Stand by me


 

 空の色がぼやけている。
 こういう空を春霞みというのだろうか。
 決して春という季節は嫌いではないのだけれど、春は何かうやむやになってはいけないものが曖昧になりそうで、眩暈がする。
 まるで何処までが空で、何処からが地上なのかわからないのと同じように。
 届かないのが空だ、と悟空は知っている。
「ヤな感じ」
 呟くとすぐ傍で返事があった。
 それは非常に不機嫌なものだったけれど。
「何がだ」
「この、ぼんやりした感じ」 
「珍しいことを言うじゃねえか」
 助手席に座った三蔵が言う。
 悟浄と八戒がふもとの町へ買い物へ出かけてから、もう二時間は過ぎただろうか。
 四人揃って買い物に出かけても、ということで、ジャンケンで負けた二人が買いに行き、悟空と三蔵が車の中に残った。
 そういうわけで、ここ二時間ほど、助手席から煙草の煙が上がる以外、車の中は静かなものだ。
 悟空と言ったって、悟浄が居なければ絡む――もとい絡まれる相手もいないわけで、三蔵相手にひと喧嘩やらかすほど馬鹿でもない。
 ただぽつりと呟いた言葉に三蔵が反応したことに驚いた。
 聞いているとは思わなかったのだ。
「そう?」
「お前、春は嫌いじゃねえだろう」
 うん、と悟空は答える。
 正確に言えば春が嫌いではない、のではなく。
 冬が苦手なのだ。
 どちらかと言えば雪だ。春に雪が降るのなら、悟空はきっと春が苦手だったろう。
 悟浄のいなくなった後部座席で、はぁ、と溜息をつき、悟空はごろりと寝そべった。
 陽の光に暖かくなったシートが頬に触れて心地良い。
「あのさぁ」
 そよそよと吹く風の中、悟空はマントをばさりと翻し、狭い後部座席で寝返りを打つ。 
 何だ、と三蔵は問い返す。
 煙草がジリ、と焼ける音がした。
「俺、この間紅孩児と闘ったじゃん」
「……ああ」
「あん時、すっげぇ中途半端だったから」
 というと、思い出したように、三蔵は煙草の灰を車の外に落とした。
 それがひらひらと風に舞うのを悟空は見る。
 中途半端、というのが悟空は一番嫌いだ。やるならやる。勝つなら勝つ。
 ヤッたのかヤられたのか、勝ったのか負けたのか。
 あれ以来何だか心の中に靄靄したものがあるような気がする。それが気持ち悪い。
「勝つ負ける、ならテメェらはいつもそうだろ」
 その通りだ、と悟空は頷く。
 心の中に渦巻く靄。
 それは勝負だけの『中途半端』ではないような気がした。
 上手くは言えない。でも、確かに紅孩児と闘うとき、いつも勝つだの負けるだのややこしいことは考えない。
 そんなことではなく、ただ紅孩児と闘いたいと思う。細胞がそう思う。そう思った瞬間に、体が動く。だから闘う。
 今回もそうだと思った。
 けれど紅孩児は、自分を殺そうとした。少なくとも悟空には殺される気がした。そういう目をしていた。
 いつもと違う、と一瞬違うのが遅ければ、自分は確実にそうなっていただろう。
 それは紅孩児にも何か理由があったのだろう。悟浄曰く、夢見が悪かった、とか――
 しかし悟空がショックだったのはそれではない。殺されかけたことは今までにも何回もあった。それこそ今更、だ。
「強い――って思った」
 自分よりも。
 これだけ強い奴なのだ、と思うと、
 足元がガラガラと崩れ落ちていくような感覚がした。
 自分より強い存在は、この世界に幾らだっているのだ。
 改めてそう認識すると、やはりそれが自分の目の前を真っ暗にしている原因なのだと判った。
「お前」
 三蔵が低い声で言った。
「自分がこの世界で一番強いと思うか」
「思わねーよ!! ンなこと、思ったことも」
「……無ぇだろうな。テメェの場合」
 判りきった口調で三蔵が言う。
 余りにも静かな声に、普段なら『馬鹿にすんなよ』の一言も返すところだが、悟空は口を噤んだ。
 三蔵が煙草をゆっくりと吸う。一瞬遅れて紫煙が煙草から漏れる。 
「強いだの弱いだのは個人の認識だ。別にテメェが紅孩児より弱いと思ったところで強くなるわけじゃない」
「そうだけど」
「馬鹿猿が難しいことを考えるな。ついていけずに投げ出すのが落ちだ」
 随分と投げやりなことを言ってくれる、と思ったが、確かにそうだ、とも思った。
 寝転がったまま上空を見つめ、ぼんやりとした空を見つめる。
 相変わらず境界線の判らない空。
 届かないところが、空。
 それならば、指を伸ばした先にいる、この金髪のひとも、空なのだろうか。

 自分を強いとも弱いとも、思ったことが無いのだろう。
 三蔵は短くなった煙草を捨て、新しい煙草に火を付ける。
 それがこの少年の強さだ、と三蔵は知っている。
 だから変に強さや弱さを考えない方が善い。
 悟空は自分の強さも弱さも知らない。それで善いのだ、と三蔵が思うからだ。
 弱さを教えないのは、弱くさせないため。
 三蔵は、共に在るものが自分より先に逝くことを赦さない。
 強さを教えないのは、強くさせないため。
 それは、
 共に在るものに、三蔵自身の弱さを気付かせないためだ。
 三蔵はゆっくりと空へ吸い込まれる紫煙を見ている。
 時間は驚くほどに緩やかだ。
 悟空がこの間の紅孩児との一件から、何か考え込んでいるらしいことは三蔵でなくても測り知ることができた。
 だから八戒も悟浄もわざわざ二人を残して買い物に出かけたのだ。
 そのことも三蔵は知っている。
 悟空はさっきから黙っている。
 そもそも悟空が、強いとか弱いとかを考える時点で、どうしたことだと思ったのだが。
 この少年はそういう抽象的なことをほとんど考えない。考えないでも生きていける。
 だから悟空が考えるとしたら、その手前だ。
「弱いと、何か困るのか」
 強くなくてはならない理由があるのか。
 三蔵はそれに大方の見当がついていたが、悟空の口に言わせたくて先を促した。
「だって負けたら困るだろ」
「俺は困らねぇな。撃ち殺して終りだ」
「そんな、強い方が善いに決まってんじゃん、だって、」
 だって、と悟空は繰り返す。
「だって三蔵、弱い奴、嫌いじゃんか」
 やはりそれか、と三蔵は煙草を咥える。

 勝っても負けても、三蔵の傍にいられるならそれでいい、と悟空は思う。
 けれど、弱いと三蔵の近くにいられない。
 自分の身を護れないような人間が、他人を護ることは出来ない。ごく当たり前の、真っ当なことだ。
 だから三蔵の傍にいるために、自分は強くなくてはならないのだ。
 他の誰からも三蔵を護れるように、誰よりも強く。
「……もし、三蔵が」
 悟空が手の甲を額に当てて言う。
「俺よりもっと強い奴を見つけて、そいつも三蔵を呼んだら」
 自分は三蔵の傍にいられなくなる。
 それがどれだけつらいことか。
 三蔵は悟空の総てだ。
 三蔵の知る世界が悟空の知る世界であり、それ以外の何でも無い。
 もし一人にされたら――と思う。
 勿論いつもいつも思っているわけではない。だが不意に、三蔵が視界の中に居ない一瞬、それが頭を過ぎる瞬間がある。
 自分だって三蔵を呼んだのだ。
 他の誰かも呼ぶかもしれない。
「そしたら、三蔵は、そいつを連れてくだろ」
 だから、誰よりも強く。
 そう言いかけた悟空の唇を塞ぐものがあった。
 苦い苦い、
 煙草の味。
 本当は味も判らないくらいの、掠めるほどの口付け。
 三蔵の唇はすぐに助手席の煙草へ戻る。
 何事も無かったと言うように。
「バカ猿が」
 ああ、どうしてこのひとは、こんなにもつめたくやさしいのだろう。
 と悟空は思った。
「俺は強い弱いでテメェを撰んだわけじゃねえよ」
 三蔵は言う。
 悟空以外の誰かが、たとえ自分を呼んだとしても。
「お前が一番煩かったんだ」 
 我慢できないほどに煩かったから、 
 だからあの五行山を訪れたのだと。
 悟空は額に手を当て、目を閉じる。
 少しずつ心の靄が取れていく気がした。
「じゃあ、俺ずっと煩くしとく」
 三蔵は煙草の灰を落とし、静かに笑う。
「ああ。そうしとけ」
 

 唇に、マルボロの香りが残っていた。 


(終)

-----------------------------------------------------------
タイトルは三蔵視点で。何気にこっそり甘々。
最近甘い三蔵が好きなようです(笑)



BACK