リズム



 ぐらり、と三半規管が狂う感覚に襲われた。
 それが眩暈なのか気の迷いなのか、それともそれ以外の外部的理由によるものなのか、判別する前にもう一度ぐわりと目の前の壁が揺れた。
 頭は揺れていない。とすればこれは頸部と頭部の上下運動による三半規管の誤作動では無い、と瞬きをしながらゆっくりと考える。
 やがてその上下の揺れが一度収まり、あれ、と思う暇もなく左右の運動が始まって、唐突に体が惰性を伴って右方向に崩れ落ちた。
 運良くベッドに沈んだことにほんの少しの幸運を覚えながら、こんな眩暈があるもんかと思い、ようやく思い当たる――これは、地震だ。
 そう意識すると今更ながら恐怖感なども湧いてくるもので、思わず掴んだベッドのシーツに爪を立てた。
 地震が起きたら机の下に潜れ、などと言うが、その実そんな暇は無いと思う。今だって机はすぐ目の前にあるが、左右の揺れで机から落ちてくるものの方が危険で、そんな危険区域に自ら足を突っ込むなんて無謀だ。
 だからと言って立ち上がれるような程度では無い。規模は知らないが、震度はそれなりにあるだろう。久々だ、と揺れる天井の部屋灯の紐を見ながら思った。
 その間にも壁にかけていた軍服やシャツがばらばらと降りかかってくる。そんなものは痛くも無いが、地震対応で無い本棚までもが倒れ込んできたそうにしているのには参った。これを全身で受け止めたら、しばらく青痣などを残して痛い目を見たくてはならない。それは嫌だ。そう思って本棚が倒れないところまでずるずると移動している間に、その揺れは少しずつ小さくなって、消えた。
 ばさり、と本が数冊落ちる。それだけだった。
 それを手に取ると、本棚の元の位置に戻す。自分ではなく、この部屋の持ち主のものなので、相変わらず趣味がよく分からない。
 ただひたすらに料理のことが連ねてある本だ。この部屋の主は意外と料理が上手いことを自分は知っている。大体の手料理は作れるし、そうして作ったものは大抵美味しい。
 それは料理のりの字も齧ったことない自分にしてみれば少し羨ましいことでもあったが、いつだったかそう言うと、「俺が作れるんだからいいじゃないの」と有難い言葉を貰った。言われてみればそうだ、と納得する自分も自分なのだろうか。
 エドワードはふと部屋の扉を見遣った。先ほど、夕食の買い物をすると言って部屋を出て行った主はまだ戻らない。けれども恐らく何処かで地震を感じた筈だ。
 危険を感じる程の地震ではなかったから、無事だろうかとは思わないが、それでも。
(早く)
 帰ってくればいいのに、と思う。
 ベッドの上で壁にもたれて座る。
 不可抗力に曝されると、人間はその力の前に屈し、己の弱さを知る。
 自分の力ではどうしようもないこと。
 足掻いてももがいてもどうにもならないこと。
 そんなことなんて、
(たくさんある)
 エドワードは部屋灯の紐を見た。まだ少し揺れている。手の届く位置にその紐はある。それを数度引けば、この部屋の明かりはなくなる。いとも簡単に。
 けれども、そんなふうに人間が――自分が思うように出来ることなど、実は少ない。
 少ないからそれを貴ぶ。
 一小節しか歌えない歌を、その部分だけ何度も繰り返し歌うように。
(思うようにならないことが、多すぎる)
 たとえばそれはこの鋼の二肢だけではなく。

 踏み込んではいけない、と思う。
 踏み込んで欲しくない、と思う。
 自分の悩み苦しみ痛み総て。
 アルフォンスでさえ知らない、その深み。
 それは他人と共有するには余りにも危険だ。誰かを巻き込んでしまう可能性。その可能性の高さ。それを誰よりエドワードは判っている。
 それなのに。
(馬鹿じゃねえの)
 と彼を思う。
 立ち入り禁止の黄色いテープをいとも容易く乗り越えて、「どうした、そんな深刻そうな顔をして」なんて笑いながら近づいてくるこの部屋の主を。
 近づけてはならないと思う。
 近づいてはならないと思う。
(なのに)
 どうして自分はこんなところにいるんだか、とエドワードは溜め息をついた。
 いつの間にか自分は万有引力に逆らえない林檎だ。
 目に見えない力によって、地面へと引き寄せられ、いつか、粉々に砕けてしまう。

 だから恋は地震と同じだ。

(不可抗力)

 ――バタン、と激しく部屋の扉が開かれた。
 エドワードはゆっくりと、そちらを見る。
 男が肩で息をしながら、茶色い紙袋を胸に抱いて、それで口を開く。
「今、地震あったろ」
 走ってきたのだろう、彼が息を切らすなんて珍しい。
 よっぽど急いだのか、紙袋の中の林檎がひとつ、今にも零れそうで助けを求めている。
 彼はそれをどさりとキッチンに置くと、
「結構揺れただろ。……うっわ、やっぱ色々落ちてンなあ」
「しっかり留めとけよ。危ねえだろ」
「怪我とかしなかったか」
 煙草の匂いのする指で、髪を撫でられる。
 それが何よりも心地善いなど、言わない。
「無えよ」
 言う必要なんて無い。

 揺れたのは地面ではなく、
 彼が扉を開けた瞬間のこの心臓の。




(終)


鋼オンリーの夜に地震があったのでこれはきっと奴らのせいに違いないということで書いてみた思いつき駄文。
何故かハボエドなのはきっと気分。
書いてる最中に余震が来てかなりビビッたのは秘密。


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