この空を飛ぶ鳥の名を。


 これはなんだろう、と子どもは思った。
 目を見開いた時から目の前には常に何かしらの景色がある。
 ある時は真っ暗な中にまあるい白いものが浮かんでいたり、あるときは真っ青な中に輝く眩しいものが浮かんでいたり。
 それらの名前をまだ子どもは知らないけれど、薄々とそれが自分と同類のものであることを知っている。
 おそらくはこの青さも暗さも、白く輝くものも、時折自分の頬を撫でては去って行く、大地を流れて行くものも。
 自分の足元を見る。白く硬い殻が自分の体の左右にある。
 それがようやく今さっきまで自分を守っていたものだと気付くまでに、子どもは少しの時間を要した。
 なるほど、この殻は彼の体を守り、そしてはぜ割れ、彼が生まれたのだと。
 生まれた、と子どもは頭に浮かんだ言葉を繰り返した。
 生まれたとは、なんだろう。
 意識を持った時から既に幾つかの言葉が頭の中を去来したが、そのほとんどの意味はわからない。わからないのに知っていることを不思議だと思う意識も子どもの中には、無い。
 子どもは見つめた足元に軽く手のひらを当てた。
 遠くから見てもごつごつとした岩肌。不用意に動けば肌を切ってしまいそうなほどに鋭いそれ。
 だが、子どもの周囲だけは何故か綺麗に平らにされ、子どもがごつごつとした部分に触れようと手を伸ばすと、それらは簡単にさらりと砕けて砂となった。
 子どもはぼんやりと、それが自分の思いのままになるのだと知った。
 本当は大地と呼ばれるそれらは彼の思いのままになると言うよりも――むしろ彼の一部だった。
 彼の中には人間と同じような紅い血が流れている。だがその血は血というよりも脈であった、この大地の地脈であった。
 子ども自身は全く知らない――そしておそらくは今後も知ることはないであろうと思われたことであったが、子ども自身の脈を切ってしまえば、大地は震動し、そして子ども自身を殺してしまえば、実に容易に大地は崩壊するのだった。
 子どもはそういう存在だった。
 だがそれを彼自身が知りようはずもない。
 彼は茫洋と空を見上げた。
 もう何度目になるだろうか、真っ暗な空には綺麗な丸いものが浮かんでいる。それは驚くほど大きかった。そしてまたすぐ手の届く場所にあるようにも思われた。
 その僅かな明かりに照らされて、彼の大きな目が見開かれた。
 その目はその大地に住まう、その他の人間から見れば実に珍しい色をしていたのだが、己という存在の認識もままならぬ子どもには、ただ目に映る丸い光のみが総てであった。
 だから自分の目が、その丸い光の色と酷似していることにも、勿論気付くはずもなかった。
 子どもはそっと手を伸ばす。虚空へ。丸い光へ。
 だが意外にも遠い。それはこの間も気付いた。その前も、その前も。
 ようやく子どもは、それが自分の手には届かない、遥か高みにあるのだと気付いた。
 そうして、何といったか思い出そうとした。
 この丸い光。これを自分は何と呼んだか。
 ――ああ、そうだ。
 子どもの目が、無意識にゆるりと笑む。
 これは、たいよう、というのだ。

 

 

 

 

"この空を飛ぶ鳥の名を。"

 

 

 


 遠い遠い空が何処までも続いている。
 ばさりと広げた大きな敷布のような空は遠くへ行くほど青みが薄まり、それと同時に、空の向こうにあるものが見えるのではないかと思うほどに透明になっていく。
 それを何となく懐かしい思いで眺めながら立ち尽くしていると、ふと背後から声が掛かった。
「バカ面してんじゃねえよ」
 聞きなれた声に振り向けば、そこには予想通り、不機嫌な顔をした男が立っていて、悟空は笑った。
 バカ面じゃねえよ、と文句を言いかけ、それよりも先に言うべき言葉があることに気付いて口を開く。
「――三蔵」
 と。
 名前を呼ぶと、擽ったそうに男は目を細めた。
 この仕草に悟空が気付いたのはいつの頃からだろうか。
 拾われた昔はその仕草を勘違いしていた。――不機嫌になるのだと、名前を呼ばれるのが嫌いなのだろうと。
 実際、男が目を細めるのは極端に機嫌が善いときか、極端に機嫌が悪い時かのどちらかだった。
 それがどちらかということを見極められるようになったのはそう最近のことでもないが、彼を知って三年ほどになる友人たちに言わせれば、彼はいつも不機嫌なのだの一点張りである。
「何? 何か用だった?」
 そう問えば、男はゆるりと首を横に振った。
 既に見慣れて久しい法衣の双肩には、緑の布に貼り付けられた経文が風に揺れている。
「俺じゃねえ。八戒がもうすぐ出発するから呼んで来いだと」
「――もう街に入るの?」
「まだ幾ら潜んでいるともわからんからな。いっそ街に入っちまった方が楽で善い」
 その言葉に悟空は僅かに顔をしかめた。
 三蔵――というよりも、三蔵の双肩の経文を狙って、ここ毎晩のように妖怪達が自分たちを目掛けて襲ってくる。
 それ自体は大したことではないのだが、毎晩の襲撃で悟空も三蔵もろくにここのところ寝ていない。
 睡眠不足が続けば、いかな悟空とて疲れやすくもなる。攻撃も鈍くなる。一週間前には無かった傷が、先日の戦いでくっきりと悟空の手足には残されていた。
 大きな街へ入ってしまえば妖怪と言ったって襲っては来ないだろうと八戒は踏んだのだろうが、最近の妖怪たちは手段を選ばなくなっている感があって、街の中でも襲われたら大きな被害が出るだろう――と悟空は思ったのだ。
 その表情の変化を見抜いたのか、三蔵は溜息をついた。
「――嫌か?」
 その声の意外なほどの優しさに、悟空は素直に首を縦に振った。
「街ン中で妖怪が来たらどうすんだよ。・・・俺ら、自分のことだけで手一杯なのに」
「・・・珍しいな。飯の心配はどうした」
「そりゃ、飯も食いたいけど・・・」
 悟空の体は、尋常の人間の比ではなく燃費が悪い、というのは悟浄の言葉だったろうか。
 本当は燃費が悪いのではなく、食する量に比例した力を悟空自身も知らないところで使っているのだが、結論としては人の数倍も多く腹が減る。
 実際、今だって悟空は腹が減っていないわけではないのだが、そのせいでみすみす街の人間を殺してしまうのは、嫌だ。
 そう思うのは、先日の事件があるからだろうか。
「まだ――根に持ってやがんのか」
 三蔵も同じ思考に辿り着いたのか、小さく溜息を付きながら言った。
 悟空は視線を落としながら口を開く。
「三蔵を恨んでるわけじゃないよ」
「嘘を付け。昨日までずっと黙りこくってたじゃねえか」
「だって――何喋って善いか、わかんなかったから」
 悟空はまたも正直に答えた。
 先日、食料と煙草と寝床を求めて入った街は、実に穏やかで平和な街だった。
 この時世には珍しく、妖怪の恐怖にも闘いの恐怖にも怯えない表情をしていた。
 だからこそ悟空たちも安心して食事を取り、床を取ったのだが――
 そこに、妖怪達が現れたのだ。三蔵の経文を狙って。
 平和な街は一夜で阿鼻叫喚の世界と化した。宿には火が放たれ、妖怪たちは見境無く人間を殺した。
 火はやがて街全体を飲み込み、人々を飲み込んだ。
 そして街は、死んだ。
「俺達が行かなきゃ、あのまんま、平和だったのに」
 悟空はぽつりぽつりと呟いた。
 手から腕にかけて、半分治りかけた火傷の跡が、ところどころに残っている。
 火に掛かった宿の家から泣き叫ぶ少女を助け出そうと火に飛び込んで、焼けぶくれを負ったのだ。
 悟空はぎゅうと手のひらを握った。皮膚が突っ張って少し痛む。その程度だ。きっとそのうち、跡形もなく治ってしまうだろう。
 だが悟空は忘れない。腕に抱えた少女が、最後に自分たちに投げ捨てた言葉を。
「人殺し――か」
 三蔵はじれったそうに呟いた。
 少女は言った。
(母さんも父さんも火の中にいるわ。あたしの目の前で燃えてったわ。妖怪達が聞いたの、三蔵法師はどこにいるかって。あたしの家の宿に泊まってるって答えたの。そうしたら家が燃えたの。母さんも父さんも死んだの。あんた達が来なきゃ、死ななかったのに)
 人殺し、と。
 少女は叫んで悟空の腕からもがき、妖怪に対するために掴んだままだったのだろうか、少女の小さな手には不釣合に握られた包丁を悟空にかざした。
 悟空は硬直したまま、それを止められなかった。
「自覚がなかったわけじゃ、ねえけど」
 存在自体が、殺戮を生み出すということも、ありうるのだ。
 悟空は三蔵に連れられてこの旅を始めて、それに気付いた。
 三蔵の経文は、それだけで妖怪達の的になる。的になれば襲われる。三蔵だけでなく――周囲の人間も。
 それが自分に降りかかることを災難だと思ったことはないが、他者に降りかかることまでは考えたことがなかった。
 悟空が三蔵を大切に思うように、誰しも大切に思う存在がある。――そして三蔵の持つ経文は、結果的に彼らを殺してしまうことさえある。
「・・・俺が、憎いか」
 三蔵は尋ねた。
 悟空は答えない。
 三蔵を憎んだことはない。どれだけ酷い仕打ちを受けても、どれだけ傍若無人なことをしても。
 憎まない――というよりも、彼を憎むことなど出来ないのだと悟空は気付いた。
 少女の振りかざした包丁。
 悟空には止められなかった。少女を抱いたままの腕の力を緩めることも出来なかった。
 その――小さな体の動きを止めたのは、小銃から放たれた弾だった。
 少女は手からカランと包丁を落とし、燃え盛る炎を一瞬目に映したあと、ゆっくりと全身から力を抜いた。
 そして、少女の体は悟空の腕から落ちた。
 ひとごろし、と。もう一度掠れた声で呟いて。
「・・・・・・仕方がない、ことだから」
 三蔵は自分を助けるために少女を撃ったのだ。
 それが判っても、悟空の中には何か判然としない気持ちが残った。
 その気持ちは悟空の口を噤ませた。
 悟浄と八戒も薄々その理由はわかっているらしいのだが、それを悟空にも三蔵にも尋ねはしない。慰めもしない。
 どうしようもないことだと判っているからだ。
「・・・人殺しでも、仕方がないから」 
 そう言われたとしても――おそらく悟空も、自分が三蔵の立場でも三蔵と同じことをしただろうという自覚があるから、それ以上何も言えないのだ。
 守るべき者のために他者を殺さねばならない。そういうことがある。生きていればあるのだと悟空は知った。 
 三蔵は容易く妖怪を殺す。人間も殺す。躊躇いもなく。僅かに目を細める程度で。
 最初、悟空にはそれが信じられなかった。どうして殺すのかと問い詰めた。三蔵はただ答えた。邪魔だから、殺すのだと。
 何の邪魔なのか――悟空は最近それに気付いたのだ。
 守るべきものを守るために、邪魔なのだと。
 おそらく、誰かが三蔵に向かって銃を構えれば、自分は間違いなくその誰かを殺すだろう。
 三蔵を守るために、邪魔だから。
 それでもやはり、そんな自分を自覚してしまえば苛立ちにも似た感情が浮かぶのだ。殺戮者になってしまっている自分。もう、後戻りなど出来ないのだと。
 所詮、太陽の光を覚えてしまった人間は、暗闇に怯えるものなのだ。
「だから、恨んでも憎んでも、ない」
 悟空はようやく答えを返した。
 その遅さに三蔵から溜息が聞こえる。
 だがその溜息が、呆れたためのそれではないことを悟空は判っている。
 三蔵は、安堵しているのだ。
 自分が三蔵を誰よりも強く求めるように、やはり三蔵も自分が必要なのだと。
 少女を撃った時の、三蔵の目を見た時、認識した。
 一見冷たく思える紫の光の、その中に閉じ込められた感情。
「――お前を」
 三蔵は苦々しげに呟いた。
「お前を死なせるのは、御免だ」
 悟空は目を見開いて三蔵を見た。
 くるりと踵を返し、そして三蔵は続けた。
「だから、邪魔だった」
 足りない言葉だったが、悟空にはありあまるほどに十分だった。
 三蔵の双肩には経文がある。
 だがその経文よりもずっと重いものが、その肩には乗っている。
「・・・三蔵」 
 悟空はそっと三蔵の背に手を触れた。
 温もりが手のひらから伝わる。
 憎むことなど出来ないのだ、この温もりを。
 たとえ自分自身を殺されたとしても、呆れるほどにあっけなく自分はその事実を受け入れてしまうだろうという自信すら、悟空にはある。
 そしてそのときには、おそらく三蔵も逝くのだろうという予感も、ある。
 既に離れることなど出来ないところまで来てしまった。
 もう、躊躇うことなど出来ない。
 他の誰より、この存在の傍にいようと決めたのだから。
「・・・・・・ごめんな」
 ふと、悟空の口を謝罪の言葉が突く。
「――俺が、妖怪でもサルでもなくて」
 たとえばそう、もっともっと三蔵の肩の重さを手伝えるような。
 少しでも軽くできるような。
「鳥だったら善かったのに」
 三蔵の肩が震えた。
 悟空はその背に額ごと体を預ける。
 ――鳥だったら。
 そうしたら、誰も殺さなくても、三蔵をどこへでも連れて行けるのに。
 ふと、そんな子どもじみた莫迦げた思いが胸をよぎったのだ。
 莫迦にされるだろうと思った。
 だが――意外にも、三蔵から聞こえたのは小さな苦い声だった。
「そうしたら、」
 悟空は目を開いて三蔵の言葉を待った。
「俺はきっと、お前の羽根を切るだろう」
 もう何処へも飛ばないように。
 その三蔵の言葉に、悟空は小さく笑んだ。

 そう、守るべき太陽は、一つで善いのだ。


 (終)






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