恋愛温度


 

 なまぬるい眠りだ。
 目を閉じて夢を見ている。眠りだと悟ることの出来る夢だ。
 膝を抱えて体を丸めて、全身が何かふわふわしたような、それでいて弾力あるものに覆われている。
 それは何処よりも居心地が善く、そして自分を知り尽くしているもの。
 上下も左右も判らない。暗闇かと問われれば、目を閉じているのだから暗闇なのだろう。
 ふと。
 ぴしり、とその暗闇に一条の光が差し込んだ。
 目を閉じていても判るその光は、小さな細かい破壊音と共に体を覆っているものにヒビを入れていく。
 ああ。
 開くのだ。
 そう思った途端、急激に覚醒するのが判った。
 目を開くと辺りが霞んでいる。
 暗闇――ではない。薄明かりが差込んでいる。
 どこから。
 「窓」からである。
(――あ)
 悟空は夢から醒めたことにようやく気付いた。
 差込む光は、恐らく朝の太陽が窓越しに与えたもの。
 カーテンを閉め忘れた窓は光を遮蔽することなくゆるりと部屋の中にその光量を与え、硝子によって乱射されて余計に弱まったそれは目を刺すほど眩しいものではない。
 夢が唐突に現実と結合し、その反動に悟空はついていけない。
 ふるふると頭を弱く振ると、夢の残滓がはらりと解けていくように視界が広がった。
 宿屋の一室だ。
 古い寝台は、身じろぐほんの一動作でさえも吸い込んで、ぎしりと鳴く。窓から差し込む明るさを見れば、もうすぐ朝が走りこんでくる、その直前といったところか。
 何ということはない旅の朝。違うのは、悟空がこんな時間に目を覚ますことなど滅多に無いということだ。
 なまぬるい温もりを振り払って寝台から降りる。それは、肌の温もりと同化した毛布だった。
 一人部屋に他に気配は無く、窓は薄く曇っている。服の裾でその曇りを取ったが、見えたのはまだ夜明けぬ街の様子だけだった。
 人通りが無い。
 否。
 悟空は見慣れたものを見た気がして、嵌め殺しの窓に額を近づけた。
 窓の外。見慣れた色がふわりと動く。

「……三蔵」
 部屋から出てその背中に声を掛けると、ゆっくりと背中の持ち主が振り返った。
 口には咥え煙草。表情は、悪くない。
 その紫の瞳が悟空を射止め、眉がほんの少しだけ顰められた。
 これは三蔵の癖だ。悟空を見つけたときの。
「起きてたのか」
「まあね」
 つっけんどんな口調に苦笑して返事をする。
 まだ温もりの薄い大気は、ひんやりとした湿気だけを含み、それが頬に触れて冷たい。
 三蔵は意外にも法衣をきっちりと着込んでいたが、その襟元が湿気に濡れて冷たくはないのだろうか、と悟空は不思議に思った。
 窓から見た金色の髪も、心なしかいつもより冷たく白みを帯びた色のように見えるが、三蔵が動くたびに揺れる、その速度は変わらない。
 髪が伸びたな、と思う。
 多分、自分も。
「寝着のままほっつき歩いてんじゃねえよ」
「いいだろ、出発時間まだだし」
「そうじゃねえ」
 自分が法衣の上に羽織っていた外套をぱさりと放った。
「寒ィだろ」
「……ん」
「馬鹿猿が」 
 悪態をつかれても腹が立たないのは、それが三蔵だからだ。
 紫の外套はじんわりと温もりを帯びていて、寝着一枚で部屋を出た悟空には暖かかった。
「三蔵こそ、早いね」
「まあな」
 その言葉に、移ってしまった彼の口癖に気付く。
「どうして」
「早く目が覚めるってこともあんだろ」
「あのさ、悟浄が言ってたんだけど、早寝早起きって年――いや、何でもないです」
 悟空は三蔵の懐から取り出されかかったハリセンを見て口を噤んだ。
「賢明だ」
 三蔵はそう言うと、咥えていた煙草の灰を落とす。
 足元にまだ吸殻は無い。
 今日一本目か、と思いながら悟空は三蔵を見上げた。
 その視線がかちりと合う。
「……何だ」
 何故だか判らないが、不意に夢のことを話したくなった。
「あのさあ」
「ん?」
「三蔵、自分が生まれたときのことって、覚えてる?」
「……ああ?」 
 予想していなかった質問だったのだろう、三蔵の眉が不審の形に歪められた。
 悟空は気にせず続ける。
「生まれたとき、周りがどんなふうで、自分がどんなことを思ったか、覚えてる?」
 悟浄ならば、何だそりゃ、と間抜けた声を上げたのだろうが、三蔵はふいと視線を逸らすことでそれを示した。
 トントン、ともう一度灰を落とす。それは綺麗に大気に溶けた。 
 街にまだ人は――いない。そうでなくともこの街は商業街でも観光街でもなかった。こんな時間に目覚めているのは、酔狂な遊び男か、大店の下働きくらいなものだろう。
 空を見上げる。暗い――が真っ暗でもない。東の方が微かに、本当に目を細めて判る程度に明るんでいる。
 西の空に、追われた月がぼんやりと浮かんでいる。
 右の頬を闇に喰われた月。
 昔から、誰にも教わったことはないのに、月は何十日かに一度消えてしまうことを悟空は知っている。
 消えた月は糸のようになって現れ、それが少しずつ太って真ん丸になる。その真ん丸は右頬から喰われて闇に戻っていくのだが、悟空はその真ん丸の月を満月と呼ぶことを、つい九年前に知った。
 たいよう。
 悟空が真ん丸の月を呼んでいたその名は、別の物の呼称なのだと知った。
 けれども、と思う。
 悟空は今でも満月を見上げるたびに、あ、たいようが、と思う。
 それは多分、「呼称」がその「名」であるとは限らないからだ――と悟空は知っている。
 聴くに、この世界に、「三蔵」と称すべき人物は五人いるのだという。
 けれども、だからといって、多分自分は彼以外の三蔵法師を、決して「三蔵」とは呼ばないだろう。
 それは自分にとって彼だけが「三蔵」だからであり、それが彼の「名」だからだ。誰かが名づけてくれた自分の名と同じように。
 それは唯一無二のもの。
 それは。
「生憎」
 三蔵の声だ。
「生まれたときのことなんざ覚えてねえよ」
 川の苦さならよく覚えているがな、と付け加えるように三蔵は言った。
 悟空は少しだけ、俯く。
 三蔵が川に流され、彼の師匠に拾われ生き延びたことは知っている。恐らく、三蔵を生んだ者が彼を捨てたのだと、それくらいのことは悟空にも判っている。理由が何にせよ、それは事実だ。それなのにどうして軽率にも自分はどうしてそんなことを聞いてしまったのだろう、と後悔した。
「ごめん」
「どうした」
「……だから」
「違う」
 え、と悟空は頭を上げる。
「どうしてそんなことを聞いたのか、と言ったんだ」
 見上げた三蔵の目は、思ったよりも穏やかだ。
 その穏やかさにするりと悟空の喉が軽くなる。
「生まれたときの夢を見た」
「……誰が」
「俺が」
 生まれた、というべきなのか、どうなのか。
 三蔵によってこの世界に導かれ、もう少しで十年になる。たった十年。あの岩牢の世界に比べて、それがどんなにも短いことか。
 それでも少なくとも悟空は様々なことを知った。
 ひとは、ひとからしか生まれない。
 それならば。
 唇をかみ締める。
 やはり自分はひとではないのだ。
「卵みたいなモンがパリパリ割れて、それで目が醒めた」 
「それは卵じゃなく岩だろうよ」
「でも何かヒビ入るみたいに壊れてった。岩なんて割れるわけ」
「出来るだろ、お前なら」
 そう言われてしまうと、自分とお前は違うのだ、と突き放された気がして、悟空は額を押さえた。
「ンなの、出来なくったっていいよ」
 じんじんと冷たい金錮。
 これがある限り、自分は三蔵と同じではない。
 同じにはなれない。
 けれどもこれを外してしまえば、自分は自分ですら無くなってしまうのだ。
 特別な力なんて要らなかった。
 如意棒を操る力も、ひとより治りが早い体も、鋭い嗅覚も視覚も要らなかった。
「そんなのよりも」
 三蔵と一緒であった方が、ずっとずっと善かった。
 そう言おうとした唇を塞がれる。
 唐突に。
「お前は」
 三蔵は唇を瞬間で解放して呟いた。
「お前は誰よりも、俺がひとでないことを知っている」
 悟空にはその意味が判らなかった。 
「でも、だって、三蔵は」
「『呼称は時に名では無い』」
「それは知ってる、それは三蔵が」
「だったら」
 三蔵は言葉を遮る。
 髪が触れ合う位置で。
「俺が何であるか、お前だけが知っている」
 瞬くことさえ許されない。
 悟空は小さく答えた。

「……『三蔵』」

 そうだ、と目を細める。
 それは唯一無二のもの。
「なら、俺も『ひと』じゃねえだろ」
 お前と一緒だ。
 低く呟いたのか、それとも吐息だったのか。
 悟空にしか届かない声で囁くと、三蔵は悟空に再び口付けた。
 あの殻の中の温度など比べ物にならないほどの熱が流れ込み、悟空の瞼を閉じる。
 温もり。熱。力――感情。
 同じ理由で、多分、自分が何であるか、三蔵だけが知っている。
 それは三蔵にとっての、唯一無二の。
 それに気付いたとき、恐らくひとはひとでなくなるのだ。
 そう思い、悟空は安堵とも後悔ともつかぬ息を漏らす。


 この腕の中で始まったのは、恐らく、恋なんて云うなまぬるいものではなかった。
 



 (終)


久々の甘三空。(の、つもり)
とにかく温度に拘ったつもりが気付くと名前に拘っていた。
ひと、を平仮名で書いたのも括弧つけなかったのもわざとです。
クドイことは了解済みです。苦情、幾らでもどうぞ。
勿論感想をいただけると感激。

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