WILL

 窓は、うっすらと曇っている。

 数日続いた雪のせいで、窓の桟にまで溜まった雪が、外の闇を映すように、ほの白く覗いている。
 悟空はぼんやりとそれを見つめながら、その視線を外へと映した。
 気が遠くなるほどの、何も見えない闇。
 曇った窓に霞んで、遠くの明かりがぼんやりと見える。
 キュッと袖口で窓を擦ると、見慣れた自分の顔が映った。
 見慣れた、見飽きた、自分の顔。
 それを見ないように外へと目を凝らすと、部屋の明かりに、地面に降り積もった雪が見える。
 窓のカタチに切り取られた雪。

 数日前、その雪は真っ赤に染まった。

 一人の男の狂おしいほどの想いが、雪を紅く変えてしまったのだ。
 悟空は目を閉じる。
 彼が最期に流した涙が、ふと浮かんだ。
 別に彼は、無理難題を望んだわけではない。
 ただ普通の生活を望んだ、ただ普通の男だった。
 ただ愛する者を守りたいと、変わらぬ日々を送りたいと願った――それだけの。 
 
 それなのに、彼は死んだ。

「・・・墓」
 ぽつり、と悟空が呟いた。
 乾いた部屋の中に、シューシューと薬缶から零れる音に混じって、響かずに声が跳ねる。
「・・・墓、まだ残ってるかな」
 その声に、悟空と同じ部屋で新聞を広げていた三蔵は、ピクリと片眉だけを跳ね上げた。
 視線は新聞に落としたまま、視線を上げて悟空を見る。
 悟空はただじっと窓の外を見つめながら、組んで窓の縁に乗せた腕に、顔をうずめている。
「――知るか、そんなこと」
「ひょっとして掘り返されたりしてないかな?見せしめとか言って――」
「知らねえっつってんだろうが」
 三蔵の声色が少し低くなる。
 少しだけ機嫌が悪くなるときの、三蔵の癖だ。
 その気配を感じ取って、悟空は開きかけた口を、所在無さげに再び閉じた。
 三蔵は、過去の話をすることを酷く嫌う。
 それが、ほんの数日前のことであっても、数時間前のことであってもだ。
 だからいつもならそんなことは口にしないのに、今日だけはどうしても空白の時間がやりきれなくて、悟空は口を開いた。
「――墓って、初めて見た」
 ぽつり、と言葉が吐き出された。
「人ってさ、あんな風に――死ぬんだな」
 その声は、顔こそ向けられていないものの、確かに三蔵に向けられている。
 悟空は寺院育ちだ。だが、寺院そのものに墓は無い。
 偉人の葬儀などが執り行われるにしても、其処で見る「死」のイメージは、限りなく「生」に近い。
 まるで未だ生きているかのように花を手向け、生きているかのように死化粧を施す。
 あるいは、言葉を詠み、その魂はまだ生きているかのように、冥土への道を誘ってやる。
 その後葬列をつくり、墓まで運ばれるまでの経過を、悟空は知らない。
 人がどのようにして土の下へ埋もれるかということを知らない。
 土気色の顔はしていても、まだ何処か生きて居そうな雰囲気のある人間を、「死」人として葬ったのは初めてだったのだ。
 今にも声をかけてきそうな人が、土の下へうずめられ、その顔へ一振りの土が掛けられた瞬間。
 その瞬間に、ああ彼は死んだのだと、悟空はようやく気づいたのだ。
 あれこそが「死」。
 人が本当に死ぬと言うこと。
「・・・ま、人じゃあねえけどさ」
 悟空はへへっと薄く笑った。
 その自嘲気味な笑みは、決してあの男だけに向けられた物ではない。
 三蔵の眉間に、皺が寄る。
「別に、死んだら墓場行きってだけじゃねえよ」
 バサバサとわざとらしく新聞を片付けながら、袖口から煙草のケースを取り出す。
 法衣にも余りにも似合わないそれ。
 カチッとくぐもった音がしたかと思うと、悟空の鼻を煙草独特の匂いがついた。
 悟空は部屋の中へ向いた。三蔵は気だるそうに寝台に腰掛けたまま、煙草を数度ふかしている。
「・・・散骨でも散華でも、幾らでも方法はある」
「さんこつ?」
「――骨を、散らす」
「・・・あ――」
 悟空の目が一瞬丸くなった。
 短い言葉だったが、それで判ったらしい。
「そっちの方が善かったかな」
「――何処へ散らすつもりだ」
「雪の、中」
 答えると、三蔵は、はぁ、と息をついた。
「莫迦か」
「・・・どして?」
「春になったら雪は溶けるな?」
「――あ、そっか・・・」
 たとえば彼の骨を雪に散らしたとすれば。
 春が来て、雪が溶け、そしていつかはその骨が、望ましく無い誰かの目に止まることもあるかもしれない。
 それこそ死者への冒涜だ。
 悟空は再び視線を落とした。
 ――何も、あの男の死に際だけを考えているのではなかった。
 たとえば、・・・そう、たとえば。
「三蔵は散骨が似合ってるよなあ」
 言葉に出すと、三蔵が目を細めた。
「・・・何言ってやがる」
「死んだ後。骨、どうすんのかなって思ってさ」
 軽い口調で、さばさばと悟空は言った。
 ますます三蔵の顔が不可解を示す。
 あ、でも別に土葬なら骨じゃないんだよな、と悟空は付け加えた。
「・・・な、どれが善い?」
「何でてめえにそんなこと言う必要があるんだ」
「えー。だってホラ、遺書だって元気なうちに書くもんだろ?」
「・・・勝手に俺を殺してんじゃねえよ」
 三蔵の声が低く聞える。
 その三蔵らしさが何となく可笑しくて口元に笑みを刻むと、三蔵の声が飛んだ。
「何笑ってやがる」
「別に?なあ、どれがいい?」
「・・・だから何でそんなことを言わなきゃならねえっつってんだ」 
 同じ言葉を繰り返すと、悟空はまた喉で笑ったようだった。
 篭ったような笑い声が、乾いた空気に乗る。
 それが止むと、ふいに悟空の声が低くなった。

「――だって三蔵の方が、先に死ぬだろ?」

 その言葉に、三蔵は息を止めた。
「俺の聞いても仕方ねーじゃん。だから三蔵の遺言聞いてんの」
 軽くもなく、重たさもなく、悟空はそう言う。
 それは、乾いた空気に、ほんの少しだけ湿り気を与えた。
 当たり前のことだと言ってしまえば、それまでだ。
 悟空はこれまでもそうして生きてきたのだし、きっとこれからもそうして生きていくのだろう。
 三蔵よりもずっと、永く永く生きねばならないのだろう。
 だからそれは、当たり前のこと。
「三蔵は考えたこと無いかもしんねーけどさ」
 思っていたことを言われて、一瞬どきりとする。
「・・・俺は、いつか一人になるんだよ」
 だから、ちょっとの遺言くらい、いいだろ?
 そう言って、笑う。
 その笑みに、自嘲も悲しみもない。
 三蔵は知らず知らず視線を外していた。
 
 当たり前のことを、考えずに来た。

 忘れていたわけでは無いけれど、意識に無かった。
 いつか死ぬだろうという予言は、あまりにも予言としては成り立たない、自明確実なことだから。
 それでもそれが確実で無い悟空のような存在にしてみれば、三蔵の一生などあっという間のことなのだろう。
 死ねば生まれ変わるのだというのは、儚い宗教観だ。
 生きる、出会う、死ぬ。生きる、出会う、死ぬ。
 その経験を悟空は一体何度繰り返しているのだろう、と不意に思った。
 そして何度、別れを数えてきたのかと。
 
 ふと、自分の死後のことを考えてみた。
 
 自分の居ない悟空を考えてみた。
 そうしてまた待つのだろうか。
 指折り指折り、空を見上げながら、雪に怯えながら――誰かを待つのだろうか。 
 笑みさえ忘れるほどの、永い永い時間を。

 

 ・・・自分ではない誰かを。

 

「――――墓。」

 三蔵の唇から言葉が零れた。
 悟空が顔を上げる。
 その金色の瞳を、これ以上ないくらいに貫いて、見た。
「・・・・・・墓に埋めろ」
 言葉に、悟空の瞳がわずかに揺らぐ。
「骨でも、土葬でもいいから、墓に埋めろ」
「・・・墓・・・?」
「ああ。別に墓標は要らん。埋めるだけでも善い」
 それは玄奘三蔵という名が赦しはしないだろうが、一番適当でもある。
 悟空は三蔵の意外な言葉に驚いたのか、肩を少し傾けた。
「・・・どーして?」
 その仕草に、三蔵は答える。

「一人になるのは、てめえだけじゃねえだろう?」

 悟空の目が、丸くなった。

「二人分の墓なんざ、こっちだって面倒見切れねえからな」

 誰かを待つ、自分以外の誰かを待つ悟空の姿など、想像もしたくなかった。
 ――そうだ。
 どうせ同じ別れならば。

「・・・墓は一つでいいだろう」

 どうせ同じ別れならば、
 同じ場所に帰り着こう。
 ――決して目覚めることのない夢を。
「さん、ぞ・・・」 
「それが、」
 声を遮る。
「――俺の遺言だ。」
 冷たい言葉が、温かく響く。

 だから、そうだったのか。
 悟空の頭に、ふとそんな言葉が過ぎった。
 彼は、『普通』を望んだから。
 だから、死んでしまったのかもしれない。
 愛する者を守ろうとしたから、殺さなくてはならなかったのかもしれない。
 ・・・そうだ。
 だから預けてしまえばいい。
 命も想いも何もかも。
 狂おしいほどの想いならば、いっそ。
 いっそ狂ってしまえばいいのだ。
 お互いの姿しか見えないほどに。
「だから三蔵って、ズルイんだよなぁ・・・」
 悟空は呟いた。
 瞳を逸らさずに、三蔵の待つ寝台へと近づく。
 三蔵は無言で手を伸ばした。
 その手が、悟空の頬に触れる。
 悟空はその指に、愛おしげに口付けた。
「・・・だから、すきだよ」



 (終)




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