ホメオスタシス


 

(……暑い)
 三蔵はバイクに凭れ掛かったまま、煙草を咥えてぼんやりと空を見上げている。
 風は無い。頬を撫でるほどのそよめきも無い。
 じりじりと照り付ける夏特有の太陽は正視するには余りにも眩し過ぎ、すとんと突きぬけるような空は目を閉じるのが躊躇われるほどに青冴えている。
 人によれば夏よりも秋の空の方が美しいのだそうだが、三蔵にはそんなことはどうでもいいことで、人待ちをしている間にふと見上げた空がただ単に自分の意識を捉えたという、それだけのことだ。
 空、という名前は実に的を得ていると思う。
 実際のところ、ソラという物質は何処にも存在しない。それは空っぽの存在だ。
 ここからどれだけ空を目指して上空高くを目指したとしても、少しずつ空気が薄くなり温度が下がり、シャトルのような強靭なボディを持つ体で無ければ、大気との摩擦で何処かで燃え尽きてしまう。
 もしもその摩擦熱に耐えることが出来たとしても、突き抜けた先にあるのは空ではない――宇宙だ。
 そう考えると空というものは何処にも存在しない。
 ただ単に何十キロメートルかに渡る空気の層が青色の補色を吸収するので地上から見上げたときに青く見えるという、ただそれだけのことだ。
 誰かが大気圏に突入し、そこに浮かんでいる幾許かの粒子を持って地上に降りたとしても、それは既に地上に降りた時点で空という意義を失う。
 単に現象として見るならば地上でも雲を作ることは可能であるし、空と同じ成分の粒子を集めることも可能だ。しかしそれは空では無い。
 地上から見れば変わらない顔をしている空でも、実のところ様々に流転し変化している。それが変化しているように見えないのは、空、と名付けた空気の層が余りにも地上より遠く、その変化が地球の公転のように繰り返し行われるものだからである。
 この世には変化しないものなど存在出来ない。
 それこそがもしかすると不変の真理なのかもしれない。
「何かまた難しいこと考えてるだろ」
 という声がして、三蔵は見上げていた顔をほんの少しだけ傾けた。
 それだけで視界に入る、自分より幾つか年下の、男というにはまだ幼い容貌をした少年。
 孫悟空、という名前を持っている。短い茶髪が汗で濡れて湿っているのが離れていても分かった。赤茶色のタンクトップの上に中途半端に羽織ったシャツが、汗で腕に張り付いている。 暑ィ、と悟空は今日何度目になるか判らない台詞を吐いて、ぱたぱたとシャツの襟をはためかせて扇いだ。
「研究室で待ってても善かったのに」
「昨日から冷房の電源が落とされてる」
「あ、そうだっけ。これだからヤだね、貧乏学部は」
 三蔵と悟空の所属している学部では、夏の休暇期間に入ると節電のために冷房の使用が制限される。
 というのもその他の機器に使う電力が半端では無いので、同じだけの予算で賄うためにはこうしたところで省エネが行われるらしい。
 だからと言って休暇期間に実験を休むわけにもいかず、どの研究室にも夏になると扇風機が持ち込まれる。三蔵は既に学部を卒業し、今は修士課程としてゼミに配属されている。
「どうだった」
 と三蔵が尋ねると、悟空は溜息をひとつついた。
 二回生である悟空は、先日行われた前期末試験の結果を確認するために学部棟を訪れたのだが、どうも結果が芳しくなかったらしい。
「駄目だ。やっぱ統計学の単位落とした」
「ノート類持ち込み可だったんだろ」
「持ち込みでも駄目。オレもう授業の内容全然判ってなかったし。検定、全部T分布で解いちゃった」
 ぺろ、と悟空は小さく舌を出してみせる。
 他は何とか大丈夫だったけど、と汗を拭う。彼の場合は安堵というよりも単に暑さ故の汗だろう。悟空は三蔵よりも格段新陳代謝が激しいのだ。
「三蔵は? もう研究室行かなくていいの」
「構わん。どうせ俺独りじゃ進まない」
「ふうん。ええと、何やってるんだっけ」
「シトクロムP450による薬物代謝の相違」
 三蔵が現在行っているのは二、三人による共同研究である。
 体内酵素に関わる類の研究は、単に有機物質を合成したり淡白質のモデルを解読するのと違っておおよそ独りでは何も出来ない。
「シトクロムP450?」
「生理化学で習うだろうが」
「今回の試験でシトクロムbとかaとa3とか出たけど」
「馬鹿。そりゃ酸化的リン酸化だろ」
「違うの」
「ああ」
 詳しく説明するのが面倒で、三蔵は煙草を咥えたまま相槌を打った。
 シトクロムというのは薬物や汚染物質、化学的発癌物質や生体異物が取り込まれた際にまず初めに代謝される生体酵素の総称である。
 悟空が上げた幾種のシトクロムは分子状酸素が体内に取り入れられた際に、体内の基質に酸素を添加させるための酸化酵素であり、シトクロムP450は薬物などの生体異物を水酸化し、体内に取り入れやすくするための第一段階の代謝酵素だ。おそらくそれを説明しても悟空には理解出来ないだろうと思った。
 三蔵は短くなった煙草をじりじりと屋外用の灰皿で揉み消した。大学内が総て屋内禁煙になってしまったために、喫煙家としてはやや肩身が狭い。
 そして、ジーンズのポケットに挟んでいたキーを取り出すと、バイクに跨ってエンジンを掛けた。ドルン、と垂直に震動が体へ伝わる。
 三蔵はフルフェイスのメットを被ると、ほぼ同じ型のもうひとつのメットを悟空へと放り、背後を示す。
「出すぞ」
 うん、と悟空は笑ってすぐにタンデムシートに飛び乗った。
 ほとんど後部に他人を乗せたがらない三蔵なので、このタンデムは悟空専用と言っても間違いでは無い。
 シートに乗ると、腰に回された悟空の腕が三蔵を強く掴む。この癖は変わらない。出会ったときからずっと。
 暑い暑いというくせに、だからと言って腰に回す腕の力を緩めるわけでは無い。そしてバイクはすぐに発進する。
 変わらない悟空の癖、それは数え上げるときりが無い。
 勉強していて飽きるとペンを回す、寂しいときは瞬きをする、漫画を読んでいるときは何を話し掛けても答えない、放って置くと入浴はほとんど鴉の行水で、面倒くさがって髪も乾かさない。
 そしてまたそれを数えられるだけの年数を共にしてきたのも事実だ。
 びゅうびゅうと風が耳元を過ぎ去っていく。
 バイクは車と違って肌で風を感じる時間が長い。それ故移動しているという感覚も大きい。
「今日は三蔵の部屋行ってもいい?」
 後部座席から悟空が声を張り上げる。その声の大きさでようやく三蔵の耳に届いた。
「ああ」
 と三蔵も同じくらいに大きな声を張り上げる。どうせ、悟空のことだから食料の買い置きをしていないのだろう。
 二人が住んでいるのは同じ住所だ。ただ部屋の番号だけが違う。
 いわゆる大学周辺の学生街、という地域からは少し離れたアパートだ。大通りに出て、バイクを十分も走らせないうちに着く。
 この辺りは学生が多く住んでいるためか、家路をたどる間に、二十四時間営業のファミリーレストランや、幾種のコンビニ、ファーストフード店などの景色が通り過ぎていく。大学自体が最寄の駅から少し離れているために、移動の利便性が高いとは言えないが、それ以外の娯楽や買い物の用は十分に足せる。もしも大学周りで店がなかったとしても、殆どの学生は自転車か原付かバイクで通学しているので、少し駅の方角に足を伸ばせば必要なものを求めることが出来る。
 通り過ぎる景色の中から、学生向けのCDやビデオのレンタルショップを見つけたらしい悟空が、抱きついた三蔵のシャツを引っ張って言った。
「なあ、そういやこないだ借りたビデオ、返したっけ」
「昨日返却期限来てたから返しておいた」
「そっか、サンキュ。アレ、パートUやるんだって」
「ほう」
 そういえば、同じ研究室の学部生がそんなことを言っていた、と三蔵は思い出す。パートTも悟空と共に見たが、あまり趣味のいい映画とは言えない。生物兵器用のウイルスがある人間の故意によって建物内にばら撒かれ、それによって『生ける死者』となった人間達が右往左往する、食事時に見たいとは思えない内容だ。ホラー映画ではないが、それだけに内容も非常にグロデスクな場面がある。人間の器官が切断され、ただの肉塊となりはてるような。
 体内の細胞を一斉に活性化させるというそのウイルスがどんな類のものであるか気になるものだ、と一人の学生が言えば、それよりも見所は女主人公のアクションだ、と別の学生が嬉しそうに言う。もっとも後者の学生は学部内でも女好きで有名な男だからという理由でもなく、単に人間の本能としてゾンビよりもむしろ生きている女性に心惹かれる気持ちは判らないでもない。
 とにかく三蔵の場合は内容如何というよりも、悟空が映画を見た後の反応の方が面白かったりするのだが。
「お前、あのビデオ見た後、一週間は焼肉行かねえとか言ってただろ。パートUなんて見れんのか」
「見れるよ! オゴリ賭けてるし!」
「……誰と賭けてんだ、それ」
「悟浄!」
 上がった名前に、やはりか、と三蔵は溜息をついた。悟浄というのは、例の女好きの学生だ。三蔵と同じ研究室で卒論研究をしている学部の四回生で、女以外の生物に殆ど興味は無いが、子供は嫌いでないようで、時折三蔵を待つために訪れる悟空には構っている。とはいえ悟空と悟浄は年齢にするとさほど違わないのだが、身長差と悟空の中身以上の外見の幼さのために、悟浄の「子供ゾーン」に十分入るのだと以前言っていた。勿論それは悟空をからかうために。
「パートU見に行った後に焼肉行くって。オレがレア食えたら全員の焼肉代は悟浄のオゴリ。食えなかったらオレのオゴリ」 
「……くだらねえ」
「八戒も行くって。な、三蔵も行くだろ?」
 八戒というのは悟浄と同じ、三蔵の研究室の四回生の男だ。
 くだらない、と思ったのは、賭け自体が――というのもあるが、たかだかそんな小さな賭けのために、二十歳を超えた大学生がぞろぞろと映画を見に行くのがとてつもなく無意味なことのように思えたからだ。それに、そんなことを賭けたって勝敗は見えている。三蔵には判っていることだが、悟空の食欲はそう簡単に押さえられるものではない。ビデオを見て先ほどの感想をのたまった直後に、CMで流れたレア肉の宣伝を見て涎を垂らしていたのは何処の誰だと思っているのだろうか。
 しかし悟空とどこかに出掛けること自体が嫌なわけではないし、と三蔵が思案しているうちに、アパートのすぐ傍までバイクは近づいていた。
 そしてもう一度だけ車体をバンクさせると、もう視界に住居であるアパートが目に入る。
 悟空は五年前、十五の歳に父親である保護者を亡くした。三蔵にも親が居ない。同じく五年程前に病気で他界している。二人が出会ったのはちょうどその直後だ。三蔵は住んでいた家を追い出され、通い始めたばかりの大学の近くのお世辞にも奇麗とは言えない様相をした安アパートに部屋を借りた。それ以来悟空は三蔵の部屋に入り浸り、気付けば隣の部屋に住みついていた。
 鉄筋コンクリートの鉄筋が見えるのではないかと思うほどに老朽化しているアパートはニ階建てで、全部で八つの部屋があるのだが、そのうち使われているのはたったの四部屋だ。
 十分ほどバイクを走らせると、非常階段のような鉄製の階段をつけた安アパートが見えてくる。
「……暑」 
 悟空はバイクが目的の場所で停止するなり、バイクから飛び降りてメットを外した。既に前髪は汗で額に張り付いている。あんなにも抱きつくから暑いのだ、と三蔵は言おうとしたが、毎年何度言ってもその癖は変わらないので、今年も無駄かと口を噤んだ。
 階段の下のスペースには既に使われていないであろう古びた自転車が何台か立て掛けられていて、三蔵はその一番端にバイクを停めた。日陰に入っても夏の蒸し暑さは変わらない。どうにかならないものかと階段の隙間から空を仰ぐ――無表情な「空」。それでもその表情は先ほど見上げたときのそれよりも変化している。
「何見てんの」
 悟空が三蔵の視界を遮るようにぱたぱたと片手を振った。
 三蔵は鬱陶しそうに片目を細めてその手を避ける。
「別に」
「ま、こうも暑いとぼーっともしたくなるけど」
「てめえだけだ」
「ひっど。オレはぼうっとしてる余裕なんてないもんね。もう暑くって」
 汗で張り付いたシャツをひきはがそう、という気力はもう残っていないらしい。確かにアスファルトの照り返しは強く、直接日差しの届かない階段下でも、くらくらするほどの熱を含んでいる。
 三蔵でさえ気を抜けば蜃気楼を見てしまいそうだ。それをこらえて何度か瞬きをする。
 空でさえ変化する。ましてや人間は尚更だ。変わらぬものなど何も無い――そんな突拍子も無いことを悟空に言ったとしても、理解出来ないだろうと思う。三蔵でさえ余りの暑さに眩暈がしそうだ。
 その熱にあてられたのだろうか、三蔵はふと、
「あー、喉乾いたぁ」
 そう言ってばさばさと襟元を扇ぐ悟空の、首筋をつうっと伝う、汗に視界を奪われた。
 首元から喉元へ、そして鎖骨へと流れ、馴染んでいく。
「……三蔵?」
 己を凝視する三蔵を不思議に思ったのか、悟空が首を傾げる。
 三蔵は不意にその汗に触れたくなって、悟空の喉元に唇を近づけた。
 舌先でちろりと悟空の肌をなぞる。
 その苦いような甘いような味が味蕾から神経を伝わって脳で認知される――
 一筋の汗の塩辛さ。
 わ、と悟空が一瞬遅れてあとずさる。
「な、何だよ三蔵、吃驚するじゃんか」
「――いや」
 舌の上に汗の味が残る。
 三蔵はそのまま、唇を悟空のそれへと寄せた。
 僅かに後ろへ下がる悟空をバイクの車体に押し付けて、身長差で口付ける。案外、深く。
 突然のことに、ぎゅ、と目を閉じた悟空の睫毛がふるふると震えた。
「――っ」
 名前を呟かれて唇を離すと、悟空の顔が真っ赤になっている。もう数え切れぬほどに交わした口付けなのに。
 唇に手を当て、その目が少し責めるように三蔵を見る。
「……三蔵」
 声は掠れていたが、こんなところで、とも、突然すぎる、ともその目は発しているようだった。
 ああ、こういうところは変わった、と三蔵は思う。
 最初のころは、ただ頬を染めて目を伏せるばかりだったのに。
 三蔵は気付かれないくらいに小さく口元を上げる。
「誘ってたんじゃねえのか」
 喉が渇いていたんだろう、と言うと、悟空は益々顔を赤くした。

 変化しないものなど存在しなくとも、その変化さえいとおしく思うのなら、恒常性など必要無いのだ、と三蔵は思った。



 (終)


「Homeostasis」より、タイトル話「ホメオスタシス」でした。
本に載せたものよりだいぶ手を加えております。ラストとかもうある意味別物です……(笑) 
改稿にあたり多大な助言と癒しをくれた夜姉、本当に心からありがとう。
いつも思うけどアナタがいなかったら私きっと文章書いてない。いや、いつも、本当に助けられてばかりで助ける機会がないのが悔しいです。
大学生パラレルは個人的に書いていて楽しいので、またちょこちょこ書いていけたらなあと思います。
(相変わらず内容はあまり楽しくないですが!/汗)
学部等は明らかにしていません(笑) まぁ判る方は判るかもしれませんが、理系のどっかの学部です。そのくらいで。
何かご感想いただけると幸いです〜。


BACK