檸檬と桜と君と。

 


「わ、雨、止んだなぁ」
 悟空は窓をからりと開けると、綺麗に晴れ上がった空を見上げた。
 どこか篭った空気が、外の澄んだ空気と入れ替わる。
 雨の後と言うのは、悟空が好きなものの一つである。
 しっとりとした土の匂いも、雨粒の零れる木々の葉も、たった今生まれた赤ん坊のようで好ましい。
 半日もすればドロドロになってしまう泥道でさえも、自分の足跡を残すのは楽しい。
 もっとも、この年になっては、そんなことはしないけれど。
 悟空は窓を開け放って背伸びをすると、背後で寝台に伏せたままの男を見やった。
「三蔵、な、滅茶苦茶晴れてる」
「・・・見りゃ判るだろ・・・うるせぇ・・・」
 寝起きの三蔵は機嫌が悪い。
 しかも、昨夜は八戒と悟浄が来てしたたか飲んだらしく、どうだ二日酔いだとばかりに、眉間にしっかりとした皺が出来ている。
「もー、昨日あんなに飲むからだよ」
「覚えてねぇ・・・」
「コーヒーでも飲む?」
「頼む・・・」
 三蔵の珍しく腰の低い言葉に、悟空は少し笑う。
 簡単な小さい台所に立つと、セットしてあったコーヒーメーカーから、自分と三蔵の分のコーヒーを注ぐ。
 自分の分にはたっぷりのミルクと砂糖を入れた。
「ハイ」
「・・・ああ」
「今日、仕事は?」
「午後からだ。・・・それまでに起きれば何とかなるだろ」
「何とかなんのかよ、二日酔い」
「・・・微妙なところだな」
 三蔵がカップを受け取る。
「二日酔いってさ、檸檬とか食べると善いらしいよ?」
「・・・檸檬?」
「何とかっていう檸檬の成分が効くんだって。この間八戒が言ってた」
「・・・・・・ほう」
 食べ物にこと関して言えば、悟空の知識に勝るものは無い。
 それは三蔵も知るところである。
 しかし、ズキズキと疼くこめかみを押さえて、外にそんなものを買いに行く余裕は無い。
 そう思っていると、悟空が傍に転がしていた寝着を放った。
 悟空自身はしっかり自分の物を纏っている。だから、放られたのは三蔵の物だ。
「・・・何だ」
「何だって、三蔵の。風邪引くよ、そのまんまだと」
 二日酔いの上に風邪っ引きの三蔵なんて見ていられないしねー、と悟空は生意気な口を叩く。
 昔と同じく煩いところは変わっていないのに、時々自分をさえ手にとってしまう最近の悟空に、三蔵も少しうろたえるところはある。
 こんなところでふと、日が経ってしまったことを思う。
 日常は、旅に出る前と同じで、昔と何も変わり無い。
 悟空が煩いのは相変わらずだし、こなさなければならない仕事の数も変わらない。
 それでも旅の間は切っていた悟空の髪は、その切先が鎖骨に触れるほどになったし、自分の手のひらから硝煙の匂いが薄くなって久しい。
 悟空も先日二十代に足を入れ、ということは三蔵自身もあと数年すれば三十の大台に乗ってしまうのだと頭では判っているのだが、未だ実感できずにいる。
 三蔵が十五、悟空の十の時から二人はずっと変わらないままであるし、それだからこそ昔話の間抜けた男のように時の流れをつい失ってしまう。
 三蔵は寝着を受け取ると、悟空に目を細めた。
 昔と変わらぬ細い体躯。その中身が扱いがたいということは、昔も今も同じだ。
 今や二つの経文を有する三蔵法師の名を持ってしても、たった一人の少年さえ扱えない。振り回される。
 最近、その回数が増えてきた。 
 それが成長なのだと言ってしまえばそれまでなのだが、どうにもこうにも、手のひらでそっと包んでいたはずの蝶がヒラヒラと舞い上がってしまうようで、時々どうしようもない焦燥感に駆られる。
 気付けば置いていかれるのは自分なのではないかと、そんなことを考えるときもある。
「どーしたの、三蔵」
「・・・いや、何でもねーよ」
 口にコーヒーを含むと、意外な程に苦い味がした。
 煙草をすら苦いとは思わなくなった舌の上で、コーヒーの苦味だけは感じる。この辺りは味覚の不思議なところである。
「じゃ、俺行ってくるから」
 ふと気付くと、悟空はしっかりと身支度を整えて、出かけようとしていた。
 三蔵は軽く衣服を纏うと、眉を跳ね上げた。
「行くって・・・何処へ行くんだ」
「だから、檸檬」
「・・・ああ?」
 何言ってるのさ、という顔で、悟空が三蔵を見る。
「三蔵の二日酔いを治す檸檬を買いに行くの」
「・・・誰が」
「俺が」
 見て判らない?と悟空は首を傾げた。
 それは判らないわけではないが、と三蔵は身体を起こした。ズキン、とこめかみが痛む。
「・・・てめぇ、買い物の仕方なんて判るのかよ」
「判るよそりゃ。伊達に三蔵にくっ付いてるだけじゃないもんね」
「・・・・・・フン」
 三蔵は所在無さげに枕に再び顔を埋めた。
 裸の背にシーツが触れて、そのひやりとした感触に息をついた。
 同時に、ギシ、と寝台が軋む。
「じゃあ行ってくるから。風邪、引かない様にしとけよ」
「・・・ああ」
 部屋の扉を閉める、パタンという音が聞こえてから、三蔵は身体を起こし、もう一度コーヒーを含んだ。

 

 

 

 

 

 

 手から提げた買い物袋には数個の檸檬。
 その香りは袋の中に収まりきらないらしく、悟空の鼻を優しくくすぐっている。
 八戒の家で出される檸檬の薄切りの入った紅茶以外に檸檬を見たことはないのだが、試しにと思って店屋の主人に聞いてみたところ、砂糖漬けにしても美味しいし、薄く切った檸檬と砂糖を湯の中に入れて飲んでも善いらしい。
 ちなみに酒に入れて飲んでも美味いらしいのだが、それは今の三蔵にとっては逆効果になるだけだろう。
 今ごろ寝室でノビているはずの三蔵を想像して、悟空は小さく笑った。
 ――三蔵は変わらないと思う。
 自分を拾った時からそうだった。
 無愛想で、不器用で、自分勝手で冷たくて。
 昔は三蔵が自分を好きでないからだと考えて落ち込んだこともあったが、今はそんなことを思うことはない。
 自分が誰よりも相手に必要とされているという自信。
 無愛想も自分勝手も、決して悪意の表れでは無いと判ったから。
 西方への旅が終わった後、長安にたどり着く前に悟空は尋ねたのだ。
 自分はこのまま寺院に戻っても善いのかと。
 どんなに煙草を吸い酒を飲む男であったとしても、三蔵は「三蔵法師」だ。しかるべき場所でしかるべきことをして一生を暮さなくてはならない。
 だが悟空は妖怪だ。そして何より、もう二十歳に近付いた自分が三蔵と共に寺院に戻れば、誰より三蔵が寺院の中で奇異の目で見られることを知っていた。
 稚児といって誤魔化せる年ではなくなった。だからといって三蔵は自分を弟子としては扱わないだろう。
 三蔵と離れてしまうことは何よりも辛いことだけれど、少し離れたところで暮して、月に一度くらい会えるならそれも善いだろう――、悟空にはそんな覚悟があった。 
 そしてそう言えば、三蔵のことだから、きっと「好きにしろ」というのだろうと思っていた。
 だが三蔵の反応は悟空の予想とは違っていた。
(もし駄目だって言ったらどうするつもりだ?)
 三蔵は目を細めて悟空にそう尋ねた。
 悟空は三蔵に尋ね返されたことに少し驚きながら、
(悟浄の家・・・は無理かな。でも、どっかに家借りて、住む)
(借りれると思ってんのか? 未成年で職も無い猿が)
(この間の誕生日で十九だし。ってことは次の誕生日でハタチになるし。まァ職は日雇いでもして稼ぐしかないかな)
 そう言うと、三蔵は一瞬視線を揺らがせて、それからじっと睨みつけるような目で悟空を見た。
(・・・稼ぐ前に返して貰わなきゃならんモンがあるんだがな)
(返すって、三蔵に? ・・・何を?)
(てめえに掛けてやった面倒。九年間分のな)
 そんなものが返せるわけがない。悟空はそう思ったがそれくらいのことは三蔵だってわかっているだろう。
 三蔵は確かに我侭で自分勝手だが、決して不条理なことを言い出す男ではない。
 そんな三蔵を善く知っている悟空は首を傾げた。
(・・・・・・どうやったら返せるんだよ、そんなの) 
(それはてめえで考えるんだな)
 そう言ったっきり、三蔵は踵を返して歩き始めた。
 長安はすぐそこだ。八戒や悟浄は用があるからと途中から別ルートを取っているが、ジープなしでもこの距離なら半日もすれば着いてしまうだろう。
 悟空は立ち止まったまま、三蔵の遠ざかる背中を見た。
 この背中は変わらない。いつだって自分の前を歩き続ける背中。自分が追い続ける背中。
 無愛想な声で、不器用な仕草で、不機嫌な顔で。――それでも自分をいつも守り続けてきてくれた背中。
 いつだって――自分を。
(・・・・・・さんぞ)
 悟空は目を見開いた。
 返せという。九年間の面倒を。
 無理なことだ。目に見えないものを返せだなんて。
 時間を戻すなど出来ないということは、悟空だって判るのに。
 それでも三蔵は言う。
 "九年間の――"
 無愛想な声で。
 悟空はハッとした。
(・・・なぁ、三蔵――それって、)
 三蔵の背中が止まる。
 悟空は慌てて追いかける。
 そう――この距離。三蔵がいて、自分がいて。
 手を伸ばせば手の届くところにいる、どこかに触れる、そんな距離。
 それが三蔵には嫌なのだと思っていた。鬱陶しいと善く言っていたから。
 無愛想で、不器用で、自分勝手で冷たくて。
 そんな三蔵のことは、誰より自分が一番善く知っていたはずなのに。
(・・・三蔵――)
 呼びかけた声に、三蔵は動かなかった。
 
 お前はもう俺に終身雇用されているんだ、と。
 三蔵がその後に言った言葉を悟空は善く覚えている。
 その時のことは忘れないと思う。
 三蔵は言ったのだ。女であろうと男であろうと、他の人間に雇われることは許さないと。
 俺はお前を拾ったのだから、お前は俺のものだ、持ち物が持ち主を選ぶなんてことは出来ないと。
 お前が嫌でも、お前は一生俺のものだと。
 まるで堰が切れたように三蔵は言った。
 傲慢な言葉だった。
 無愛想な口調だった。
 表情は見えなかった。
 それでも――悟空には泣きたくなるくらいに嬉しかったのだ。
 三蔵の性格上、嫌いな相手は傍には置かないと八戒に諭されても、三蔵がそんなことを言ったことは一度も無かったから。
 傍に居ても善いのだと。
 三蔵が認めてくれたことは無かったから。
「あれからもう一年になるんだなぁ・・・」
 独り言に呟いてみれば、足元で水溜りがぱしゃんと跳ねた。
 九年分の面倒を返すために、再び三蔵と共に寺院で暮らし始めて一年が経った。
 旅の間に比べれば時間の流れはゆっくりとしているが、それはそれで善いと悟空は思っている。
 日々同じことを繰り返し、繰り返し。――時には喧嘩や言い合いなんかをしたりもして。
 三蔵の仕事を手伝うことまでは出来ないけれど、悟空だってある程度の事務ならできるようになった。
 少なくとも以前のように外で跳ね回ったりはしないし、悪戯騒ぎを起こすことも無くなった。
 寺院での悪戯の数々は、今思えば寂しさの一つのサインであったのかもしれないと思う。
 いつも目覚めれば三蔵の居ない寝台の上で、いつも食事を摂るのはたった独りで。
 だが今は同じ目線で目覚めを迎えることが出来る。無理の無い程度には傍にいられる。
 それが悟空には何より嬉しい。
「もう一年ってことは、そろそろ俺の誕生日が近いってことか」
 悟空は誰とも無しにそう呟いて、指折り数えてみた。
 誕生日。それは三蔵が自分を見つけてくれた日。
 だから昔からずっと忘れたことは無かった。三蔵はそう言うと笑うのだけれど。
「えーと。この間の火曜日が一日だったよな。ってことは――」
 指折り数えようとした悟空は、ふと視界を掠めるものに気付いて顔を上げた。 
 ひらり、ひらりと。
 それを見ていた悟空の顔は、嬉しいことでも思いついたかのように表情をほころばせた。

 

 

 

 

 

 ぱたぱたぱたと足音が聞こえる。
 三蔵はうっすらと目を開いた。
 耳に馴染んだ足音だ。
 そう、この足音は知っている。
 いつも聞いていた足音だったから。
 心から響く声より早く、
 自分を求める足音だから。
「三蔵っ!!」
 バンッと扉が勢いよく開かれ、聞きなれた声が聞こえた。
 三蔵はまだ痛むこめかみを押さえ、ゆっくりと振り向き――そしてそこで硬直した。
「お前・・・何持ってんだ」
「え? 見てわかんない?」
 悟空は右腕に白い買い物袋を提げ、嬉しそうに笑っている。
 袋の中には薄く黄色が見え、それが檸檬であることくらい三蔵にも判った。
 三蔵が「何」と言ったのはむしろ左手に携えられた――
「桜だよ」
 それは判っている、と言いかけて三蔵は口を噤んだ。
 悟空が持って帰ったのは、桜の花が咲きほこる枝の一本だった。
 濃い茶色の枝は途中で二股に分かれ、それぞれの枝には薄い桃色の花びらが揺れている。
 先だっての雨に濡れたのだろうか、花びらはしっとりと水分を含んでいるようだが、それでも重たさの欠片も見せない。
 悟空の手首から肘ほどまでしかない小さめの枝である。
「お前、檸檬買いに行ったんじゃなかったのか」
「そーだよ。でも帰り道で綺麗な桜の木を見つけてさ」
「人ン家の桜を勝手に折ってきたんじゃねーだろうな」
「違うよっ。ちゃんと了解取ったもん。一本貰っても善いって言ったから」
「・・・ほう」
 三蔵は不思議に思って声を上げた。
 悟空の持って帰った枝は小さいものだが、それでも花が散り咲いていて十分に美しい。
 これが折られる前の木そのものであれば、相当に大ぶりで見事なものであったろう。
 桜を愛する者ならば、たとえ誰にだって枝を折らせたくないものだ。
「どこら辺りだ?」
「えーとね、八百屋の通りからずっと寺院に向かって歩いてくる裏道の途中。ホラ、あの辺りって街の中なのに花とか木とかいっぱいあるじゃん?」
「あー・・・あの辺りか」
「そ。そこで桜に見蕩れてたら、女の人に『桜が好きなのか』って聞かれて」
「女?」
 三蔵は首を傾げた。確かに寺院への裏道の途中には、やけに花やら草木やらが生い茂っていてそのくせ道だけはしっかりしている辺りがあるけれど、寺院の周辺には基本的に寺院の関係者の家宅が多く、女性など住むはずもないのに。
「『好きだけど』って言ったら、『一本持ってってもいいぞ』って」
「・・・えらく豪気な女だな」
「うーん。あんまり女の人って感じじゃなかったかもなぁ」 
 ま、そんなのどーでも善いけど、と悟空は続けた。
 三蔵は溜息を付きつつ、悟空を見た。
 ――悟空は変わらない。拾った時からそうだった。
 いつだって覗きこむのが怖いくらいに透き通る目をして三蔵を見る。
 それに怯えた時期もあった。離れようとしたこともあった。
 だが所詮、自分は敵わないのだと思う。この、小さくてよく笑う生き物には。
 お前は俺のものだ、と。
 そう言った意味を、本当に悟空は理解しているのだろうか――?
「悟空」
 三蔵は呼んだ。
 桜の枝を持ったまま、悟空は振り向く。
 いつもと同じ、変わらない笑顔で。
 どうか離れないで欲しいと。傍に居て欲しいと。・・・口でそう言うことは出来ないけれど。
 ――忘れるわけがない、と三蔵は思う。
 この輝きを手に入れたことを、手に入れた日を忘れるわけが無いのだ。
 本人に先を越されてしまったことは悔しいことだが。
 本当のことを言えば、悟空はどんな顔をするのだろうか。
「お前を拾ったのが、この季節で善かったな」
  

 桜よりも、何よりも。
 今目の前にいるお前を愛しいと思うと言ったら。

 



 (終)



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