見えますか。
 空が綺麗です。
 雲が浮かんでいます。
 見下ろすと子どもたちが遊んでいて、
 皆とても楽しそうで、
 雪だるまを作って笑っています。
 見えますか。
 ちゃんと貴方にも見えてますか。
 私のいる場所から、貴方の姿は見えないけれど、
 この世界のどこかに貴方がいると信じています。

 ほら、雪の中に埋もれた、
 あの花がまた実をつける季節になりました。






 





 冬の空気はとても綺麗だと総司は思う。
 まだ雪の降る季節ではないけれど、キンと音を立てそうに澄んだ冷たさが好きだ。
 目を擦りながら、そっと襖を開ける。襦袢をかき合わせて廊下に出ると、すぐに息は白くなった。
「寒……」
 この間まで暑い暑いとボヤいていたような気がするのに、もう自然とそんな言葉が出る季節になった。
 襦袢一枚では外の空気は冷え過ぎていて、寝覚めの温もりはすぐに消えてしまう。総司はぶるりと一瞬肩を震わせると、廊下の傍に揃えた下駄をつっかけて地面に降りた。
 朝はようやく明けたところらしく、陽は昇っていたが、まだ空には赤みが残っていた。それがじわりじわりと青へ色を変えていく。総司がぼうっとそれを見つめながら何度か瞬きをしている間に、空はすっかり青くなってしまった。
 秋の夕べはつるべ落とし、とよく言ったものだが、冬の朝もあっという間に終わってしまう。その一瞬を見ることが出来て今日はいい日だ、と何の根拠もなく総司は思った。
 そうすると知らず口元に笑みが浮かんで、襦袢の胸元をかき合わせながら飼育小屋まで足を伸ばした。
 カランカランと派手な足音を立てて近づいたが、小屋の住人である子ブタは一向に目を醒ます気配はなく、すやすやと眠っている。
「ふふ……」
 こういうところは、この子ブタの名前を借りた男にとても似ている、と思う。眠っているときはどんなに揺り動かしても絶対に目覚めない。それなのに、眠っていると思って悪戯しようとすると、軽くかわされたりする。
 その眠りを妨げるのも可愛そうな気がして、総司はクスリと笑って飼育小屋を通り過ぎた。
 まだ屯所内は静まり返っている。番役の浪士以外は皆寝入っている時間だ。奥の方から朝の準備をする台所の音がかすかにするだけで、それだけだ。
 ――あの池田屋事件のような騒がしさは今はない。
 どこの家にも、どこの道場にもある、普通の静けさが屯所内を支配している。
 そうすると、ここが新撰組で、世で言われる『人斬り集団』であるということなど分からない。
 総司は不意に立ち止まると、襦袢の裾を握っていた自分の手のひらをゆっくりと開いた。
 池田屋事件の時でも、篭手をつけていたせいか、手には全く怪我がなかった。
 そうでなくても手と腕は剣士の命だ。そう簡単に傷つけられることはない。特に、総司ほどの剣の使い手であれば。
 手に傷は無い。
 けれど時折この手が血まみれになっているかのような錯覚に陥る。
 自分のしていることが人斬りだ、という自覚は総司にはない。
 それは浪士組に入ると決めたときも、新撰組の一番隊隊長に任命されたときもそうだった。
 自分には誰よりも剣の能力がある。それを使って出来ることがある。それだけだ。
 山南のように算盤の力があれば会計方になったかもしれないし、料理が上手ければ賄方になったかもしれない。
 それでも総司には、たとえ今の自分になっていなかったとしても、『新撰組』にいない自分は想像出来なかった。
 どんな力があったにせよ、あるいはなかったにせよ、自分はこの場所にいたに違いない――と思っている。
 ふと視線を上げた。視界の中に、広々とした道場が入った。
 そこで総司に闘いを挑んできた少年は、まっすぐな目をして、自分に問うた。
 ――どうして、あなたは新撰組にいるのか。
 本当にまっすぐな目だった。覗きこむのも怖くなるくらいに澄んだ目だった。
 それは総司のよく知っている人のそれと似ていたから、一瞬、戸惑った。
 まるで『彼』に尋ねられたような気がしたのだ。
 どうしてお前は新撰組にいるんだ、と。
 『彼』が総司にそう尋ねたことは、今まで一度もない。総司から『彼』に言ったこともない。
 最初は、必然だと思った。試衛館にいた自分が、近藤や仲間と共に浪士組に入り、新撰組となったのは当たり前のことだと思っていた。
 今考えれば、自分は新撰組という組織を、試衛館という道場の延長のようなものと考えていたのかもしれない。
 けれども、ひとりまたひとりと死ぬ者が現れた。
 浪士組として出会った総司の知り合いの中から逃亡するものが現れた。彼らは法度に従って連れ戻され、全員余すものなく切腹した。
 総司が介錯をすることも増えた。
 それでも近藤の配慮なのか、総司が介錯したのは、辛うじて名前を知っているくらいの、親しくない者だった。
 勿論、知り合いだから刀を振りおろす力を弱くするとか知り合いでは無いからあっさりと首を斬るとか――そういうことではない。
 そういうことではないが、総司には恐れていることがある。
 この手が、いつか本当に自分が慕う者の首さえ、切り落とすときが来るのではないか。
 そうせざるをえないときがくるのではないか。
 池田屋事件は、確かに新撰組にとって手柄であった。吉田稔麿をこの手で殺した。尊皇攘夷派の活動者ひとりを殺すことで、幕府に貢献した。
 だがそれは総司の中では大したことではないのだった。誰を殺しても、誰を刺しても、総司の手は血にまみれるだけで、痛みひとつ感じない。殺す側に殺される側の痛みは分からない。
 けれど、殺す側と殺される側が同じになってしまったらどうするのだろう――
 そのときは、恐らく数多の浪士を殺してきた自分が、本当に痛みを感じるときなのだろう。
 何が正しくて何が間違っているか、など難しいことは総司には分からない。
 そういうことを考えるように頭が出来ていないのかもしれない、とたまに自分でも思う。
 正しいとも間違えるのも、総て『彼』に預けている。
 あのひとが誤った道をいくなら、喜んで自分はその誤った道をついていくだろう――と総司は思っている。
 正しいのも、過ちも、それは今の自分に分かるわけがない。この今という時間が流れたとき、後世にそれを『歴史』として眺める人間が思うことだ。
 もしかしたら、と総司は思う。
 自分はこんなふうに考えるけれど、もしかするとこれはとてもちっぽけなことで、『新撰組』という名前も『沖田総司』という名前も、後世の人間にしてみたら砂浜のひとつぶの砂と同じで、記録されるにも足らないものなのかもしれない。
 そうすると新撰組も自分も、歴史には残らない。それくらいに小さなことなのかもしれない。今自分が人を斬ることも。
 それでも、ただ後悔だけはしたくなかった。ちっぽけでも、誰に認められなくても、自分が後悔しながら死ぬのだけは嫌だと思った。
 新撰組に入ったのは、『彼』と共に生きていくことが、『彼』と共にあることが、幸せだと思ったからだ。
 『彼』がどんなふうに生きたとしても、それについていくと決めたからだ。
 だからあの少年の問いに答えるとすれば、それはとても簡単な答えになるに違いなかった。
 だがそれは今総司が口にすべきことではない。少年には少年の答えがある。それにいつか気付けば善い。自分で納得のいくまで考えれば善いのだ。
 ふう、と総司は息をついた。
 息を吐いた瞬間に、ヒュッと冷たい風が喉に吹き込み、その冷たさに総司は咽た。ケホケホ、と漏れる咳に、手のひらを口元に押し当てる。
 何度か咽ているうちに、喉の奥から舌の上へ熱いものが這い上がり、ゴホッと総司は強く咳き込んだ。途端、焼け付くような痛みを胸に感じる。口元に添えた手は濡れて真っ赤に色づいた。気管に、あるべきでない液体がじわりと滲んでいくようで、それは更に咳を催した。総司は咳の音が周りに聞こえないように体を二つ折りにし、肺のあたりに手を当ててグッと襦袢を鷲掴みにした。
「ぐ……ッ」
 咳にさえ乗らない血が、唇から直接ぽたぽたと地面に滴り落ちた。
 荒い息をつきながら、総司は地面に落ちた血の円い痕を下駄で擦って消した。
 口元を手の甲で拭うと、咳で朦朧としていた意識が少しはっきりとしてきた。
 最近、咳に血が混じることが増えた。増えたというよりも――ほとんどが血咳だ。それが一体どんな病気の症状で、その病気に罹った者はどうなるのか、総司は知っている。その病気が、決して治ることのないものだということも知っている。
 自分は死ぬのだ、と総司は思う。
 それは分かっている。
 判っているのに――実感が湧かないのだった。
 もしかすると、自分のような人間は、本当に剣を振りかざされた瞬間にならないと死を意識しないのかもしれない。
 怖いだとか恐ろしいという感覚が、総司の中には無い。
 自分は、死さえ恐怖しない。
 だから、

 鬼の児なのだ、と総司は思う。

「……何やってるんだ」 
 背後から不意に掛かった声に、ハッと総司は振り向いた。
 聞き慣れた声。
 一瞬どきりとしたのは、背後に立たれたからではなく、咳き込んで吐血した姿を見られたのかと思ったからだ。
「土方さん」
 名を呼ぶと、気配も無く背後に立っていた男は、煙管を咥えたまま目を細めた。その仕草はいつもと変わりない。それで、総司は自分の不安が杞憂であったことを知り、安堵した。
 すぐに柔らかな笑みが浮かぶ。
 珍しいですねえ、と総司は首を傾げた。
「どうしたんですか、こんな朝早くに」
「……お前こそ、何してんだ」 
「私は朝のお散歩です。早起きは体にいいんですよう」
「早過ぎるのは毒だろ」
「ふふ。土方さんこそ」
 総司は自分の目を指差し、土方のように眉間に皺を寄せて、
「眠そうですよ。ここ、すっごい皺寄ってる」
「生まれつきだ」
「いいえっ、いつもより皺が一本多いですもん」
 いつもはここで土方の口元に笑みが浮かぶのだが、今朝は酷く真剣な顔をしている――と総司は思った。
 土方は片目だけをクッと細めた。
 これは土方が機嫌の悪いときに見せる癖だ。
 何か彼の機嫌を損ねることがあったらしい、と総司は足を引き、こういうときは逃げるに限る、と場を去る態勢を見せた。
「では、私は朝のお散歩を続けますから。土方さんも朝会にはちゃんと起きてきて下さいよ」
 それじゃあ、と踵を返したところで声が掛かった。
「総司」
 土方が彼独特の無愛想な声で言った。
 だがその声はいつもよりずっと低い声だった。
 低い声で呼ばれると、びくりとする。
 それは昔から土方にだけ反応する総司の癖だ。
 何ですか、と問うよりも早く、煙管を含んだ唇が動く。
「お前、散歩してるんだったな」
 つかつかと土方は歩み寄り、襦袢の裾を握って隠していた総司の手のひらを掴んだ。
「どうしてこんなに手が血まみれなんだ」
 しまった、と総司は目を逸らす。 
 慌てて土方の手から自分の手を引き剥がそうとしても、存外強い力で握っているらしく、土方は離してくれない。
「や、嫌ですよ土方さんたら。離してくださいよ」 
「何で手が血で汚れてるんだと聞いてるんだ」
「ちょっと転んで、怪我しちゃって」
「どこでだ」
「……ッ」
 息を継がせず問いを繰り出す土方に、総司は思わず言葉に詰まる。
 そして何かないかと辺りを見回して、ふと目につくものがあった。
「ホラ、あれですよ」 
 と声を掛け、一瞬土方が手を掴む力を緩めた瞬間に、総司は手のひらを引いた。
 そしてその手のひらで、ソレをぐっと掴む。痛みが走ったが、それは僅かなものだった。
「……ね」
 総司は笑う。
「慌てちゃってこれを手に引っ掛けちゃったんです」
 土方は総司の手をソレから引っ手繰るように離すと、じっとソレを見つめた。
 葉の周りを囲うような刺。
 常緑樹のせいだろうか、ほとんど季節を感じさせることのないのに、冬の木と書く不思議な植物。
「……柊か」 
 土方はそう呟いて、奥の見えない瞳でじっと総司を見た。
 総司は瞬きもせずにその目を見返す。
 にこり、と笑った。
「刺のこと、すっかり忘れてて」
「深くはないんだな」
「大したことはないです」
「……ちッ。おい、山崎君」
 呼ぶと、彼はすぐに傍の襖を引いて現れた。
「悪いが奥に行って焼酎と当て布を持って来てくれ」
「――は」
 すぐに山崎の姿は消える。相変わらず足音もない。
 総司は呆れたように、
「だからそんなに大した怪我じゃないんですってば」
 と言ったが、土方はすぐに総司を見遣り、溜め息をつきながら、
「――怪我はな」
 と言った。
 そして総司の手を引いて井戸まで連れてくると、桶に一杯の水を汲み上げ、それで総司の手をすすぐ。
「『怪我は』って……どういう意味です?」 
 総司が見上げながら言うと、土方は懐の中から薬包を取り出した。
「石田散薬だ。飲め」
 桶に残った水を差し出し、薬包と共に総司に渡しながら言った。
 はあ、と総司は息をつく。
「――なんだ、最初っからバレてたんですか」
「俺を何だと思ってる」
「無駄に怪我なんかして、損しちゃった」
 と引っかき痕の残った手のひらをヒラヒラと振りながら、総司は笑った。
 土方はその様子を居心地悪そうに眺めながら、がしがしと頭を掻いた。  
 やがて山崎が持って来た焼酎で総司の手のひらを消毒すると、土方は神経質にも思えるほど何重にも当て布をした。
 これじゃあ剣が持てませんよ、と総司が苦笑したほどだ。
「……ひいらぐ、という言葉がある」 
 土方がそう言ったのは、総司の治療が終わって、山崎を下がらせ、総司がようやく廊下に腰を下ろしたところだった。
 知っているか、と尋ねられ、総司は素直に首を横に振った。 
「この木には刺が多く、触れると疼痛を起こす。痛む、という言葉を古語では『ひいらぐ』――やまいだれに冬と書いて、『疼ぐ』ということから、名前がつけられた」
「……へえ」
 本当に驚いて総司は目を見開いた。
「よく知ってますねえ、土方さん」
「これでも薬屋の息子だからな」
 関係あるのかないのか、土方は総司にだけはいつだって自分の素性を簡単に曝すのだった。
 柊。疼木。
 ふと思いついて総司は言う。
「そういえばどっちにも冬って字がつくんですね」
 その言葉に、土方は咥えた煙管で柊を示して見せた。
 緑の刺で埋まる柊の葉に埋もれ、ちらちらと白い花が見える。小さいけれどしっかり花びらをそらせ、花の少ない初冬の空にすっくと身を立たせていた。
 冬に花を咲かせるので、柊には冬という字が用いられる。
 総司は地面に足をつけると、下駄を鳴らしながらその花に近づいた。
「……いい匂い」
 金木犀に似た芳香があった。
「柊って節分のときに鬼避けで飾るんですよね」
 垣根の代わりに用いられることも多い。刺が多いので、侵入防止になるからである。その代わり、樹高はそう高くはならない。せいぜい総司の目の高さくらいだ。
「刺が魔除けになると考えられている」 
「……じゃあ大変だ」
「……?」
「土方さん、早く逃げないと」
 屈託無く笑う総司に、一瞬置いてその意味に気付いた土方は、笑うも怒るも出来ず、半分笑って半分怒ったような左右非対称の顔をした。
「俺は鬼か」
「土方さんじゃあ、刺の方が逃げ出しちゃいそうですねえ」
 ああ、それでこの柊は花が少ないんだ、と総司はくすくす笑った。
「この分だとあんまり実がつきそうにないなあ」
 柊、という植物は不思議だ。
 寒い寒い冬に、小さな白い花をつける。あれだけ強面をした刺の葉の中に、清楚な花が咲く。
 次の春には赤い実がつき、とてもいじらしい様相になる。
 刺はいずれ咲く花を待ち迎えるかのように、いつだって枯れず、いつも同じ表情で冬を待つ。
 そして実をつける春を。
「柊の赤い実って、可愛くて大好きなんです」
「……ほう」
「早く春が来ないかなあ」
 総司はそう言って、土方に笑いかけた。


















 どうしてそんなことを、今更思い出したのか。
 気が付くと、船室の自分の部屋で床について、既に二時間が過ぎていた。
 土方は気だるげに寝返りを打つと、ばさりと体を起こした。それに合わせて、撫で付けていた髪が少し乱れた。
 夢を見ていたわけでもないのに、大声で叫んだ後のような喉の乾きを感じて、寝台の傍にある水入れを手に取った。
 湯呑みに注ぐのが面倒で、そのまま口を付けて飲む。
 こういう飲み方をすると、だらしないですよ、とよく叱られたものだった。
 ふと、その水入れの傍に視線を落とす。読みかけの本に挟んだしおり。
 一枚の柊の葉。
 既に水分を失い、何度も触れたせいで葉脈だけになってしまった。紙漉きに挟んでしおりにすればいいのではないか、と進言したのは市村だった。
 市村は、土方がこの柊の葉を持っている理由も、そしてその所以も恐らく知らぬに違いない。それでもうすうすと感じ取ってはいたのだろう。土方は市村のそんなところを気に入っている。
 最初に見たとき、総司に似ている――と思った。
 顔立ちが、ではない。透き通る目の色。その真摯さ。一度信じたものを、決して疑うことのない心。
 そしてそれゆえに、こいつはろくな道を歩かないだろうと思った。それは不幸だと思った。
 けれども市村は土方についてきた。『彼』と同じように。
 市村もまた、『彼』と同じ道を辿るのだろうか――
 土方は葉の形に切り取られたしおりに目を落とした。
 しおりにはさまれた柊の葉を、くるくると指先で回すと、昔そうして遊んでいた『彼』のことを思い出した。
(ほら、見てください。……ね、上手でしょう) 
 そんな小さなことに、まるで子どものように喜んで。
(あ、土方さん、回ってないですよ。こうして回すんですよ……もう、手先が器用なんだか不器用なんだか)
 上手く柊の葉ひとつ回せない土方に、彼はからかうような笑みを向けた。
 彼は。
 沖田総司という人間は。
(春まで――ここにいられたらよかったのに) 
 屯所に咲いていた柊の花を見ながら、総司は悲しそうに言った。
 もうその頃には頬が痩せ、爪の先までも真っ白くなってしまっていた。ひとりで歩くのも厳しいくらいに衰弱していた。
 一度屯所を移したときも、わざわざ柊の枝をひとつ移したが、さすがに療養所までは持っていけなかったのだ。
 柊は冬に花をつけるが、実をつける木は非常に少ない。目にすることもめったにない。
 だからこそ、彼は見たいと言っていたのに。
(ねえ、土方さん)
 療養所を訪れたとき、一度だけ総司が土方に尋ねたことがあった。
(あの柊――また花が咲きましたか)
 初冬のことだった。
 刺に隠れて目立たない、小さな白い花。 
 沖田総司は、そういう男であったと、土方は思う。
 桜のように華やかに咲くのでも、菊のように大輪をつけるのでもなく、――金木犀ほどの芳香もなく。
 ただひっそりと咲き、その美しさに気付く者の心を和ませる。
 彼を知る者は、まず剣の技術に驚愕し、まるで人を斬るために生まれたような男だと語る。
 そうではない、と土方は思う。 
 少なくとも、自分の知る総司はそうではなかった。
(いや。……もう葉が丸くなっちまったよ) 
 ヒイラギは樹齢が進むと、鋸歯がとれて歯が丸くなる。
 そう言うと、総司はなぜか嬉しそうな顔をして、
(……そうですか)
 と掠れた声で呟いた。
 
 その冬、屯所では一度も花が咲かなかった。

 あの柊は、土方の手で切り倒した。
 葉が総て刺を失ってしまったからだ。そうなるとあとは柊は弱い。簡単に枯れる。そうなるのを見たくなかった。
 今でも思うことがある。
 どうして彼でなくてはならなかったのか。
 ――どうして、死ぬのは『沖田総司』でなくてはならなかったのか。
 自分では駄目だったのか。
 何度も考えた。どうして自分も共に死ぬことが出来なかったのか。
 あれだけ傍にいたのに、現在に至るまで土方の体には異常がなかった。咳のひとつもしたことがない。
 それを土方は悔しく思った。 
 彼は死んだのに、どうして自分は生きているのだろう。 
 こうして髪を短くなどして、洋装など似合わぬ格好をして。
 彼は死んでしまったのに。
 どこに行ってももう彼に会うことはできない。あの陽だまりのような笑顔を見ることは出来ない。
 いつだって長い髪を揺らしていた、あの首筋に顔をうずめることも、抱きしめることも出来ない。
 あれから、土方の中で総ての季節が止まった。
 あの柊を切り落とした瞬間から、自分は本当に、鬼にさえなってしまえると思った。
 その鬼となった自分が、未だ柊の葉ひとつ捨てられずにいる。
 もう冬は過ぎた。四月が終わったのか終わらないのか、日付を数えるのが苦手な土方には分からない。
 声を掛ければ市村がしどろもどろに答えてくれるだろうが、今は季節を知りたくなかった。
 ずっと春など来なければいい。
 そう思いながら、窓の外を見た。
 洋室の硝子というものは、襖よりもずっと透明で、船室の外が見えた。
 ふとその窓の、真っ暗な夜の空に、ふわりと白いものが浮かんだ。
 それが何であるか土方が把握する前に、その白い浮遊体は数を増やし、花びらのようにひらひらと夜空を舞った。
 
 ああ、柊の花が散っていく。
 一枚いちまい、その花びらが、空を舞う。
 雪となった柊の花が。
 
 ――総司。

 土方は思わず叫んだ。
 声にはならなかった。
(そういえばどっちにも冬って字がつくんですね)
 それは、
 冬に咲かせる花だから。
(早く春が来ないかなあ)
 総司が笑う。
 大きな目を細めて。
「総司……ッ」
 今度こそ、声になった。
 が、それは土方が思ったよりも、ずっと低く小さな声だった。
 ほとんどが吐息だった。
 手の中から、カタリと柊の葉が落ちる。
 喉がずくりと熱くなって、その熱は目の奥に響いた。
 瞼から熱いものが滲んで、目の前が見えなくなる。
 それでもどうしても言いたかった。
 彼が目の前にいるうちに。
「――お前を」
 生きている間に、一度も言えなかった言葉を。
「誰よりも、」








 本当に誰よりも、愛していた。







 目の前がぼやけては、頬を熱いものが伝っていく。
 土方はそれを拭うことなく、寝台から足を下ろし、そして背後の扉に声を掛けた。
「――市村」
 はい、とすぐに返って来る返事がある。
 がちゃりと様式の扉が開いて、真っ暗な寝室には廊下からの灯りが差し込んだ。
「何ですか、副長」
 既に彼しか呼ばなくなった名に、土方は小さく笑った。
 そうだ。死ぬときは。
 自分は、新撰組副長として死ぬのだ。
 自分は最期まで、新撰組副長土方歳三なのだ。
「……お前に頼みたいことがある」

 



 土方が市村に渡したものは、己の写真と一筋の遺髪と、そして一振りの愛刀であった。
 それは市村の手によって日野の土方の親族へ渡され、現在に残るところのものである。
 だが、土方が死した時、彼の懐に一枚の柊の葉が携えられていた事を、

 知る者は、誰もいない。












 見えるか。
 空が綺麗だ。
 雲が浮かんでいる。
 見上げると鳥が空を飛んでいて、
 どれも大きく羽ばたいて、
 宙を割るように空を滑っていく。
 見えるか。
 ちゃんとお前にも見えているか。
 俺のいる場所から、お前の姿は見えないけれど、

 雪解けの風に紛れて、
 あの花はきっと何処かで実をつけている。

 お前が大好きだった、柊の紅い実を。



(終)

 



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