄い氷を表面に浮かべ、足を踏み出せばパリンと小さな音がして割れた。
 雪はその壊れた氷の上にも降り注ぎ、やがて水溜りに溶けてなくなる。
 水溜りにはうっすらと自分の姿が映り、音もなく揺らいでいる。
 水溜りの波が静かになり、はっきりと姿が映る前に、エドワードはぱしゃんと水溜りを蹴散らした。
 何度も何度もそれを繰り返し、散った水で左足のズボンの裾が濡れる。
 濡れるのが分かりながら、それでも足が水を散らさなくなるまで、エドはその動作を続けた。
 昼間から続いている雨のせいで、左足の膝がじくじくと疼いている。左足だけではない。右肩もだ。
 湿気のせいなのか、雨が降ると連結部が痛む。それは機械鎧の痛みだ。
 ――機械鎧。オートメール。
 この二肢のために、エドにはあの二つ名が与えられている
 それを今まで悔やんだことは無い。国家錬金術師になったのも、こんな姿になったのも、総て自分の意志だ。自分の意志で行い、自分に責任を課すべきもの――
 それは分かっている、と何度目かの溜め息をつき、エドは足元の水溜りを蹴るのをやめて手のひらを開いた。
 そこにも空から舞い降りる雪が、ひとつひとつ落ちてくる。
 手袋をつけた上からでは分からない、まったく同じように見える手のひら。
 けれども、左手に落ちる雪は次第に溶け、右手に落ちる雪はいつまで経っても溶けない。
 理由は簡単だ。右手には体温がないのだから。
「何をぼうっとしているんだ、鋼の」
 背後から聞き慣れた声がかけられ、エドはびくりと肩を振るわせた。
「何だ大佐、驚かせるなよ」
「なに、雪でも珍しいのかと思ってな。東の方は降らないだろう」
「降るぜ、たまにな。凄く寒い日は」
「……ほう。じゃあ、何か珍しいものでも落ちてきたか?」
 その言葉にカチンときたように、エドは眉を寄せた。
「なーんも落ちてなんか来ねえよ!田舎モンだって馬鹿にしてんな?否定はしないけど、雪なんて大佐よりずっとずっと見慣れてンだからなっ!」
「別に、田舎者だから馬鹿にしたわけじゃない」
「馬鹿にしてんじゃねえか、結局」
 エドはぷうっと頬を膨らませた。それを見たロイは小さく口元を上げ、
「そういう顔をすると、君は益々幼く見えるな」
「……チビって言葉が無いから辛うじて勘弁してやる」
「言われるのは嫌いなのか?」
「好きなわけねえだろ!皆揃ってチビチビ言いやがって……」
 まったく、とエドは溜め息をついた。
 息は白く大気に舞い、雪舞う冬の空気にするりと溶けていく。
 それをぼんやりと見つめながら、エドは、「で?」と尋ねた。
「何の用だ?宿にはアルがいただろ?」
「エルリック兄弟ではなく、君に用があったんだ、鋼の」
「何だァ?この間の列車の件で、水道管作った弁償代払えってンなら、研究費から落としといてくれって言ったよな?」
「そんなことで私が直々に来ると思うかね」
「アンタ、意外と暇人だからな」
「……それは心外だな」
 ロイは小さく苦笑した。笑いを含んだ調子にムッとなったエドはくるりと背後のロイを振り返り、そして片方の眉を上げた。
「何でもいーけどさアンタ、そのうち雪だるまになるぜ?」
 短い黒髪が雪を被り、あちこちで斑になっている。
 傘を差していないのはエドも同じなのだが、こちらは金髪のせいでロイよりは目立たなかった。
 それ以上に、どこにいても目立つ軍の制服が雪のせいで淡い色になっており、エドが思ったより、ずっと前からそこに立っていたことを示していた。
「いつからいたんだよ。ちっとも気付かなかった」
「少し前だな」
「少しって、どれくらい」
「……さあ」
 忘れたな、とロイは空を見上げた。
 エドはそんなロイの様子を不審に思ったのか眉を上げたまま頭を掻き、それから息をついた。
「傘くらい、差せよな」
 そう言うと、手のひらをパンッと合わせる。
 次に行われる動作が分かったのか、ロイは眉を顰めてエドの手を掴んだ。
「それは私の台詞だな。傘が作れるなら、どうして差さない」
 意外と強いロイの力に、エドは戸惑った。
「オレはいーんだよ」
「どうして」
「どうしてって……そりゃ……」
 エドは困ったように、手のひらに生まれた丸い力の循環を解き放った。
「別に体が冷えても問題ねえだろ。凍傷になるわけじゃないし」
「……機械鎧だから、か?」
「……」
 エドはぐっと眉を寄せ、目を少し細めるとそっぽを向いた。
「そうさ。少なくともオレの右腕は。ついでに左足もな」
「凍傷にならなくとも、風邪をひくことだってあるだろう」
「ねえよ。アンタとは体の鍛え方が違うからな」
 そう言うと、エドは乱暴にロイの手を振り払った。
 ロイは浅く息を吐き、
「昼間のことを、気にしているのか?」
 と尋ねた。
 エドは答えなかった。

 昼間、イーストシティの中央部で過激派グループの騒乱にエドが出くわしてしまったのは、本当に偶然のことだった。
 中央部といえども、東部の情勢は不安定だ。そのために狙われることが多いのは、軍関係の機関よりも一般に軍に指示している民間の組織や機関である。
 そのため、巻き添えを受けるのも、軍人より民間人が多い。
 たまたまエドとアルが昼食を取っていた喫茶店が狙われたのは、ただその店の店長が、軍の上層部の一人と懇意にしていたからという理由だけであった。
 撃ち込まれる銃弾、散乱する窓ガラスの破片。
 床を流れる血液は誰のものかも分からず、パニックに陥り立ち上がる客は総て撃ち殺された。
 エドは機械鎧の足に二発、アルも数発の銃弾を受けた。
 それでも何とか応戦し、敵の姿が立ち上がらなくなった頃には――店内にもやはりエドとアル以外に立ち上がる者はいなかった。
 ロイが現場に駆けつけた時、エドは一人の少女を腕に抱えていた。服が破れ、剥き出しとなった鋼の腕に。
 彼がその少女を助けたかったのだということは、ロイにも理解出来た。
 けれどそれは既に遅い希望のようだった。
 少女はエドの耳元に口を寄せ、何事かを呟いて、そして腕をだらりと落とした。
 エドは少女の体をそっと床に下ろすと、ロイをちらりとも見遣ることなく、場を離れてしまった。
 騒乱の様子は、残った弟のアルから聞いたのだ。

「何を言ったんだ、あの子は」
 あの子、でエドは理解したようだった。首を二、三度横に振ると、彼らしくない苦い笑みを浮かべた。
「別に。大したことじゃねえよ」
「しかし、気にしてるんだろう」
「ねえって……別に」
 別に、という言葉は、エドが内心で何かを抱えているときに吐く言葉なのだと最近知った。
 ロイが次の言葉を紡ぐ前に、エドはコートの前を引き寄せて白い息を吐いた。
「オレ一人じゃ、どーにもなんなかったし。アンタがいても、雨の日は無能だし」
「……無能というな」
「ホントのことじゃねえか」
 それに、オレもだ、とエドは付け加えた。
「人の生死に関して言えば、オレもアンタも無能さ。死にかけてる人間を生き返らせることも、……死んでる人間なんて、ましてやだ。」
「……何を――」
「あのさ、オレって、半分機械鎧じゃんか」
 エドはロイの言葉を遮って話し始めた。
「アルなんて全部だ。昔馬鹿やったせいで。でも……そのおかげでオレ達は死ななかった」
 痛みもなかった、とエドは言う。
「あの子は何もしてない。だけど死んだ。……胸に銃弾喰らって」
 彼自身の胸が痛むわけではないだろうに、エドは胸に右手を当て、ぐっと力を込めた。
 鋼の右手で。
「何でオレは死なないのに、あの子は死んだんだろ」
 エドがその少女を抱き上げたとき、既に彼女は虫の息だった。
 ようやく右と左で三つ編みが出来るくらいに延びた赤毛が、片方だけ解け、それが痛々しかった。
 胸に受けた銃弾は深くまで入り込んでいるらしく、それによって少女の生命力はじわじわと奪われていく。
 エドは何をすることも出来ずに少女を抱く腕に力を込めた。
 そのとき少女は瞼を開けた。目は虚ろであったけれど。
 そして、エドを見つめ、まるでエドを安心させるかのように笑って、
「『冷たいね』……だってさ」
 それが自分の腕のことだと気付くまで、エドは少しかかった。
 ――お兄ちゃんの手、冷たいね。
 ――寒いの? お兄ちゃん、真っ青だよ。
 ――ほら、ほっぺたが、こんなに、冷たいよ。
 知らず、彼女を抱く腕に力が篭った。
 少女はそれを感じ取ったのか、目を細め、微笑んで、

 ――ありがと。

 そして少女の手から、力が抜けた。
 それが総てだった。
「そりゃ冷たいだろうな、機械鎧なんだから」
 それでも少女がそのことに気付くことは無かった。
 体温の無い右腕に、気付くことは無かった。
 寒いからでも緊張しているからでもなく、鋼の腕を持つ腕に、決してぬくもりが生まれるはずのないことに、気付くことはなかった。
 その手が、ぬくもりを感じることすら出来ない手のひらだとは。 
「いざって時に何もしてやれねーのな」
 ぬくもり一つ、与えることすらも。
「壁作ることができたって、傘一つ練成できたって、……そんなモン、役に立ちゃしない」 
 ほんとうに。
 本当に必要とされることが、
「……何も出来ない」
 
「エドワード・エルリック」
 不意にフルネームを呼ばれて、エドはびくりと顔をあげた。
 見ると、ロイが真剣な顔つきで制服についた雪を払い落としていた。
 そして再びエドをじっと見つめる。
「……鋼の錬金術師」
 どうした、と尋ねようとしたとき、ロイは手をエドに差し伸べた。
「私は、寒い。」
 雪が降っているから、と加える。
 意味がわからずきょとんとしているエドに、ロイは続けた。
「雪の日は火花が出ないし、生憎雪を防ぐものは何も持ち合わせていない。」
 だから、とロイは言った。

「私は傘が欲しい。」

 差し出した手にも、手袋が嵌められている。 
 その手袋の下には、生身の温かい手のひらがある。
 しかし、エドは、ロイがたとえ機械鎧の体だったとしても、その手のぬくもりを感じられるような気がした。
 大切なのは、機械なのか、生身なのかということではなく。
「――ったくアンタは……」
 かなわねえな、とエドは苦笑して息をついた。
 傘一つ練成したって、と先ほど自分は言った。それが、何の役にも立たないとも。
 だが、役に立つかどうかは、自分が決めることではない。――少なくとも、今の自分が決めていいことではない。
 ロイはまだ手を差し出している。
 エドよりもずっと多く戦場の土を踏み、おそらくはずっと多くの人間の死を見取ってきた男が。
「慰め方下手だぜ、アンタ」
「……そうか?」
「それじゃあ女も寄り付かねえよ」
「お生憎様だが、ちゃんと寄り付いている」
「……あっそ」
 エドは小さく溜め息をつくと、すばやい動きで、ロイの手から手袋だけ取り去った。
 ロイは慌てて声を上げた。
「おい、何をする!?」
「何って、傘が欲しいんだろ?これが一番成分が近いんだよ」
「だからといってそれは私の……」
「いいじゃねえか、雪の日は無能なんだし」
 エドがパンっと両手を合わせると、バシッと錬金術特有の火花が散った。
 そして瞬きする間に白い手袋は消え、かわりにどこにでもあるような大き目の傘がエドの手の中にあった。
「何ポカンとしてんだよ。後で戻せばいいだろ」
「だからといって発火布を傘にするなど」
「あー、もう! 傘が欲しいっつったの大佐だろ!?」
 ぐ、と傘をロイに押し付けると、エドは雪の中に露になったロイの右手を見た。
 そして何気なく、その手に触れる。
「何だ、こんなに冷たい手ぇしてんじゃん」
 君が手袋を取るからだろう、と言いかけたロイは、その唇をつぐんだ。
 冷たい手。
 エドには感じるはずのない冷たさ。ぬくもり。
 ロイが驚いてエドを見ると、エドは小さな笑みを浮かべていた。
 だからロイも苦い笑みを浮かべ、 
「確かに君の方が温かいな、鋼の。」
 その言葉に、エドはにっと口元を引き上げた。




 重苦しい二つ名は、決して嫌いじゃない。
 この右腕と左足の重みは、その名前に相応しく、その罪にふさわしく。
 冷たい左足は、罪を犯した証。
 冷たい右腕は、罪を贖った証。
 体温は、その二肢になくとも。 
「おい、エルリック兄弟っていやあ……」
「ああそうだ、聞いたことがあるぞ」
「兄の方が国家錬金術師の――」


「鋼の錬金術師!」


 その鋼の腕を、温かいと言ってくれる人がいるのだから。




(終)


2004/02/01


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