スパイラル

 君がその手を離す日が来たら。

「――三蔵」
「何だ?」
「・・・俺、髪切るよ。」

 唐突に悟空が言い出したのは、旅の出発も迫ったある日のことだった。
 たいして多くもない荷物を整理しながら、済ませておかなければならない書類を、今のうちにと片付けていた三蔵は、部屋に入ってくるなり口にした悟空の言葉に驚いて、筆を止めた。
 眼鏡の向こうで、悟空は真剣な面持ちをして三蔵を見つめている。
 その首筋から背中の真ん中辺りまで伸びた髪が、ゆらり、と遅れて揺れる。
 三蔵が半年に一度、自分の髪を切るついでに悟空も、と切るくらいなものであって、ほとんど伸びたい放題にされている茶色の髪は、念入りな手入れをしているとは言えないにも関わらず、さほど傷んでもいない。
 日焼けをしているせいで少し色素が薄くなっている気もするが、まあそれでも綺麗な部類に入るだろう。
 三蔵にしても、特別気にいっているわけではないにしても、その髪に触れる感触は嫌いではなかったのだが。
「いきなりどうした?」
「だって、もうすぐ旅に出るんだろ?鬱陶しくなるかと思ってさ」
「――それはそうだが・・・」
 口を濁す形で三蔵は言葉を止めた。
 三仏神の命令で旅に出なくてはならないと決まったのは、ほんの半月前のことだ。
 それ以来、悟空が何かと髪のことを気にしていることも知っていた。朝起きてふと見ると自分の髪をいじっていたり、執務室の中で自分の仕事が終わるのを待っているときも、髪を光にすかしてみていた。
 気付いて見やると、まるで隠すように触るのをやめるのだが、何か髪遊びでもしているのだろうか――くらいの意識しかなかったのだ。
 本人が長髪を気に入っているかいないかということを尋ねることもなかったし、三蔵が切る際に長さを尋ねることもなかった。
 三蔵はといえば、無造作に切っているせいでいつもまちまちで、それでも少しずつ伸びてきている。
 最近では襟首に落ちる髪が鬱陶しくて、髪紐で止めている。
 ――多分、旅が始まれば動くことも多くなるから、悟空が長髪を鬱陶しく思うようになることは容易に想像が出来る。
 が、今三蔵の前で『髪切るよ』と言い出した悟空の視線は、「鬱陶しい」一言では済ませられない色も見え隠れしている。
「長いだろ?今のまんまじゃ」
 そう言って悟空は長い茶髪を引っ張って自分の前に持ってくる。
 長いと言えば長い。特に、髪を見ることすら少ない寺院の中では、間違いなく長い部類に入るだろう。
「鬱陶しいなら切ってやるが――いいのか?」
「いいって、何が?」
「・・・いや、なんでもない」
 そう言って、三蔵はやはり会話を切った。
 悟空はといえば、不思議そうな目で三蔵を見ている。
「何か三蔵、変だぞ?」 
「――馬鹿猿が一丁前なこと言ってんじゃねぇよ。ホラ、後で切ってやるからさっさと出て行け。仕事が残ってるんだ」
「おう。じゃ、また後でな」
 悟空はあっけないほどの素直さで部屋を出て行く。
 三蔵は、思わずその姿にため息をついた。

 ――いつからだろう、と思う。
 いつからこの目は、あの茶色の髪を追いかけるようになっていたのだろう。
 三蔵は煙草を咥えつつ、手は書類の上を筆を持って滑らせながら、頭の中ではまったく別のことを考えていた。
 眼鏡を少し上げて、目を細めてまた新しい書類を手にする。真っ白なそれを少しずつ墨で染めていきながら、終われば新しい書類を・・・という単純な繰り返しの動作を、先ほどからずっと続けている。
 飽きは来ない。頭の中で考えることはいつだって、決して終わりはしないのだから。
 不意にスッと手が滑って字を誤った。
 三蔵は小さく舌打ちをしながら、予備の巻物を取り出そうと引き出しを開ける。
「――ん?」
 そこに懐かしいものを見つけて、三蔵の視線が止まった。
 旅に出るのにあらかたの私物は片付けたつもりだったが、そういえば執務室の机の引き出しは忘れていたな――などと思いながら。
 
 不細工な、紙飛行機だった。

 確か――と三蔵は記憶を手繰り寄せる。 
 悟空を拾ってきて3日も経たない頃、寺院にもこの世界そのものにもなかなか馴染まない悟空の手をとり、紙飛行機の作り方を教えてやったのだ。
 無理やり教えた気もする。自分も若かったのだ。
 拾ってきて1ヶ月は、三蔵も苦労した。今では想像できないことだが、自分以外の人間に、悟空は誰とも心を開こうとはしなかった。
 勿論それは寺院側の冷たい態度のせいだというのもあるだろうが、それ以上に頑なであった。
 そして、開きたくない口を無理やり開き、どうして岩牢の中に閉じ込められているのかと尋ねると、
(・・・俺、知らないよ。知らないもん)
 そう言って、自分にむしゃぶりつくように法衣に顔を埋めて離れようとしない。
 それは嘘ではなかった。その幼い体の中に、片鱗の記憶すら残ってはいなかった。
(頼むから離れてくれ。仕事しなくちゃなんねーんだよ) 
 自分から離れようとしない小猿をそういってなだめても、悟空は法衣を握り締めて放さない。
 今から考えれば、それは無理もないことだったのだろう。岩牢から出されて、いきなり人の眼のさらされる場所へ、それも自分にあまり好意的でない人々のいる場所へ連れて行かれたとしたら。
 握った法衣以外に、その手を引っ張る三蔵以外に、その幼い手のやりどころはなかったのだろう。
 仕方なく、せめて何か夢中になれるものがないかと探した矢先――偶々そこに、未使用の書類の紙が余っていたのだ。
(かみ・・・ひこうき?)
(ああ。教えてやるから、折ってみろ)
 悟空は思った以上に不器用で、やっとのことのかけて初めて折り上げた紙飛行機――
 それが、今三蔵の机の引き出しにしまいこまれているものだった。
 思い出が三蔵の頭を一瞬にして過ぎり、さすがの三蔵も息をついた。
 もう、あれから8年も経ってしまったのだ。
 若い15歳の少年だった自分は、23歳になった。何も変わっていない気もするけれど、やはりあの頃とは違う気もする。
 引き出しの中の紙飛行機が、少し古びてしまったように。
 今では悟空は「人見知り」の言葉も知らないくらいに活発だし、事件の中で出会った悟浄や八戒とも心を赦している。
 それだけでもあの頃とは大違いだ。
 ――けれど、と三蔵は思う。
 ほんの少しだけ、あの頃に戻りたいと思う自分もいる。
 それはとても不条理なことだ。
(さんぞ、さんぞぉ・・・っ)
 悟空が自分に縋っていることしか知らなかった、あの頃に戻りたいなんて。
 それは多分、少しずつだけれど――悟空が自分の手を離れつつあるせいだという予感も三蔵の中にはある。
 悟空は、悟浄や八戒の存在を知り、そしてこれから自分以外のたくさんの存在を知って、いつかはこの手を離してしまうだろう。
 それを考えると、ほんの少しだけ――戻りたくなるのだ。
 悟空が自分以外の誰とも心を開こうとしなかった、あの頃に。
 それはまるで馬鹿らしいほどの独占欲だ。
 馬鹿らしいと判っていながら、それでも。
「――馬鹿は俺だな」
 三蔵は誰ともなしにつぶやくと、紙飛行機をもう一度机の中にしまいこんだ。
 紙飛行機は色褪せた。同じように、悟空も変わっていくのだろう。
(・・・ああ、判った。) 
 三蔵は心の中で呟いた。
 先ほど、自分があれだけ悟空の髪にこだわってしまった理由を。
 長い長い年月で伸ばされた髪が――自分と悟空との繋がりのように思えたのだ。
 それは本当に馬鹿らしい錯覚なのかもしれないが。
 あの髪を切るさりげなさで、いつかそれでも繋がりを切る日が、きっと来る。 
 ――そのとき自分はどうするだろうか。
 三蔵は指に挟んだ煙草を灰皿でもみ消すと、息をもう一つついた。

 ジャキ、ジャキ。
 心地よいほどに髪を切る音が、鋏を持つ手から振動となって伝わる。
 それと同時にパサリと長めの茶色の髪が足に纏わりつくように落ちて、三蔵は何度か腕でそれを振り払った。
 寺院の庭の土に同化するようにも見える髪をほんの少し目で追うと、三蔵はまた鋏を動かした。 
「だいぶ切ってるなぁ」 
「鬱陶しいんだろ。いっそ坊主頭にでもしてやろうか? すっきりするぞ」
「うっげ・・・それだけはやめて」
 髪を切る寺院の庭に、二人の会話が聞こえる。
 もう散髪には定番の場所になってしまった中庭だ。ここなら髪が落ちても係りの僧が掃除をしてくれるし、屋外よりよっぽど都合がいい。
 結局三蔵は仕事を終えないまま、先を悟空の髪を切ることにしたのだった。
 椅子に座って、髪を切るのになされるがままになっていた悟空が、不意に声だけで三蔵を呼んだ。
「なぁ、三蔵ー」
「・・・何だ?」
 三蔵は鋏を持つ手を休めないまま、煙草を咥えなおして答える。
 悟空は足をぶらぶらさせると、
「俺が旅についてくの、サンブツシンに言われたからだよな?」
「・・・いきなりどうした?」
「ん〜、何となくさ、考えただけ。もし言われなかったら、ずっと留守番してなきゃいけなかったのかな、とか」
「・・・・・」
 三蔵は無言で鋏を動かす。
 一筋、一筋と髪が切られて落ちていく。
「三蔵が、さ。・・・三蔵が、」
「――どうした、悟空?」
 声が揺れていることに気付いた三蔵が、悟空の肩を掴んで前まで回ってくると、悟空は一変して眉を顰めてうつむいていた。
 切りかけの長髪を払って顔を出してやると、泣き出しそうな顔をしていた。
 さっきまで元気にしていたせいか、突然のことに驚いて三蔵は目を瞬いた。
「どうした、・・・おい?」
「――三蔵が、」
 悟空は自分の名前を繰り返す。
「三蔵がさ、俺だけのモンだったらなぁとか、――考えただけ」 
 三蔵は一瞬息を止めた。――先ほどの自分が、目の前にいるような気がした。
 ゆっくりと息を吐き出すと、鋏と手のひらに滲んだ汗を軽く拭った。
「・・・俺はモノじゃねーよ」 
「判ってるって。そーゆーことじゃなくてさ」
「どういうことだ?」
「なんて――言えばいいのかな」
 悟空はそう言うと、切りかけの髪に触れた。
「サンブツシンが言わなきゃ、俺はずっと留守番してたわけだろ? そしたら当分三蔵には会えねーし。」
「フン。五月蝿くなくてサッパリする」
「・・・そういうと思った」
 悟空は苦笑した。
 三蔵は鋏を再び動かし始めている。
「例えばその旅の途中で、三蔵はまた俺みたいな奴助けて、一緒に帰ってくるかもしれないじゃん?」
「・・・」
 可能性がないわけではない。
 牛魔王の復活阻止――それはあまりにも莫大な目的なのだから。
 あまり面倒なことに足を突っ込みたくはないけれど。
 悟空は自嘲するように言い放った。
「そうしたら、俺、居場所ねーなー、とか」
「・・・」
「・・・きっと耐えらんないだろーな、とか。」
「――ガキだな」
「・・・ガキだよ」
 悟空はむしろさっぱりした口調で言う。
「でもガキだからさ、三蔵といたいんだよ」 
 その目で空を見る。
 ふと視線を追って――見上げる。
 何処を見ているのだろう。この空の青い空の、一体何処を、
「だから髪、切ろうと思って。」
「――思いっきり脈絡ねーぞ」
「だって三蔵引っ張るじゃん?」
「・・・は?」
 それこそ脈絡のない言葉に、三蔵は思わず空を見るのを止めて悟空を見下ろした。
 その視線は、間違うことなく。
「――三蔵って、俺を呼ぶ代わりに髪引っ張るじゃん?」
 間違うことなく三蔵を見つめていて、その視線の強さに、三蔵の方が視線を逸らしてしまった。
 そういえば――そうだったような気もする。
 手を伸ばすところにすぐ茶色の髪があって、引っ張れば金色の瞳が自分を振り向いて。
 ――ああ、そうか。

 俺はずっと、そのことに甘えていたのかもしれない。

「だから今度は俺の名前――呼ぶしかねーだろ?」
 手を伸ばすだけでは、人は振り向いてはくれないのだ。
 呼ばなくてはならない。どんなにそれが体裁悪いことでも。恰好悪いことでも。
「そしたら俺の居場所が出来るじゃん。」
 名前を呼ぶ。それだけで、
「――俺はいくらだって三蔵を待てるよ」
 そう言って、君は笑う。
 ・・・だから。
「――おい、悟空。」
「なーに?」
 今度は名前でお前を縛ってやろう。
「・・・・・・呼んでやったぞ。」
 それが始まりだとも知らないで。

 君がその手を離す日が来たら。
 ――今度は、その背中に呼ぼう。
 色褪せた紙飛行機を飛ばして、いつか、見上げる青空に。


 

 

 


 (終)






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