右手と左手




 街はざわめいている。
 昼間の町並みが、日暮れと共に姿を変え、色調を変え、少しの艶かしさと妖しさを含ませながら変貌していく。
 あちこちの夜の明かりが付き始め、ようやく仕事を始められるといったふうの夜の女たちが街に立ち始める。
 仕事を終えた男たちは、互いにつなぎの作業服のまま、合いあいと肩を並べて店の扉を叩く。
 この辺りならどこにでもある下町の風景である。
「今日はどうだい?」
 既に顔馴染になった花町の女同士、そんな言葉が飛び交う。
「からっきしよ。油に塗れた男ばっかりで、やんなっちゃう。たまには上客でも来ないかしら」
「ハハ。そりゃあ仕方がない。この辺りは工場ばかりなんだから」
 やや年配の女はそう言ってひとつ煙管をふかすと、美味しそうに煙を吸った。
 若い女の手にも同じようなものがあるが、こちらは火を付けず、咥えているだけだ。
 客が見つかれば消さなくてはならないので、勿体無いと思っているらしい。
「油の匂いを嗅ぎたくないんならな、南に行きゃあ善い」
 年配の女の言葉に、若い女は首を傾けて聞き返した。
「南?」
「そうさ。あっちら辺なら戦争が終わったばかりで、軍人さんだってたまには来るだろうねえ」
 ふわり、と質の悪い煙草独特の匂いが辺りに漂った。
 若い女はまだ幼い口調の残る声で唇を尖らせた。
「終わったって言っても、内戦だったんでしょう? 内乱が起こって、軍が壊滅したって聞いたけど」
「おやおや、よく知ってるじゃあないかい」
「前に来たお客さんが言ってたわ。ここら辺りは、向こうの国の属域だから、大したことはないけど、南の方は内乱が起こった国の属域だったんでしょう? 戦争でボロボロになったって聞いたけど」
「だったら行かにゃええだけの話じゃないか」
 そう年配の女が言うと、若い女は押し黙ってしまった。
 そのまま二人は暫く無言で互いの煙管を弄び、それからようやく年配の女が何か口を開こうとしたとき、「あ、お客さん!」と言いながら若い女は走っていってしまった。誰か客を見つけたらしい。
「やれやれ……」
 女が男と交渉しているのが視界の端に映る。仕事帰り、といったふうではない。つなぎでもなく作業服でもなく、黒い外套を羽織った男だった。遠めでも判る白がちな金髪が、夜の灯りすら跳ね返して年配の女の印象に残った。
 男はどうやら女に興味が持てないらしく、それを断ろうとする。よくある光景だ。
 だが、女も執拗に男に笑顔を振り撒き、その腕を掴んで――年配の女の瞳には、若い女が硬直したように見えた。
 男はバサリと上に羽織った外套もろとも見をひるがえすと、ブーツの足音を響かせて行ってしまった。
 呆然と突っ立っている若い女のもとに、年配の女が歩み寄った。
「どうしたんだ、逃げられたかい?」
 優しく言葉を掛けてみるが、反応が無い。
 不思議に思って女の顔を覗き込むと、女は男の腕を掴んだ手を戦慄かせているのだった。
「……腕が」
 腕が無かったの、と女は細い声で言った。
 年配の女はそれだけで総てを理解し、肩を温かく叩いてやった。
「流れた軍人だろうよ」
 流れた、とは、ここら辺りでは負傷した、という意味で用いる。国の勝敗は関係ないが、負けた国の軍人であることが多い。
「右目にも大きな傷があったし」
「あらら、そりゃあ吃驚しただろうねえ」
「でも凄く綺麗な瞳だったのよ、紫色の」
「……へえ」
 若い女は少し落ち着いたのか、ふう、と大きく息を吐き出しつつ、口元に悔し紛れの笑みを浮かべて見せた。
「最高の上客だったのに」




 男は歩いていた。
 破れた黒い外套を着て歩いていた。
 ただひたすらに足元だけをじっと見つめ、その足元に浮かぶ己の影だけにしか興味が持てないのだというように、瞳を僅かに細めて歩いていた。
 髪は、手入れをしていれば恐ろしく綺麗な金髪であったろうが、今は白がちな薄い金色へと姿を変えていた。それでもそれは黒い外套に対照的で、通りすがる者の目を捉えた。
 男は軍人であった。
 けれど既に軍服は着ておらず、その辺りの古着屋で見繕ったような皺だらけのシャツと黒いズボンに身を包んでいた。
 そのどこからも彼が軍人であったことははかり取れぬようであったが、彼を見た誰もが彼を軍人であると気付いた。
 彼の右目には縦に大きく傷跡が残り、瞳は開かぬようであった。生々しい癒着の痕が引き攣れるように残っており、それは決して病院や看護院できちんとした治療を受けていないことを表していた。
 また、彼には左腕が無かった。肩から先の、二の腕からすっぽりとその部分だけが削げ落ちてしまったかのように体の一部分が欠けていた。
 そのため、外套が風に煽られると左腕の部分だけがひらひらと舞い、細く痩せた男のシルエットだけを露にした。
 それでも男は歩いていた。
 ひたすらに歩いていた。それ以外に方法が無かったからだ。
 ある者は男に話し掛けた。それは行商の男だった。
 お兄さん、綺麗な宝石だぜ、愛する女のために一つどうだい、とその男は言った。
 歩く男は首を縦に振ることもせずに、宝石ではなく行商の男を凝視し、いらん、と答えた。
「そんなことをお言いでないよ、女は喜ぶぜ」
「生憎女に会いに行くわけじゃねえんだ」
「おや、それじゃあ何をそんなに急いでるんだい」
 男は答えなかった。すぐに瞳を逸らすと足早に通り過ぎた。
 行商の男はその男の背中に声を掛ける。
「どこに行くのさ」
 男は独り言のように、北だ、と答えた。
 それはおそらく行商の男には聴こえなかった。
 またある者は男を呼び止めた。それは花街の女だった。
 豊満な肉体を誇示するかのような安っぽい服に身を包み、真っ赤な唇をした女だった。
 やはり彼女も、お兄さん、と声を掛けた。
 ねえ、今晩どう、楽しませてあげるわ、と安物の口紅で濡れた唇で言った。
 男はいらん、とやはり短く答えた。
「そんなことを言わずに、お代はいらないよ、お客さん格好善いもの」
「生憎女に興味はねえんだ」
「あら、男色なのかしら。でもいいわ、男の子以上に楽しませてあげる」
 そのとき風がびゅうと吹き、男の前髪を跳ね上げた。
 前髪の下から、男の右目の傷が現れると、女はひッ、と声を上げて身をすくめた。
 そんな女を軽蔑を含んだ瞳で一度みやると、男は気にも留めずに通り過ぎた。
「ま、待って、ねえ、お客さん」
 女は必死で男を呼び止めようとした、そしてその左腕を掴もうとした。
 だが、本来あるべき場所にものはなく、女の手はするりと男の左袖を掴み損ねた。
 左腕が無いのだ、ということに気付いたのか、女はまた小さく悲鳴を上げ、それ以上は男を追おうとはしなかった。
 そしてまた男は歩き始めた。
 その他にも何人もが男に声を掛けたが、男は一度も立ち止まらなかった。
 男には目的があり、理由があるからだった。
 男には以前故郷があり、帰る場所があった。
 だがその場所では戦争が起こり、それを護るために男は戦った。
 そして多くのものを失った。
 だから男は戦争を終わらせた。
 それだけだ。それがどんな形を取っていようとも、男自身何の不満も無い。
 理不尽な命令を出しつづけた高官達の、ひとりひとりの頭をひとつずつ打ち貫いて殺した。
 それがただ、自軍の高官であったというだけの話だ。
 それが終わると男は軍服を脱ぎ、たった一人、馬鹿な判断を下すことのなかった副指揮官に敬礼すると、その場を離れた。
 その後、あの副指揮官がどうなったのか、男は知らない。噂では副官は敵軍の捕虜になったとか、戦いに勝ち目が見込めないと分かった高官たちが潔く自決を図ったとか、大規模な内乱があったとか伝えられているらしいが、その実どれでもないことを男が知っている。男だけが知っている。

「アンタ、珍しい目の色してンねぇ」
 そんな声に男が反応したのは、小さな宿屋の酒呑み場だった。
 こんな時世で宿泊客も少ないのか、男以外に酒を呑んでいたのは、挑発的な目をした紅い髪の男一人だった。
 安酒に口を付けるのは好きではなかったが、こういう場所でこういう男に絡まれるのは余計に好きではなかった。
 酔っ払いか、と男が無視を決め込もうとしたとき、紅い髪の男はわざわざカウンターの男の隣に腰をおろした。そして主人に、ひとつ酒を頼む。
「何か俺に用か」
「いや? 白髪に紫の目なんて初めて見たからよ。……ああ、こうやって見ると金色なんだな」
「……用が無ぇんなら去れ」
「ま、そう言うな」
 紅い髪をした男は、主人がカウンター越しに渡した酒をぐいっと煽ると、無作法に口元を拭いて笑った。
「俺はお前と同胞だ」
 そうして笑うと、紅い髪の男の頬に非常に鮮明に傷があるのが見えた。
 男はそれが、同胞という言葉の意味だと気付き、残った左眼を軽く細めた。
 幾つか無駄な会話を交わすうち、相手の正体はあっさりと知れた。
「へえ、アンタはあちらさん側だったンか。俺はこっち側でね。前線で首をヤられて、ベッドの上で綺麗なおねーちゃんの相手をしてるうちに戦争が終わっちまった」
 敵軍の軍人だった、とその男はあっさりと答えた。
 数ヶ月まで敵同士だったという気概はどうやら無いらしい。
「そっちの内戦が起こったって聞いたが、後はうやむやだな。今は賭け事で食ってるが」
「……ほう」
「戦争が終わって軍人ほど役に立たねえ仕事は無いよなあ」
 紅い髪の男は苦笑いすると、強い煙草を横咥えしたまま器用に酒を飲んだ。
 男は無言のまま、ちびちびと酒を飲んでいる。
「アンタは? 何してんだ? ……そっちの郷は焼け野原って聞いてるぞ」
 その言葉に一瞬だけ男の動きが止まり、その硬直はすぐに解けた。
 酒が口を軽くしたのか、男は初めて拒絶以外の言葉を言った。
「人探しをしていてな」
「……人探し? 郷の人間か?」
「ああ」
 紅い髪の男は男の言葉に興味を持ったのか、煙草を手に持ち替えた。
「女か?」
「いや」
「……親兄弟?」
「違う」
 そう答えながら、男も煙草を懐から取り出した。
 戦争中はそれでも貴重品だった紅いパッケージの中から一本取り出すと、紅い髪の男はライターを差し出した。
 ジジッと小さな音がして、やがて二本の紫煙が漂い始める。
「知り合いだ」
「へえ。友人とか何かか?」
「いや、それも違う」
「わっかんねえなあ」
 紅い髪の男は煙草の灰をトントンと落としながら言った。
 その指が、男の言葉でピクリと止まる。
「男だ。18,9の」
 一瞬の間があった。
「きょーみ本位で聞くけどさァ、どーゆー関係なのよ」
「……関係?」
「男色とか言うんじゃねェだろうな、そんな人殺しみたいな顔して」
 人殺しか、と男は小さく呟いた。
 そう言いながら、軽く首を横に振る。
「近所のガキだ。小さい頃に親が死んだから俺が引き取ったんだ」
「アンタの親は?」
「元からいねえよ。養父はいたが、俺が15の時死んだ。」
 病気でな、と男は付け加えた。
「つまり、そのガキがアンタの唯一の身寄りってわけか」
「身寄りって程じゃねえよ。知り合いだ」
「……へえ」
 紅い髪の男は再び安酒を含んだ。
「で、そいつは今度は誰を頼って故郷から逃げたワケ?」
「……?」
「郷にいなかったから探してンだろ?」
 その言葉に、男は少し時間を掛けて理解すると、目を細めた。
「俺の知る限り、アイツに俺以外の知り合いは居ない」
「はァ? じゃ、お前、どこを探してるんだ?」
 男は、不思議なことに口元をやや引き上げた。
「それがわかんねえから、探してんだろ」
 紅い髪の男は、あっけに取られたような顔をした。
 その間に指の間の煙草はジリジリとゆっくりと焼けていく。
「お前……そりゃあ……」
 一息、ごくりと息を飲むと、紅い髪の男は躊躇いがちに言った。
「なあ、こう言っちゃなんだが……何の手がかりも……何も残されてねえんだろ? それって……」
 そこから言葉が途切れた。
 何を言わんとしているのか、男にも理解出来たからだ。
 男がようやく口を開いたのは、互いの煙草が二本目になってからだった。
「……死んだと思うか?」
 男は静かに言った。
 紅い髪の男は頷かない。だが口を挟まないことこそが肯定を意味していた。
「俺が戻る二日前、大規模な空襲があった……それに巻き込まれてのことだろうと、残った奴は言っていた」
「引取り所にも居なかったンか?」
 男はゆっくりと頷いた。
 空襲・戦禍に見舞われて残った身元の分からない死体は、一週間ほど教会などの場所に安置される。
 その間、教会は神を讃美し崇める場所ではなく、ただの死体の引取り所となる。
「誰も見ていないらしい。アイツが死んでいくのも、生きているのも」
「……骨は?」
「骨は」
 無かった、と男は搾り出すような声で言った。
 それから何度か咳払いをする。
 幾度も幾度も瓦礫を押しのけた感触が、まだ指の先にこびりついているような気がした。
 どこだ、この下か、いいやこの屋根の下か、もしや地下室にいるのでは、いやいない、どこだ、どこにいる、どこに――
 頭の何処かで、彼が死んだということを拒絶していたのかもしれない。
 男は必死になって彼の骨を探しながら、また同じ頭の何処かで、どうか見つからないでくれと祈った。
 彼が死んだ証さえこの目で見なければ、彼が生きていると思い込むことが出来るような気がした。
 指の間に土が詰まり、目には何度も泥が入った。焼け焦げた材木は肌を裂き、左腕の無い体は何度もバランスを崩した。
 それでも男は、彼が死んでいない証拠を探しつづけた。
 三日三晩、一睡することもなく。
 そして四日目の朝、男の目に白く硬質なものが映る。それは――
「何よ、ソレ」
 紅い髪の男は、男が懐から大切に取り出したものを見て声を上げた。
 それは、戦場帰りの軍人には余りにも見慣れないものだった。
 白く平べったく、表面は滑らかな感じだ。綺麗に洗っているのだろうが、完全に消えていない色の残滓が白に染み込んでいるかのようにうっすらと見える。
「パレットさ」
 男が彼の住んでいた場所で見つけたものは、ついにそれだけだった。
「パレット? あの、絵描きが使うアレか?」 
「ああ。アイツがよく絵を描いたんだ」
「……へえ」
 紅い髪の男は感心したような声を上げた。
 画材道具は、決して安いものではない。手に入りやすいものでもない。
 だが、少年は絵を描くのが好きだった。だから男は安給が手に入るたび、何かしら買ってやった。それは時に筆であり、絵の具であり、パレットだった。おそらく、少年が最期まで使いつづけたであろうパレット。
 それは、彼の骨と何ら変わりが無かった。
 それを瓦礫の中で見つけたときに、男は思ったのだ。骨などあろうが、なかろうが、
「――生きてるんだ」
 生きていると、願いたいのだ。
「……だからアンタは探してるッつーワケね」
「まあな」 
「なァんて果ての無いこった。そりゃお前さん、一生見つからんかったらどーするよ?」
「構わん」
 男はぶっきらぼうにそう言うと、既にぬるくなった酒に口をつけた。
 おそらく――彼はこの世には居ないのだろうという予感が、男にはある。
 そう思うことで、いつかそれを直視したときの衝撃を軽減しようとする己の防御機能ゆえのことなのか、あるいは五感以外の何かがそれを感じ取っているのか、男には見極めることは出来ないけれど。
 いつまでも、旅をすれば善いと思うのだ。このパレットと共に。
 左手を失ってしまった自分は、もはや両手で彼を抱くことなど出来ないのだから。
 ずっとずっと、行ったこともない場所まで遠く遠く旅をして――いつか何処かで朽ち果てれば善い。
 それまで自分は彼を探しつづけるのだ。それは、彼と、自分だけのために。
 それは何も無い自分を愛してくれた少年への、男が出来るせめてもの愛情表現だった。
「無いモンを探そうなんざ、アンタも大した酔狂だ」
「酔狂か。それはお前もそうだろう。この宿に入ったときからずっとこっちを見ていたな――隙を見て何か盗むつもりだったのか?」
「あァ? ……いや、アレはそんなんじゃねえよ」
 宿に入ったときから、まるで値踏みするような視線を心地悪く思っていたのだ。
 酒呑み場で、その意外にも鋭い紅い眼光を見たとき、こいつか、と思ったのだが。
「この間、旅の画商にカードで勝ってなァ、金が無えってんで売り物を代わりに占めたのよ」
「売り物って……絵か?」
「ああ。両手に抱えられるくらいの大きさのモンだ。価値は知らん。とはいえ、俺にはそーゆーの興味ねえからよ、さっさと売っぱらっちまったが……」
「それが、何か?」
 いや、と赤い髪の男は更に新しい煙草に手を伸ばした。
「その絵のモデルがさ、アンタみたく金髪で――何か似てたモンだから、つい目で追っちまったんだ」
 金髪、と男は口の中で繰り返す。
「ああ。それもさ、目が見えない画家の絵だっていうから面白くってな――て、おい、どうした、もう行くのか? え? その画商? どこから来てたかなんて知るかよ。でも多分もっと北だぜ、寒いトコから来たような格好をしてたからなァ――」





 男は歩いていた。
 破れた黒い外套を着て歩いていた。
 ただひたすらに足元だけをじっと見つめ、その足元に浮かぶ己の影だけにしか興味が持てないのだというように、瞳を僅かに細めて歩いていた。
 男は、その場所よりもずっとずっと南から、ただひたすらに歩いてきたのだった。
 あの戦争から五年が過ぎた。それでもまだ、あのパレットを持って男は歩いている。
 どこまで行っても彼はいなかった。やはりあの瓦礫の下にまだ眠っているのだろうか、戻るべきだろうか、引き返すべきだろうかと何度も男の頭を過ぎった。しかし男は一度もその脳内の疑惑に耳を傾けることはなかった。
 五年前、たった一度だけ耳に入れた、彼のものかどうか正確にも分からない消息の情報。
 それだけを頼りに、本当に北まで来てしまった。
 これ以上北へは、海を渡らないと行けぬという街。そしてその海は、冬の間は完全に凍りつき、舟は出ない。
 凍りつくような寒さの中を、男はやはり歩いていた。
 不思議なことに、寒さは頬に触れる吹雪の風よりも、なくした左腕の付け根に感じるのだった。それは寒さというより痛みに似ていたけれど。
 ざくざくと足元の雪を無機質にかき上げながら、白い息を吐いて男は歩いていた。
 ふと、その足が止まる。
 喫茶店があった。珈琲でも飲もうとドアを開いた。
「いらっしゃいませ」
 主人の温かい声とともに、ふわりと珈琲の匂いが漂った。
 だが、男は身動きが出来なかった。
「……いらっしゃいませ……?」
 主人の訝しげな声が聞こえたが、それは男の耳には入らなかった

 その喫茶店の入り口に、一枚の絵が飾られていたからだ。

 男の唇はわなわなと震え、何の言葉もなさなかった。
 ガクガクと足が震えるような気がした。
 更に不思議に思ったのだろうか、主人はエプロン姿のまま身を乗り出した。
「ああ、その絵ですか。……善い絵でしょう」
 この辺りではさほど珍しくない碧色の目をしたマスターは、穏やかな笑みを浮かべて言った。
 それでも男は何も言わなかった。
「以前ね、こちらに立ち寄った絵描きさんが、珈琲代のかわりに、って置いていかれたんですよ」
 それがね、と主人は続ける。
「それが、絵描きさんだっていうのに……目の見えないお方でね」
 震えていた男の唇が、ついに耐え切れなくなったように僅かに開いた。
 のどの奥からこみ上げるものを、もう堪えることは出来なかった。

 その絵は、後姿だった。
 軍服を着た一人の男が、見慣れた街の中で、ゆっくりと遠ざかっていく。
 伸ばし気味の金色の髪は少し風になびき、それでもきっちりと被られた軍帽は揺るがない。
 それはまるでその男の気性を表しているかのようだった。
 既に失ってしまった左手も、彼の記憶には完全な形で残っているのだろう、描かれていた。
 その絵は、ただ、一人の男の後姿に過ぎない。
 けれども、ほとんどモノクロの中で、唯一色づいて描かれているもの。

 たいよう。

『太陽みたいだなって、思ったんだよ』
『……俺が?』
『だって、金色の髪だし、何かきらきらしてて、……すげえ綺麗』
 それは、灰色の空の、唯一の明かり。
 ゆらゆらと雲間にたゆとう、空の道標。
『俺、アンタのこと、大好きだよ』 
 彼は、もうすぐ見えなくなる目で、ぼやけた視界で、
 何を見ていたのだろう。

「不思議ですよね、目が見えないのに、どうしてこんな絵が描けるんだろうって」
 男の頬を涙が伝った。
 それは止めようとしても後から後からあふれ出てくるようで、とどめなかった。
「その人が言うにはね、もう覚えちゃった、って言うんですよ。何度も何度も描いて――指と頭が覚えちゃったんですって」
 何度も、何度も。
 指が覚えてしまうくらいに。
「もう会えない人だろうから、こうして描いて残しておきたいんだって」
 ああ、と男は思う。

 彼は、やはり描いていたのだ。
 見えなくなった目で、描いていたのだ。
 何も映さない金色の目で、彼は、何も見ることは出来なかったが、
 それでもその右手は、動き続けた。
 動きつづけていたのだ。
 男が戦場で左手をなくしたときも、その右手は動いていたのだ。
 いつか帰ってくる男を待ちわびて。
 そしてあの目で、何も見えない目で、彼は確かに、騒乱の空襲の中を逃げ延びたのだ。
 
 最後に見た、男の後姿を描きながら。




 男はマスターに、その絵描きの居場所を尋ねた。
 マスターは男の姿に少し驚いて、だがすぐに柔らかな笑みを浮かべ、そっと通りの曲がり角を指差した。
 
 それから男が走り出すまでに、三秒もかからなかった。









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