運命線


『淋しいんだ』
 彼は鎮痛な面持ちで両手で顔を覆い、搾り出すような声で言った。
 テーブルの上には、片付けられた料理の皿と、飲みかけのワイン。
 彼の肩がカタカタと小さく震えて、それはテーブルをも小刻みに振動させた。
 ハボックはテーブルの向かい側から手を伸ばす。
 足が当たってしまうくらいのほんの短い距離だ。
 それでも手を伸ばすと、彼はビクリと反応した。
 手のひらから顔を上げる。
 金色の瞳が潤み、白い頬が僅かに紅潮していた。
 どきり、として伸ばしかけた手を止める。
 その瞳が、自分を見ていないような気がしたのだ。
『淋しくて淋しくて……声も聞けなくて』
 用も無いのに、電話も掛けられないし、と彼は言った。
 その視線の先を、ハボックは知っている。
 エドは、いつだってあの人を見てきた。
 自分がエドと知り合ったときから、そうだった。
 だからきっと、エドが見ている先は、自分ではないのだ。
 そう思うと、一瞬ちりっと胸の奥に焼け焦げる痛みが走った。
『エド……』 
 と名前を呼んだが、それ以上の言葉は出なかった。
 エドはグラスに口をつけると、手袋をつけた手でくるくるとそれを回し、こくりと一口飲んだ。
 コン、とグラスをテーブルに置く音が響いた。
 こんな弱気な姿を、普段のエドは見せないだろう。
 今の自分だけが目に留めることの出来る姿なのだ、と思うと、先ほどの痛みに被さるように、どくりと独占欲が湧いた。
 エドは小さく笑みを浮かべた。
『アンタなら……』 
 その言葉に、ハボックは灰を落としかけた煙草の手を止める。
 掠れた声だった。
『アンタならオレを――』
 ああ、彼は何と言ったんだったか。


「ハボック……!!」
 気付いたら彼を寝室に運び、その小さな体を寝台に横たえていた。
 こんなことをするべきではない、と思いつつも、指先が勝手にエドの服を脱がせていく。
 上着を脱がせ、タンクトップを捲り上げる。
 そうすると、痛々しい程に重い輝きを放つ鋼の体がハボックの目を捉えた。 
「や……やめ……っ」
 エドは微かに身悶え、吐息をついた。
 ふるふると震える腕に、力を抜くように口付けてやると、暗闇の中でホッとエドが安堵するのが分かった。
 髪を解いて、その首元に顔を埋める。
 がしゃり、と鋼の腕がハボックの体に伸びる。
 そしてそれを抱きしめようとして、躊躇ったのか、指が背中に触れる寸前でエドは腕を止めた。
「……どうした」 
 そう問うと、エドは左右に首を振る。
 月の出ない夜に、布ずれの音だけで気配を聴く。
 エドは乾ききった喉で言った。
「……駄目だ」
「何で」
「オレ、多分アンタの」
 アンタの皮膚、傷つけちまう。
 何を思い出したのか、その肩がまた小さく震え始めた。
「手加減できねーし、気付いたら……多分」
 鋼の指先だから、と彼は言う。
 ハボックは小さく笑んだ。
「……俺は大佐じゃないよ」
 そう囁いたのは、ほんの小さな悪戯心だ。
 彼の反応が知りたかった。
 エドの呼吸が止まる。
「だから、傷つけても構わないんだ」
 その鋼の指に、自分の指をそっと絡める。
 恐らく触感を感じる器官の無いであろう鋼の手のひらを、そっと、いたわるように握り締める。
 そうしていつか、その指先の、その手のひらの、その腕の、その肩の――その鋼を伝わって、いつか自分の気持ちが伝わればいい、とハボックは思う。
 水よりも肌よりも熱伝導率の高いその金属。
 その金属がどれだけの感情を伝えうるのかは、知らないけれど。
「ほら」
 ゆっくりと、その指先を自分の背中へと誘う。
 やがてそれがじんわりと自分の背中に力を込めるのが判った。
 ちょうど心臓の裏側辺りに、鋼の指先がある。
 伝わるだろうか、この心臓の鼓動が。
 怖いのは傷つくことでも、誰かの代わりにされることでもない。
 この指先が自分から遠のいていくこと。
「――離すなよ」 
 そう言うと、エドワードはゆっくりと息を吐いてから、ひとつ、頷く。

 


 シャワーから戻ってくると、彼はいなかった。
 ベッドの上には真っ白なシーツが乱されたままであって、触れると体温が残っていた。
 当たり前か、と思いつつ、自分の髪からぽたぽたとシーツに雫が滴り落ちるのを見る。
 窓の外は既にうっすらと明るい。今日が非番で善かった、とハボックは誰とも無しに思った。
 どんなに言ったところで叶わない気持ちだ。
 それは誰よりハボック自身が判っていることだ。
 それでも諦めきれないのは、あの人の知らないエドワードを自分は知っているのだ、という自負。
 エドは彼の前で弱音を吐かない。それは誰の前でもそうだろう――エドワード・エルリックという少年は、その見た目以上に自尊心が強い。
 エドと彼の関係というのは、まるで鋭い刃が互いに澄んだ音を立ててぶつかり合うのに似ている。傍にいることはその刃で対峙すること。一瞬の気も抜けないような、その緊張感。傷つくことも傷つけることも許されない感情。
 その闘いにも似た感情の中で、さしずめ自分は毀れた刃を宥める砥石のようなものか、とハボックは我ながら可笑しな比喩に苦笑した。 結局自分は、次の闘いに向けてた布石に過ぎないのだ――という自覚はある。
 自分は決してエドの一番にはなれないだろう。
 それでも必要とされるから存在してしまう。
 求められれば応えてしまう。
(損な性分だ)
 そう心の中でぼやいて、ハボックはベッドサイドのテーブルに置いてある煙草を手に取った。
 エドは今頃何処にいるのだろう。
(一緒に眠ったって、罰は当たんねえだろう) 
 そう思うのは、エドに対してではない。自分にだ。
 あの金色の髪を抱いて眠ることが出来たなら、それだけで幸せだろう。
 一晩で善い。だがその一晩を迎えてしまえば、きっと自分は次の一晩が欲しくなるだろう。
 だからこれでいいのかもしれない、と思う。
「あーあ」
 総ての気持ちを清算するために、息をついて煙草に一本火をつけた。
 その後の煙草は、いつだって苦い。
 ふと背後にある鏡に気付いて、顔だけで振り向いた。そこには自分の背中が映っている。
 彼の残した傷跡。
 あの鋼の指先で引っ掻いた、幾筋かのそれ。
 どうしても忘れることの出来ない痛みを、いつだって彼は残す。
 けれどもその痛みを感じられることに、頼っている自分。
 決してあの人は感じることのないであろう痛み。
 それにさえ縋っている自分は何て。
「――女々しいなァ」
 珍しく自嘲の言葉を吐くと、それでも少し心の力が抜けていくように感じた。
 煙草を灰皿でもみ消し、シーツに潜り込む。
 遅い睡眠をとろうと深呼吸をすると、温もりが残っていた。

 どんなにしたって捨てられない気持ち。
 この背中の瑕は、その自分の未来を指し示す運命線のようだ、とハボックは目を閉じて思った。




(終)


久々のハボエドでした。久々でもハボックはやはり報われない男です(笑)
でもこういう彼が好き。同志がいれば幸い。 


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