カザウタ

 ざあ、と大きな風が走り抜けた。
 悟空は目を細めてその風を受けた。
 肌に止まらずに背後へと吹き流されていく風。その風でばさりと揺れる髪。
 少し伸びたそれを鬱陶しげに掻き上げれば、遠く空と交じる水平線が見えた。
 足元の切り立った崖の下から続く青黒い波は、ここからでは音は聞こえないけれど、時折叩き付けるように飛沫を吐き出している。
 荒れ狂うでもなく落ち着くでもなく、波は昨日も今日も同じ表情で自分を見上げている。悟空はそれに少し安堵した。
 季節ごとの時化以外でこの海が表情を変えることはない。たとえ自分がどんな姿になろうとも、だ。
 悟空はすうっと目を細めた。その目の瞳は細い。いつの頃からか、その姿でいる方が自然だと気付いた。生まれ出でた姿で生きるのが、一番楽でいい。
 もしも悟空が覗き込めるほどに近い波であったなら、そこには「異形」の自分の姿が映っただろう。
 金色の瞳、尖った耳、伸びた犬歯、どれほど切っても短くならない己の髪。
 一昔前、そのような姿を持つものは妖怪と呼ばれた。
 そして今は、その歴史を知る者さえも次第に絶えてきた。
 一歩、崖の端に足を進める。一際強く波が崖に叩きつけられるのを、見た。
 波は崖の柔らかい部分をえぐり、茶色の濁った水となって去っていく。
 ふと視線を遠くへやれば、鳥がばさりと羽根をはたいて飛んでいるのが見える。それが波の近くへ寄る――一瞬のうちに何かを咥えて、また飛び上がる。餌をとったのだろう。 
 悟空はさらに目を細めた。
 こうして何かが存在するためには、常に何かの存在が否定される。波が動くために崖が削られ、鳥が生きるために魚が殺されるように。それは自然の摂理だ。誰の所業でもない。
 海が氾濫して町が潰されても、海に怒る人間はいない。だが海に祈る者はいる。海にいるであろう神に。
 山が崩れて村が爛れても、山に怒る人間はいない。だが山に祈る者はいる。山にいるであろう神に。
 神の、自然の起こすことだから、それは自分たちの手には負えないのだと知っている。
 それは神という存在が、決して自分たちの目に見えるものではないと知っているからだ。
 見てしまえば、尊びは薄れよう、敬いは廃れよう。それがいかに厳かで美しい存在であろうとも。
 悟空は苦笑した。
 神に祈る人間が自分を見たら、何と思うだろうか。
 こんな矮小な自分が神なのだと言ったら。
 ――主上。
 小さな声が足元から伝わり、悟空は振り返りもせずに言葉を返した。
「・・・どうした」
 ――大気が歪んでおります。……そろそろ、来るでしょう。
「そうか」
 悟空は唇を動かさず呟いた。
 そして、今度は強い視線を伴ってぎりっと海の遠くを見つめる。
 一見すれば穏やかな海だ。時化などいつの頃になるとも知れぬほどにいつも通りの海。
 だが、悟空が見ているのは海ではなく、海が空と交じる部分。
 その部分が、悟空の目で見ると、ゆらりっと大きく揺れている。まるで海と空が混ざってしまいそうに。
 同時に悟空の体内にも変化が生じている。骨と骨の激しく軋み合う音。痛みさえ伴うほどの、体全体の灼熱。
 来てしまったか、と悟空は思う。
 いつの頃からか、己が大地と共鳴していることに気付いた。大地が歪めば、己の体が軋んだ。大地が揺れれば、己の体が熱せられているようだった。
 だからこの軋みは、大地の歪みであり、大地の震動そのものだった。
 嵐が、来るのだ。
 悟空は諦めたように息をついた。
 それは単に海や山で起こる嵐ではない。世界が歪んでいる。何かが――決定的な何かが変わろうとしている。
 この灼熱のような軋みを感じるのは初めてではない。もう何度も起こった。その度に世界が姿を変えていく。
 そしてその度に動物は賢く、人間は愚かになる。発展しながらなお、足元が見えなくなっていく。
 数百年前の人間の方がどれだけ賢かったろうか――そんなことを愚痴代わりに呟いてみたところで、人間は嘲笑さえも浮かべることはないだろう。
 人間はどんどん愚かになっていく。生きていくためではなく、死なないための方法を手に入れて。
 これからもおそらくそうなるのだろう。そしていつか、己が踏み倒してきた足跡に踏襲される日が来るのだ。
 ――主上もお下がり下さい。ここは危のうございます。
「案じるな。・・・俺を誰だと思っている」
 ――ですが、・・・もしものことが、ございますから。
 小さく呟く声は、悟空が自分の影として放っている飛使の一つだろう。
 悟空は鬱陶しげにもう一度目を細めると、低く言った。
「お前も下がっていろ。心配するには及ばん。俺が倒れてしまえば、お前が案ずるまでもなく地が崩れるだろう」
 ――ですが、主上。
「下がれと言うのが聞こえないか」
 強い調子でそう言うと、飛使は戸惑いながら弱弱しく諾の声を上げた。それきり、その声は聞こえなくなる。
 下がれと言っても逃げるわけではない。声が聞こえないからといって己の傍を離れられない。それが影であるのだから、自分も相当苛ついているのだと悟空は苦笑した。
 神であることに気付いたのは、いつだったか。
 もう、それがどれくらいの昔だったかは、忘れてしまった。
 いつだったか――悟空の髪が、まだ短かった頃だ。今は既に己の一つとなってしまった西の地へ、一人の妖怪と、一人の半妖と、一人の人間と旅をしたことがあった。 
 それは酷く懐かしい思い出だ。顔も姿もぼんやりとしか覚えていないほどの。
 だが、穏やかで優しかった妖怪も、女好きで見境のなかった半妖も、既にその生きる期間を喪った。もう大分昔のことだ。名前は既に覚えていない。覚える必要も無いと思ったからだ。彼らのことを忘れなければ、それでいいと思う。
 名前は――それ自体で人を縛るものだ。神となった自分が、今彼らの名を呼んだならば、既に冥界に伏した彼等は無理やりにでも覚醒させられるだろう。生まれ変わっていたならば、その姿で現れるだろう。
 だからこそ覚えるべき名は、一つでいいと思うのだ。決して忘れてはならないもの。いつでもすぐ傍にいるべき存在の。
 そしてそれは己のものでさえ無い。
「――悟空」 
 ふと、飛使のかすかなそれではなく、確かな自分を呼ぶ声がして、悟空は振り向いた。
 そこには一人の男が立っている。伸びた髪を一つに束ね、そしてその髪をも隠すように布で頭を覆っている。それはその男の髪が、この辺りでは非常に特異な色をしているためだった。
 悟空はその男の存在に、ふわりと口元に笑みが浮かぶのが分かった。
 先ほどまでの神としての威厳も厳かさが解け、細くなった目がわずかに緩む。それだけで悟空の周りに漂う雰囲気は全く別の存在になってしまったかのようだった。
 ざあ、と再び激しい風が吹き、男の頭を覆っていた布が飛ぶ。
 男はわずかに顔をしかめた。
「・・・風が強いな」
「嵐が来るみたいだから」
「チッ・・・またか」
 男は面倒くさげに舌打ちをすると、睨むように空を見上げた。その空にはまだ一点の曇りもない。少し風が強い程度の青空だ。そして天の異変を感じる力は、男には無い。
 男は単なる「一人の人間だったもの」に過ぎないのだから。
 悟空よりも伸びた男の髪が、戒めていた紐を引きちぎって風に舞う。ざわり、と。
 その耳は、悟空と同じように鋭く、その髪は悟空の目と同じ色合いである。
「街はどうだった?」
「穢れてきた。俺が見ても判るほどにな」
「・・・そう」
 やはり、この歪みは単なる錯覚などではない。確かに来るのだ、嵐が。
 そうしてまた世界は少しずつ崩れ、人は少しずつ愚かになる。
 確かに淘汰はある。何かが存在するためには。 
 そして何かを淘汰した生きものは、いつか何かによって淘汰される。それが摂理だ。
 何かひとつを守ることなど出来ない。生きるものは生きて、死ぬものは死ぬ。それが繰り返されて世界は辛うじてバランスを保っているのに。
 悟空は一つ溜息をついた。
「・・・どうした?」 
 男が問う。ゆっくりと悟空に近付く。
「生き続けるものは、絶対にいつか何かに殺されるんだろうなって。・・・そう、思っただけ」
「仕方がないことだろう、それは」
「だから愚かなんだよ、人は。自分達を淘汰するものなんて無いと思ってるから」
 悟空は、近付いた男の胸に、そっと額を預けた。
「"殺す者は、殺される覚悟を持たなくちゃならない"――そんなことも、分からないなんて」
「・・・お前のせいじゃねえよ」
「近いうちに、ずっとずっと大きな嵐が来るよ。・・・・・・そんな気がする」
 男はそう呟く悟空の頭を不器用になでた。その不器用さが、悟空には嬉しい。
 顔を上げれば、男の伸びた金の髪が頬に触れた。その髪に一度唇を押し当て、そして男に口付けを強請った。
 ごく自然な動作で男は背をかがめ、悟空に口付けを落す。
 男の前で、既に悟空は神ではない。そしてそうなるのは、他の誰でもなく、男の前だけであった。 
「・・・そろそろ帰るぞ。風が強くなってきた」
 男は紫の目で、海より歩いて少し先にある小屋を示した。
 それは自分たちがこの地に来て初めて建てたもので、強い風が吹けばすぐにでも倒れてしまいそうだが、傷ひとつついたことはない。そしてそれは自分がそこにいるせいだと悟空は気付いている。
 単なる人間であった男を、妖怪にしてしまったのも、究極的には悟空だ。
 ただの妖怪ではなく、命そのものを彼から奪い、決して滅びることのない自分と同じ存在にしてしまったのも、悟空だ。
 悟空はふと先を歩き始めた男の手首を見る。そこには、形を既に留めていない腕飾りが見えた。
 妖怪になってしまったばかりの頃、不安だからという男のために、悟空が自分の髪で編んだものだ。
 等しく神となってしまった彼には既に必要がないだろうに、男がそれを手放すことはない。
 それは自分が男の名前を忘れることがないのと似ている、と悟空は思った。
 もう一度海を振り返る。まだ穏やかな海。その向こうに近付く――嵐。
 正直言ってこの世界のことなどどうでもいいのだと言えば、飛使が自分を叱るだろう。莫迦なことを言うな、何を考えているのか、と。
 だが悟空は何も考えてなどいないのだ。自分のことさえ。
 ふと、前を行く男が動かない悟空に気付いて振り向いた。
「・・・どうした悟空、置いていくぞ」
 数百年前と変わらない言葉を吐く男に、悟空はゆるりと笑む。
 ――そうだ、この存在だけ、あればいい。
 そしてそのために、自分はなんだってするだろう。
「待ってよ。――三蔵」
 当たり前のように、その指に、己の指を絡めて。


 空からは嵐の予兆を告げる風唄が、ひゅうと小さく口笛のように聞こえていた。

 

 

 


 (終)






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