腕一杯に抱えた買い物の荷物の隙間から見慣れた茶色の髪が見えて。
 危ない、と思ったときには、鈍い衝撃と共に、既にその小動物にぶつかっていた。
「ってぇ……」
 何してんだよ、と唇を尖らせ、上背のある自分を見上げた彼の顔が、あどけない笑みに変わった。
「なんだ悟浄じゃんか、久しぶり」
 おう、と自分は答えた。


 "スカラー"


 



 髪が伸びた。
 肩甲骨の辺りまであった髪の先は、いつか腰辺りで跳ねるようになった。
 たまに邪魔になったと思ったら八戒が切ってくれるが、肝心の彼自身も伸ばしっぱなしで、お互い『男夫婦みてえじゃん』と笑えるほどに髪が伸びた。
 ギャンブルは相変わらず続けているが、旅を終えてからというもの、あまり興味が湧かず、食っていけるくらいには稼いでいる。
 長いと言えば長かった旅。
 思い出すことが余りにも多かったから、悟浄はそのことをほとんど考えないようにしている。
 そうしていると不思議なもので、旅になんて初めから出なかったような、そんな気分に陥る。
 しばらくするとそれにも厭きて、たまに八戒と旅に出る。
 しかしそれはあくまで道楽の旅だ。あのときのように、血が燃えるような、細い針で全身を突き刺されるような緊張感もスリルもない。
 それでいいのだ、と思う。
 意外に悟浄はスリルに弱い。
 外見からは到底予想もつかないことだが、元来危険なことに手を出すタイプでは無いのだ。
 勝てる勝負にしか手を出さない。
 だから負けない。
 それは悟浄の徹底したルールのひとつだった。
 だが旅の途中、悟浄は何度もそのルールを捻じ曲げる出来事に出会った。
 勝てる喧嘩だけ売って生きるわけにはいかないのだと知った。
 同時にもう懲り懲りだと本気で思った。
 玄奘三蔵。孫悟空。
 彼らと出会って、確かに自分は変わった。
 もう、元の『まともな生き方』は出来ないのだと思った。
 でも、旅を終えて、自分はこうして生きている。
 博打を打ったり、日雇いで稼いだり、グラスを傾けたりしながら。
 普通の生活に、自分は戻ることが出来た。
 どうしたって、結局自分は生きていけるのだ。
 無茶をして彼らについていくことは無い。
 そうして、彼らと旅を続けることを自分と八戒は拒んだのだから。

 だから、少し足を伸ばした隣町で彼と偶然出会ったときは、本当は、心臓が飛び出してしまうのではないかというくらい驚いた。

「八戒、元気?」
 久しぶりなんだから何かオゴれよ、と屈託無く笑う彼を、しぶしぶといった形で近くの菓子屋に押し込み、餡蜜をひとつ頼んだ彼は、やはり笑顔を崩さずそう言った。
 元気だ、と答えてから、何故か虚脱感が悟浄を襲った。
 ふ、と息が一気に力が抜けた気がした。
 何で緊張してンだ、と自分に思わず叱咤する。
 目の前にしているのは敵でも何でもない、昔の仲間だというのに。
「そっちは?」
 餡蜜を少しずつ口に運ぶ彼に、何気なく聞いてみる。
 その顔が、ひょこりと上がった。
「三蔵?」
 元気だよ、と笑った。
 こうしてみると、彼は本当によく笑う。
 彼の保護者が笑う分を彼が笑っているのではないかと思うくらいだ。
 彼はゆっくりと餡蜜の桃を口に入れ、
「まだ八戒の家にいるの?」
「アレは八戒のじゃなく、俺の家だっつーの」
「相続権は八戒にあると思うけど」
「……難しい言葉覚えやがって」
 知らず、口元が緩んだ。
 不思議だと思うのはこういうところだ。
 彼と共にいると、怒りを感じる時間が格段に減る。
 彼の保護者は彼のそういうところを気に入っているのかもしれない。
「お前は? まだあっちこっち廻ってンのか」
「まーね。今は三蔵が近くの寺に厄介になってるの。俺は入れないから」
 それは、彼が『三蔵の従者』だからだ。
 妖怪、というレッテルは簡単に消えない。
 そうか、と何気ないふりで自分は頷いて見せた。
 けれども何となく視線をはずして、ふとあることに気付く。
「髪、伸びたな」
 当たり前だ。彼にも彼の時間が過ぎたのだから。
 改めてみると、出会った頃より、目元も大分涼しくなった印象を受けるし、歳相応の雰囲気も漂っているように思う。
 勿論それは今の大人しい彼しか見ていないからで、如意棒を持てばまたもとの彼に戻るのかもしれない。
 だが、あれだけ短かった髪が、緩く編んで肩にかかる姿を見ると、やはり時間は経ったのだと実感した。
 あの頃、邪魔だという理由で彼は髪を伸ばさなかった。
 だからか、あの数年で彼が成長したイメージは余り無い。
「そーぉ? 伸ばしっぱなしだからなぁ」
 自分と八戒が繰り返す言葉を、やはり彼も繰り返した。
 三蔵も髪伸びたか、と聞こうとして、それがどれだけ無駄な会話かに気付き、口を噤んだ。
 そんなことを聞きたかったわけではないのだ。
 何となく、彼の口から『三蔵』という言葉を聞きたかった。
 それで、二人の間柄がわかる気がした。
 ただ、自分たちが見ていなかったこの二年、二人の関係はどうなったのか――そんなことを知りたいのだと知って、悟浄は我ながら唖然とした。
 それこそ、どうでもいいことじゃねえか。
 けれども、確かにそれは悟浄の心の奥にわだかまりとして残っていたものだった。
 あの頃、三蔵は彼の保護者でしかなかった。
 だが三蔵の、彼を見る目は、保護者のそれではなかった。
 それを悟浄も八戒も知っている。
 知っているからこそ、悟浄は旅をやめたのだ。
「悟浄こそ、すげぇ伸びたじゃん」
 茶色の髪が揺れ、纏め切らない首筋の髪がふわりと舞った。
「でもやっぱ紅いのな。炎みたいだ」
 一瞬、悟浄は息が詰まった。
 その感覚を、自分は知っている。
 誰よりも知っている。
 最初に煙草を吸った日のこと。
 噎せ返って、それでも肺に煙を押し流した日のこと。
 最初に彼に出会った日のこと。
『燃えてるみたいに真っ赤だからさ』
 彼はきっと知らないだろうけれど。
『熱いのかと思った』
 
 息が止まってしまうかと本気で思ったのだ。

「……ハ」
 慌てて吐き出した息は、自分でも馬鹿みたいだ、と思った。
「何、言ってんだよ」
 いきなり黒くなるわけねえだろ、と言った。
 だよな、と彼は笑った。 
 そしてまたひとくち、餡蜜を口に運ぶ。
 何かその姿に違和感を感じる。
 それは意識するより先に口についた。
「お前、食うの遅くねえ?」
 昔の彼なら、こんな餡蜜はものの一分で平らげていたのに。
 その言葉に、何故か彼は小さく笑った。
 今まで悟浄が見たこともないような笑顔だった。
 こんな笑い方を、彼もするのか、と悟浄は思った。
「何か、あんま腹空かなくなったんだよ」
 それで、分かった。
 三蔵が悟空を自分のものにしたのだと、分かった。
 悟浄は、そうか、とひとつ笑った。
 
 じゃあな、と手を振って悟空が去っていく。
 伸びた髪が揺れ、そして人込みに紛れ、やがて見えなくなる。
 見えなくなってしばらくしても、悟浄はその場にぼうっと立っていた。
 ざあ、と風が吹く。
 悟浄の髪も揺れた。
 勝てない勝負はしない。それが自分のルールだ。
 だから、
 自分は勝てなかったのだ、と悟浄は何度も心の中で思った。
 それでも何故か指先を目元に当てると、不思議なほどに湿った。
 どうして泣いているのか自分でも分からなかった。
 
 自分のこの想いは、
 向かう場所の無い想いだ。
 ぐるぐる廻っては戻ってくる。
 
 そして自分はその大きさだけを、思い知るのだ。


(終)



すいません。三空サイトだってのに浄空書いちゃいました。
26万HIT御礼ということで、フリー配布にします。
浄空で善ければ持って帰ってください。
あ、一言もらえると喜びます〜。
ちなみに「スカラー」っていうのは「ベクトル」と逆の意味で用いられるもので、「方向性のない数量」を表します。「ベクトル」は「方向性を持つ数量」。
「速さ」がスカラー、「速度」がベクトルだと思って下さい。
余談でした。
感想など聞かせていただけると嬉しいです。

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