十月三日午前四時。


 ほら、ここまで来てみろ、と。
 炎の向こうでアンタが言うから。

 

 

 

 恐ろしいほどの暗闇だ。
 風が強い。
 頬を撫でる、などという生半可なものではなく、体を吹き飛ばしてしまうのではないかと思うほどに強い風がバサバサと少年のコートを揺らした。
 ここはどこだ、と初めて思う。
 余りにも暗闇で、辺りを見回しても明かりの一つも見えず、自分のいる場所も分からない。
 どうして自分はこんなところにいるのだろう。
 何だかとても嫌な気がした。
 自分はこんな場所にいてはいけない気がする、と思う。
 どこにいるかも分かっていないのに。
 ふと、目の前でポッと明りが灯った。
 いや、明かりではない。
 それは一本のマッチの火だった。
 誰かがマッチを擦ったのだ。
 その「誰か」は火の付いたマッチ棒を、一瞬躊躇うように手の中で持ち、そしてゆっくりとそれを放った。
 放った火が広がっていく。めらめらと、対象物を舐めるように燃え広がっていく。
 そしてすぐに少年にはその対象物が何かということが分かった。
 火で薄暗く照らし出されたからだ。
「……やめろ」
 思わず呟いた。
 それは少年の家だった。
 母さんと過ごした、あの家だった。
「やめろ!」
 思わず叫んで走り出す。
 が、走り出そうとした足が動かなかった。
 左足が動かなかった。
 動かないのではない。
 ――無いのだった。
「……ぅ」
 ああああああ、と少年は叫んだ。
 そうだ、左足は無いのだ。
 がくりと付いた膝に、思わず手を伸ばす。
 伸ばした右腕も無い。
 あれもこれも無い。
 無いものばかりだ。
 母さんも居ない。左足も。右腕も。
 そして今、総ての思い出のつまった家が、目の前で燃えながらガラガラと崩れ落ちていく。
「やめろぉおおおおおお!」
 這って叫んで伸ばした手が、誰かの足を掴む。
 固い感触。
 その感触は身に覚えのあるものだった。
 その、家に火を放った「誰か」がゆっくりと振り向く。
 どうしてオレの家を燃やすんだ。
 少年は尋ねようとして、
 止まった。
 燃え盛る炎のこちら側で、少年を見たのは。 
 ――そうだ、と少年は思い出す。
 この家に火を放ったのは、オレじゃねえか。

 それでも、ああ、何て大きな炎だ。
 まるで空が。

「鋼の」
 呼ばれて目が醒めた。
 酷く荒い息をついていたことを知る。
 揺らいだ視線が一瞬天井を彷徨い、それから自分を覗き込む男に焦点が合った。
 珍しく焦燥の色を浮かべている。
 黒髪がおかしな程に跳ねている。
 何でそんなに必死な顔をしてるんだ、と尋ねようとして、彼の手が肩にあることに気付いた。
 その手が肩の上で揺れ動き、それで目覚めたのだと分かる。
 上から下までびっしょりと汗で濡れているのに、ガタガタと体が震えた。
 彼の手が暖かいと思うくらいに。
「目が醒めたか」
「……うん」
 喉の奥で頷く。
 ひたり、と喉から首筋に向かって汗が流れた。
 嫌な汗だ、と思う。
 その汗を彼の手が拭った。 
 そのとき、耳の傍でざあざあと強い音がしているのに気付く。
 雨が屋根を叩く音だ。
 それで悪夢を見たのか、とエドは溜息をついた。
 何もこんなときに見なくてもよいのに、と思う。
 アルでさえ、悪夢で起こしたことは無い。
「悪かったな」
 と口元を上げると、黒髪が震えるような息をついた。
「……驚いた」
「だろうな」
「いつもこうなのか」
「――たまにね」
 汗が眼に沁みて痛い。
 雨がばしばしと窓に当たる。
 ロイはエドの傍で横になると、頭を引き寄せた。
 汗塗れの額をロイの胸に押し当てるのは気が引けたが、押し返す体力も無いので、そのまま体を預ける。
 火照った体が、ロイの体に触れて少しずつ醒めていくのが分かった。
 いつもと違う、と思うと不思議に可笑しくなる。いつもは触れるだけで熱くなるのに。
 可笑しくなるけれど、頬が引き攣ったようで、笑えなかった。
「空が」 
 と唇から言葉が漏れた。
「真っ赤だった」
 髪にロイが触れる。 
 その指先が解いた金髪を梳く。
「いつの話だ」
「オレが、家を燃やした時の話」
 十月三日。午前四時〇分。
 俺達は家を焼いた。
 帰る場所をこの手で燃やした。
 雨が降るとあのときのことを善く夢に見る。
 おかしなものだ。雨は火を消してくれるのに。
「本当に真っ赤で」
 パチパチと爆ぜては燃えて行く家の空に、俺達は立ち尽くしていた。
 熱さも火照りもよく覚えて居ない。家をまるごと一つ焼いたのだから、多少は熱かったろうに。
 それでも、その燃える家を辿って、上空を見上げたときのことを覚えている。
 まだ陽は無かった。
 薄暗い空に、真っ赤な炎が昇っていく。
 火の粉が飛んできたが、気にしなかった。
 炎は上へ、更に上へ、何もかもを飲み込んで上へと向かう。
「まるで、空に火が付くのかと思った」
 今でも眼を閉じると、あの時あの場所に立っていた自分を思い出す。
 ああ、もう戻れないのだ、と思った。
 その道を断ち切った。
「どうして家を」
 燃やしたのか、と彼は問う。
 曖昧にエドは笑った。
 帰る場所を無くしたかったのだ、と言ったところで、きっと彼には分かるまいと思った。
 分かるはずの無いことだ。自分以外の誰も。
 アルでさえ、エドが提案したときには息を飲んだ。
 この覚悟は誰にも理解出来ない。
 一生をこの家で暮らすよりも、帰る場所を無くして、強くなろうと思った。
 だから焼いたのだ。
 アルは、兄さんらしい、と言った。
 自虐的だと言われればそれまでだ。
「アンタは炎なんて怖くないんだろうね」
 ふとそんなことを思いついて言う。
 当たり前だ、ロイは炎をその指で作り出せる男なのだから。
「オレは、怖いよ」 
 あの真っ赤に燃え広がる火。
 足が立ち竦んでしまうような灼熱の色。
 絶対に揺るがず、気が付くと自分も飲み込まれてしまうような危険な感覚。
 ――炎のような男だと思った。
 彼がまっすぐに自分を見たとき。
「……アンタのせいだ」
 掠れた声で呟いて、エドはロイの胸をひとつ叩いた。
「アンタが、オレを、こうしたんだ」
 そうだ、あのとき。
 あのとき、彼が自分達を訪れなかったら。
 誰かが書類不備に気付いていたら。
 彼に出会わなかったら。
 彼の眼を見なかったなら。
『ただ私は可能性を提示する』 
 この左足と右腕は今でも無かっただろう。
『元に戻る可能性を求めて軍に頭を垂れるか』
 自分は、きっと、あの家を燃やそうなんてことは、思わなかっただろう。
『決めるのは君達だ』
 この男にさえ出会わなければ。
 何もかも忘れ、何も変わらずに、ただ二肢を喪って、アルと二人生きていくことも出来ただろう。
 そんな謝罪だらけの平和な日々は、きっと物足りなく、自分を狂わせただろう。
 だがロイ・マスタングという男が自分を動かした。
 焔の錬金術師。 


 あの時の彼の眼が、
 その炎を飛び超えて、ここまで来いと、あんまりにもまっすぐ自分を見つめていたから。


「怖いさ」
 ロイは唐突に言った。
 炎が怖いのだ、とこの男は言う。
 嘘だ、とエドが呟くよりも早く、ロイは口を開く。
「私はな、鋼の」
 エドの髪を掬い、そっと口付ける。
「怖いと思うものを手に入れることにしているんだ」
 ほら、とエドの頭に腕を回す。
 飲み込まれることを恐れないように。
 喪うことを恐れないように。
 無くすのが怖いものほど、手に入れたいと思うのだと。
 ロイは囁きながらエドを抱く。
「君も炎だ」 
 だから、怖いさ。
 と彼は言った。
 それはエドにも分かる気がした。
「……オレは雨なんかじゃ消えねえよ」
 だから小さく苦笑した。

 


 

(終)


如何でもいい話ですが。
私は午前四時だと思ってます。午後ではなく。
出典は稲葉浩志氏の「志庵」より「炎」から。
2004/05/08


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