そうしてひとは恋をする。



 もうずっとずっと昔に、ひとは空を飛ぶことを夢見た。

 ある者は鳥を真似て布と木で羽根を拵えた。
 彼はそれを己の体に括りつけるとあたかも鳥がそうするかのように両腕を羽ばたかせ、出来るだけ高い建物の屋根から身を空へ飛ばした。彼の体は一瞬、ほんの一瞬だけ宙を舞ったかのように見えたが、実際はすぐにその重みに耐え切れず、遥かな高みではなく地面へと落下し粉々になった。
 違うある者は鳥の羽根ではなく何か具体的に空を舞うための機動力が必要だと考えた。
 エンジンとそれによって動かされるプロペラで動き出した鉄の塊は、ほんの数センチその体を浮かせたがすぐに平衡を失って勢い良く地面にへばりつき、エンジンが燃え尽きて炎上した。
 他のある者は空気の微々たる抵抗や風の流れ、重みや機動力を総て考慮した素晴らしい飛行機体の図案を編み出した。それは完璧なまでに計算し尽くされた図案で、それまでに作り出された他のどの飛行機体よりも精密であった。
 だが不幸なことは彼が非常に賢かったということだ――彼は決して己の図案を実現しようとは思わなかった。

 ひとは何度も空に憧れ、空を仰ぐ。

「何をぼんやりと見つめているのだね」
 ふと背後から声が掛かって、エドは瞬きをした。
 腰掛けた椅子から窓際に肘をつき、開かれた窓の向こうに数羽の鳥が飛ぶ。
 流れる雲に、どんなに手を伸ばしても届かないと知っている。
「空」
 と言うと、同じ部屋の中で執務に励んでいたらしい黒髪の男が僅かに口元に笑みをたたえたのが分かった。そんなことは分かっている、とでも言いたいのだろう。
 言葉はこちらに向かっているが、彼の目線は手許の書類に注がれたままだ。
 見詰め合わない、その距離がいい。
「何か珍しいものでもあるか」
「なぁんも」
「そうか」
 他愛無い会話がゆっくりと流れていく。
 雲も同じように、ゆっくりと空を滑っていく。
 チチ、と鳥が鳴いた。
 太陽は見えないくらい高くなってしまった。それでよかった。視界の中に入ってしまうと、太陽は眼を灼く。後に響く残光をエドは余り好きでない。
 見ているのは空だ。
「面白いか」
 空を仰ぐのは、とロイは言う。
「別に」
「書庫に行っていても構わないのだよ」
「いいよ。あそこ、湿っぽいし。殆ど読み尽くしたし」
「そうか」
 流れる空気は同じだ。
 ロイの万年筆がさらさらと紙の上を走る音だけが部屋の中に聞こえる。
 さわり、とエドの前髪を風が揺らした。ほんの少しだけ風が流れている。
 空のもっともっと上では、地上などとは比べ物にならないくらいに寒く、冷たい風がびゅうびゅう吹いているのだという話を聞いたことがある。真実か否かエドは知らないが、そんな場所では人間など吹き飛ばされてしまうだろう、と思った。
 太陽や月はいいのだ、きっと。
 うんと腕を伸ばして指先に挟んだコインと同じくらいの大きさに見えても、あれらにはきっと人間などには無い特別な力があって、だから飛ばされたりはしないのだ。
 それともあの場所へ行けば、ひとにも何か特別な力が与えられるのだろうか。
 エドはそれを知らない。
 しかし、それは恐らく先人が争って空を飛ぼうとした理由とは関係が無い気がした。
 何か見返りを求めて空を目指したのではない。
 ただ飛びたかったのだ。
 鳥のように。
 それはもしかすると、鳥のようにはるか上空で、地上のちまちました人間がちょこまかと動く姿を見下ろして優越感に浸りたかっただけなのかもしれないし、太陽に近付けばそれだけ神に近付けると思う傲慢な思い込みからだったのかもしれない。
 だがひとは幸運にも飛ぶ術を持ち得ない。
 だから負け惜しみのように歌う。
 太陽に近付いた英雄は羽根をもがれて地面に落ちた、と。
 それは不幸か。
 空を飛べぬことは不幸か。
 地面に這い蹲ることしか出来ぬ我等は。
 いや、とエドは思う。
 視線を遷すと茶けた地面に数本の草木が植わっているのが見えた。
 空に憧れ仰ぐ人類を、いつだってこの地面が見上げているのだ。
 いつかこのひとが、わたしの存在にきづいてくれますように、と。
 だからどんなに空を目指しても、ひとは結局地面に引き寄せられる。

 それは酷く恋愛に似ているのかもしれない、と思った。

「空を見たり階下を見たり、忙しいやつだな」
 気付くとロイがエドの傍らに立っていた。
 仕事は、と目線で訊ねるとロイは小さく肩をすくめてみせた。
 つまり、終わってはいないが一時休憩、ということらしい。
 エドの前髪をロイは指先でかき上げると、その額に軽く口付けた。
 エドはくすぐったそうな表情をする。
「ここから落ちたって君なら怪我ひとつしないだろうが、念の為、やめておきたまえよ」
「別に飛び降りようなんて思っちゃいない」
「ならいいんだが」
 ロイはエドに視線を合わせると、窓際に押し付けるようにして唇を近付けた。
「君が余りにも空に恋する目をするものだから」
 その言葉にエドも思わず笑う。 

 多分、こうしてひとは恋をするのだ。


 (終)


500HITリクエスト、雨泪麻斗さまから「ロイエド甘」でしたが……甘くないスね……(汗)
タイトルと内容の差がかけ離れていることにご注意。

2004/06/29


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