例えば君の手のひらを。


 たとえばその手を離したら。

「なぁ、アレ買って! ・・・あ、これもっ!! あの肉マンもうまそー♪」
「うるさい、黙れッ!!」
 三蔵はこめかみをひくつかせると、本日何度目になるか判らないハリセンを振り下ろした。
 スパアァアンッ、と人ごみでも一際目立つ音が響く。
 これだけ人がごったがえしている中で、よくもまあこれだけ狙いが定められたものだと言わんばかりの正確さで、どうやらそれは、目標物に届いたらしい。 
 フン、と息を吐いて頭一つ分下を見下ろせば、飼っている小猿が、涙目で三蔵を見上げていた。
「・・・ってえ・・・何すんだよぉ」
「うるせえっつってんだろうが。この人ごみの中でギャアギャア喚くんじゃねえ!」
 三蔵の整った眉がつりあがる。
 悟空は未だ涙を浮かべた目で三蔵を見上げると、ちぇ、と小さく舌打ちをした。
「なんだよ、ちょっとくらいいいじゃんか。普段は滅多に外に出してくれないくせに」
「そりゃてめえが一人で街出たら迷うからだろうが」
「迷わねーよッ! 寺院への帰り道くらい知ってるし!」
 ぷう、と頬を膨らませて悟空はそっぽを向いた。
 着慣れないチャイナ服の肩へ、ぱさりと合わせて髪が落ちる。
 未だ男の体になりきれていない、ともすれば少女に見られないこともない悟空を、三蔵が寺院の外へ出したがらない理由というものを、幾ら説明したところで、きっと悟空には判らないに違いない。
 三蔵は、ふう、と溜息をついた。
 自分がいるときは、まあいいだろう。
 だが、一度目を離してしまうと、そうでなくとも探究心旺盛な悟空のことだ、声を掛けられれば、誰何せず誰にでもついていてしまうに違いない。
 その無防備さが、もっぱら三蔵の頭を悩ませるところであった。
「・・・そういう問題じゃねえんだよ、馬鹿猿」
「バカバカ言うなよっ。知ってるか? バカってゆー奴が馬鹿なんだぜ?」
「・・・・・・知るか、そんなこと」
 未だ頬を膨らませたままの幼子の姿に、そっと溜息をもう一つする。
 本来ならば此処で、誰が馬鹿だ、ともう一つハリセンをかますのが定石というものなのだが、いかんせん今の三蔵にそんな力は無い。
 今日半日、ずっとこんな調子なのだ。
 さすがの三蔵も疲れ切っている。
 だが、幾ら疲れようとも、今日の外出の理由は悟空にあるのだから、今日ばかりは連れ出さざるを得なかったのだ。
 ――まあ、今回ばかりは自分に非がないとは言えぬから。
「・・・っくしゅ」
 そう思った矢先に、背後で小さなくしゃみが聞える。
 珍しく眉をひそめて、三蔵は振り向いた。
「大丈夫か」
「・・・ん」
 そう言いつつも、瞳を見やれば、どこかぼんやりとした色をしている。
 三蔵は悟空の額に手のひらを当てた。
 いつも自分より体温は高いのだが・・・やはり、いつもより幾分か熱い。
「・・・注射、痛いの我慢したのに」
「すぐには効かねえんだろ」
「薬とか、ねえの?」
「――あまり飲まん方が善い」
 そう言って、手のひらを繰り返し額に当ててやる。
 体温の低さが気持善いのか、うっすらと目を細めた。
 その様子が、まるで自分に全てを預け切った仕草のように思えて、三蔵は何となく居心地が悪くて、視線を逸らした。
「・・・馬鹿は風邪引かないってのは、嘘だな」 
 そんなことを言うと、また、その小さな頬が膨れた。
 ・・・そう、自分の非でないとは、言い切れぬのだ。
 三蔵は息をついた。
 三日前。
 寒い夜。
 風呂上りは冷えるから、きちんと服を着ておけなどと言っておいて。
 ――濡れた髪と、風呂場より温度の低い寝室で上がるわずかな湯気に煽られて。
 その結果。
「大体さー、三蔵が風呂上りにあんなことするからいけないんじゃんか」
 膨れたままで、悟空は口を尖らせた。
 風呂上りに数時間。「あんなこと」に没頭してしまったが結果、見事に悟空は風邪を引いてしまったのだ。
 それは違うとも言い切れず、三蔵は頭を掻いた。
「・・・俺のせいじゃねえよ」
「三蔵のせーだよ」
「俺じゃねえ」
「三蔵だって」
 まるで子どものような言い争いである。
 それでも、わざわざ公務をほっぽり出して、悟空を医者に連れていくあたり、三蔵自身、自責の念を感じていないわけではないようである。
 結局、注射一本を打ってもらい、医者に「放っておいても治る」とのお墨付きまで貰い、寺院へと帰っているところ――なのだが。
 よくよく考えれば、初めから医者を寺院に呼べば善かっただけのことなのである。
 それに気付き始めた三蔵は、溜息代わりの煙草を咥え、心の中で溜飲した。
「じゃあさー、ここはツミホロボシに肉マン一個買ってよ」
 何処で覚えたのか、そんな片言の言葉で悟空は三蔵を見上げる。
「ツミホロボシって、てめえ判ってんのか」
「判ってるよ。悪いことしたヒトが、悪いことされたヒトに、謝るんでしょ?」
 何だ、判ってるじゃねえか、と言いかけて、論点が酷くズレていることに、三蔵は気付いた。
「・・・誰が悪いことした奴だって?」
「・・・・・・三蔵。」
「――てめえ、殺すぞ」
 そう言いつつ、眉間に危険な皺を寄せる。
「やっだねー、だ」
 悟空は舌を出して、人ごみの中、三蔵を置いて足早に走っていく。 
 足は短いくせに、こういうときの悟空は素早い。
 三蔵は慌てて追いかけようとしたが、すぐにその姿は見えなくなってしまった。
「おい、悟空――」 
 煙草の灰が落ちるのも構わずに、足を速める。
 ――が、何処に隠れてしまったのか、行き交う喧騒の中、あの小さな、茶色の跳ねる髪は見えない。
 まさか幾ら風邪だからと言って、迷子になってしまうことは無いだろうが、つうっと一瞬、三蔵の背を冷たい物が走った。

 そうだ。
 外に出したがらない理由を。
 寺院の中でさえ、その行動を束縛してしまう理由を。
 あるいは夜の、閨の中でさえも、その腕を絡みとってしまう理由を。
(・・・てめえなんぞに判ってたまるか。)
 三蔵は心の中でほぞを噛んだ。
 ・・・居ない。
 見えるところに居ない。
 触れるところに居ない。
 声の届くところに居ない。
 それが。
 ただそれだけのことが。

 ただ一つの存在が居ないことが、こんなにも胸を騒がせるのだということを。

 三蔵は煙草の灰を苛々と落とした。
 ――何処に居る?
 見当たらない。
 何処にも。
 これだけ人が騒がしく行き来しているというのに。
 これだけ多くの人がいるというのに。
 そうだ、駄目なのだ。
 どれだけ多くの人間がいても。
 彼で無くては、駄目なのだ。
 ひやりとどこかで不安が喚いた。
 ・・・そう、もしも。
 もしもこのまま、見つからなかったら。

「悟空――」

 喉を震わせて、三蔵は掠れた声を上げた。

 と、同時に、不意に、
 目を、何か暖かい物が覆った。
 しばらくして、それが人の手のひらであると判った。
「・・・へへ」
 後ろで、微かに笑う気配がする。
 慣れた気配だ。
 三蔵は目を見開いたまま、その後ろの気配が、自分の背中に抱きつくのを感じた。
 とす、っといつものように、それは子犬のように自分にむしゃぶりついてくる。
 目隠しは外された。
 三蔵は、まだ、目を見開いていた。
 後ろから抱きついたままで、嬉しそうに悟空は言う。
「へへー、びっくりしただろ?」
 三蔵は無言のまま、ようやく一つ、息をついた。
「ちょっと驚かせてやろーと思ってさ」
 無邪気に悟空は言う。
 そして、何も言わない、何もしない自分を不思議に思ったのか、その顔が、肩を乗り越えて自分を見上げた。
「・・・三蔵?」
 その目を。
 その手のひらを。
 ・・・その体を。

 

 

「・・・三蔵・・・?」

 

 

 気付くと、あらん限りに抱き締めていた。
「ちょっ・・・どーしたんだよ、三蔵。・・・そんなにびっくりした?」
「――ああ」
 低く、三蔵は答えた。

 言えるか。
 誰が言えるものか。
 その跳ねる茶色の髪を二度と見ないのかもしれないと、一瞬でも胸を過ぎった瞬間を。
 そしてその温もりが自分に戻ってきた瞬間の、あの、言い知れぬ安心感を。
 
 人が人と離れてしまうのは、本当に簡単なことなのだ。
 ぷつんと糸を切るように、たやすく出来てしまうことなのだ。
 例えば、そうだ、この喧騒で。

 たとえばこの手を離したら。

 ・・・たとえばこの手が、離れたら。

 

 


(・・・そんなに吃驚したのかな)
 悟空は三蔵に腕をとられたまま、空を見上げ、ぽりぽりと頬を掻いた。
 別に、そんなに驚かせるつもりでは無かったのだ。
 ・・・ただ、いつも、自分ばかりが追いかけているから。
 いつだってそうだ。
 自分は彼の三歩後。
 彼は自分の三歩先。
 その距離は、決して嫌いなものではないけれど。
 ――ただ、時々、その距離が遠く思えて、悲しくなる。
 悟空にさえ、一抹の不安というものはあるのだ。
 それはきっと、最近知り合ったばかりの友人に話せば、鼻で笑われてしまうような、子どもじみた不安だけれど。
 たとえば彼は自分の三歩先を歩いている。
 自分はそっと、足取りを緩めてみる。
 彼との距離が離れていく。
 三歩が三歩半になり、四歩になっていく。
 四歩半、五歩、五歩半、六歩・・・ 

 彼は、気付いてくれるだろうか。

 立ち止まってくれるだろうか。
 自分を待ってくれるだろうか。
(何かそのまんま置いて行っちゃいそうなんだよなぁ) 
 悟空は苦笑した。
 それは十分に有り得ることだ。彼の二言目は「置いて行くぞ」なのだから。
 でも、それは判りやすいとは言えないけれど、彼の優しさであることを、悟空は知っている。
 ――来なければ、置いて行くぞ、だから。
 来るなら拒みはしないのだと、その言葉の裏に彼は言う。
 そして彼が拒まない人間の、その数少ない一人が自分なのだと知っている。
 
 だから、それが、悟空の強みになるのだ。

 どれだけ寺院で厄介者扱いされようとも。 
 どれだけ僧達に厭な扱いを受けようとも。
 それでも自分がいる場所は確かに正しいのだと、そう思うための、道標になる。
 ――だから。
「じゃあ、ツミホロボシしてよ」 
 そんなことを言ってみる。
 三蔵が一瞬、怪訝な表情を浮かべる。
 ――自分は素直でないから、と悟空は思う。
 だから、こんな言い方しか出来ない。
 置いていかないで、なんて素直なことは言えないから。
「・・・肉まんは我慢するからさ、」
 見失わないでなんて、言えないから。

 


「だから、手、繋いで。」 

 

 

 悟空は笑う。
 息が、
 ――息が止まるかと思った。
 まさか、自分の考えていることを、見透かしたわけでは無いだろうけれど。
 三蔵は、ゆっくりと息を吐き出した。
 この子は、この幼子は、妙に敏いところがあるから。
「・・・馬鹿猿が。」 
 小さく、低く、声を出す。
 今度は悟空は膨れない。
 じっと自分を見上げている。
 笑ったままで。
 そうすると、自分のほうが子どもじみてしまったようで、三蔵はふい、と視線を逸らした。
 乱暴にその手を取る。
 熱のこもる手のひらを、荒く握った。
「――馬鹿言ってないで、帰るぞ」
 一言一言を区切った言葉に、悟空は笑って、頷いた。

 

 


 たとえばその手が離れたら。

 ・・・たとえば、その手が離れても。

 

 

 


 (終)






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