アナライズ・インコンプリート


 

 
 脳、というのは案外に脆い器官なのだという。

「だから、胡桃の殻に入れられたプリンみたいなモンだろ」
 煙草を爪楊枝か何かと同じように咥えた紅色の髪の男は、指先だけで試験管を振りながら言った。
 咥えられた煙草から煙が出ていないのは、先日出された学内禁煙令の為――というよりも、むしろ現在研究室内で行われている実験に喫煙が影響するためだろう、ということを三蔵は知っている。同じ理由で煙草を吸わないからだ。 
 元より自分もその男も、殊勝に学令を護るほど従順な人間ではない。
 煙草に含まれるニコチンはタバコの葉に含まれる猛毒のアルカロイドだが、面倒なのはそれが無色揮発性、つまり気体になりやすいという点にある。喫煙時に発生するニコチンがうっかりホモジェナイズしたラットの脳や肝臓にでも溶け込んでしまったら、分析結果がおかしくなることは目に見えている。
 悟浄、という名を持つその男は、そのすぐ傍で丸椅子に座って話を聞いている悟空に、宙に指でその模型を描きながら説明した。
「プリンを柔らかく包んでる膜が軟膜、その外側にクモ膜があって、それから殻にぴったりと張り付いてるのが硬膜」
「あ、オレ見たよソレ。解剖で」
 そう言って瞬きをする悟空の手に握られているのは、腹が減ったと言って近くのコンビニで買ってきたプリンだ。
「ああそっか、オマエらも見学に行くんだっけな。解剖実習」
「ん、でも脳は取っちゃって外側しかなかったけど。硬膜は残ってたな。下垂体がくっ付いてた」
 ぱくり、とプリンを一口食べる。
「医学部の学生曰く、脳はぐちゃぐちゃになるから先に取っちゃうみたい」
 無邪気な声でそう言いながらぱくぱくとプリンを食べる。
 ぐちゃぐちゃになる脳がそのプリンなのだと――その比喩にも関わらず、悟空の食欲が変わらないところに三蔵は溜息をついた。
 同じことを考えた男が他にもいたらしい。もっとも声の調子は大分違ったけれど。
「まあまあ。僕達はどうあれ世間的には食事時なんですから、そういう食欲を減退させる話題はやめませんか」
 そう合いの手を入れたのは、先ほど分子微生物制御学の研究室に抗生物質を取りに行っていた八戒だ。
 この悟浄と八戒は、衛生代謝解析学講座の四回生であり、時期柄、卒論の研究に忙しい。そして三蔵はこの研究室の大学院一回生だ。そういう意味では、一番この講座に無関係であるのは、学部二回生でゼミ配属もまだ決まっていないのに、連日この研究室に顔を出している悟空である。もっとも悟空がこの研究室に入り浸るのは勿論学問の為などではなく、単に三蔵がこの部屋にいる為だ。家に一人で帰っても暇だから、という理由で、この部屋で課題や無駄話をしていることが多い。
「ほうら、そこの顔色の悪いお方が更に眉間に皺寄せてるじゃないですか」
 そう指されて、それが自分のことであると気付き憮然とするよりも早く、
「いつものことじゃねえか」
 と悟浄に一蹴されるのだから最早怒ろうにもその矛先が失せる。自然、手元で分析結果をメモしていたシャーペンの先がぱきりと折れるが、それは仕方が無いということだろう。
「大体俺は別に構造の脆さの話をしてたわけじゃねえよ。この間面白い論文を見つけたからコイツに教えてやろうと思って」
「前置きが長ぇんだよ、悟浄は」
 そう言って悟空が悟浄の纏めた長髪を引っ張る。既にプリンは空にしたらしい。
「悟浄の面白い論文、はアテにならないですからねえ」
「八戒が慎重過ぎンだよ。俺は面白い論文なら片っ端から漁る」
「そうやって専門外のことばっかに首突っ込むから卒論が進まねえんだろ」
「てめえは黙ってろっつーの」
 とパコンとひとつノートを丸めて悟空の頭を叩いた。
「で、何です、今回の『面白い論文』は」 
 散々貶した挙句、最終的にきちんと話を聞くのは八戒という男の性質だろうか。それとも悟浄と共にいるから身に付いた技術のひとつであろうか。
 三蔵は分析結果のメモを取り終わると、スイッチの入れっぱなしのパソコンデスクに座った。
「ズバリ、そのテーマは――超能力だ」
 その言葉に一瞬の間が空く。
「……超能力ってあの、スプーン曲げたりとかそういう?」
「ちっげーよ。おバカな小猿ちゃんは黙っとけ」
「済みません、僕も悟空と同じこと考えました」
「あーその、何つーの。超能力は超能力でも出力系ってンじゃなくて、入力系、なんだな。どっちかってーと」
「……入力系?」
 がさり、と悟浄が鞄――というより最早無秩序な書類入れに成り果てたビニール製のバッグの中から、その論文とやらを取り出した。悟空がそれを摘み上げたが、当然総て英語であるので悟空には読みづらい。
「この論文を書いた教授は、どうも脳内分泌生理学の教授らしいんだが、この人は超能力を二つに分けてるんだ。スプーンを曲げたり触れてないのに物を動かしたりできるような能力を出力系、逆に知りようはずもないことを知りえたり、相手の考えていることを見通せたりするような能力を入力系、とこう区別している」
 三蔵はカシャカシャと値を入力しながらそれを聞いている。如何にも悟浄らしい馬鹿げた話だ。
「出力系の超能力は、云わば自分から何かを放出する、その放出物を見極めることは難しいが、入力系は説明出来る――とこういうんだ」
 悟空が論文を八戒へと手渡す。ざらり、と荒くそれを読んでいた八戒は顔を上げた。
「つまり感受性の有無、ということですか」
「そゆこと」
「ちょっと、オレ判んないんだけど」
 一人話題についていけていない悟空が八戒の裾を引いた。
 八戒は論文をぱさりとデスクに置くと、持ってきた抗生物質の箱を開きながら、
「ええと、悟空は脳内の神経伝達は勉強したんでしたっけ」
「シナプスとか軸索とかランビエ絞輪の話だろ。悲しいとか嬉しいとか、腹減ったとか飯食いたいとか、そういう脳内情報は電気信号で伝達するって言う」
「まあ僕も専門じゃないんで詳しくは知らないですが、大雑把に考えるとそんなモンですね」
 つまり、と取り出したサンプルを注意深く試験管に注いだ。それに先ほど部屋を出る前に準備していたシトクロム分画の液体を混ぜ、細かく振る。
「人間の意志、思考、感情、そういったものは総て、いずれも脳内では電気信号というひとつのフォームに統一されるんです」
 八戒はある程度指先で振った試験管を別の容器に移し替え、それを振動機にセットした。スイッチを入れると、独特のブゥウウンという音が研究室に響き始める。
「その電気信号が、プリンの中に収まらず、胡桃の殻から外に出て行ってしまう、そういうことだって在り得るだろ。実際、脳波は頭蓋骨外の表皮のそのまた外側から測れるってことは、それだけの脳波が漏れ出してるってことなんだ。外に。」 
 悟浄はその論文を再び手にとって、ひらひらとそれをはためかせた。
 まだイマイチ判らない、という顔をしているのは悟空だ。
「でもそれって滅茶苦茶微量なんじゃねえの?」
「微量だろうよ」
 さらりと悟浄は答える。
「だけど、その電気信号には、例えばそのとき考えていることについての情報が詰まっているわけだろ。その電気信号を、情報として受信し、再構築出来る人間がいたとすれば――」
「ああ」
 と悟空はようやく判ったような声を上げた。
「それが『相手の考えてることが判る超能力』?」
「その通りです。その微量の脳波を受信し、かつ再構築出来る人間だけが、『超能力を持った人間』ということになるわけですね。ま、判ろうたって判んない人間も中にはいるんでしょうけれどね」
 八戒は苦笑して、ちらりと一瞬三蔵を見た。視線に気付いた三蔵は眉を顰めたが、すぐに八戒の視線は悟空に戻る。
「じゃあ俺が今ナニ考えてるかっていうのも、電気信号として漏れ出してるかもしんないってことか」
「てめえの場合、食いモンだろ」
「違ぇよ!」
「おー、判り易いこって」
 八戒と同じように試験管をセットし終わった悟浄が、随分前に注いで冷めてしまった珈琲を飲んだ。そして、コーヒーメーカーの近くで熱い珈琲を注いでいた八戒にそのカップを差し出す。お替り、ということらしい。
「でも悟浄、その手の論文は前にも大分あったでしょう」
「それが、この教授はこれで終わりじゃないんだな。人工的な超能力を作ろう――という構造まで打ち出しているんだ」
 口元から指先に戻した煙草の一本をいとおしそうにくるくると回してみせる。
「漏れ出した電気信号を、特殊な受信機で受信し、それを回収して解析する」
「理論は犬猫の声でその感情を解析するのと同じですね」 
「まあそうだな。膨大なデータを取り、感情ひとつ、例えば怒りはこういう信号の波長、喜びはこういう信号の波長、そういうのを細かく調べていけば、漏れ出した電気信号の波長から感情が解析出来る」
「……出来るの?それって、ホントに」 
「さあな」
 悟浄は八戒から珈琲を受け取る。
「出来るんなら、してるだろ」
 つまりはそういうことなのだと哂う。
 確かに、と三蔵はキーボードを追いながら思う。
 幾重にも殻や膜に覆われた器官、人と人以外の動物を人間が分離するに至った原因となる器官は、確かに脆いのだ。
 ひとつ強く打つだけでも簡単にその構造は壊れ、あるいは細い血管のひとつが詰まるだけで人間は簡単に死に直面する。
 より弱いものを護ろうとするのは、動物の中で人だけなのだという。三蔵はそれを知っている。
 動物は自然淘汰の中生き延びるために、強いものを護ろうとする。いや動物が、ではなくこれは、自然が、と言い換える方が合っている。
 そうして進化というものがなされてきた。
 だから本来より弱い器官こそ淘汰されゆくべきだったのだ。けれど人は他のどの器官よりも脳を進化させた。そしてそれこそが恐らく、人の中心、中枢である器官だ。
 弱いものを護ろうとする感情。それをある神の言葉を記した書物は、
 愛情。
 という名で呼んだ。
 だとすれば脳が淘汰されなかったのは己の脳への愛情だとでも言うのだろうか。
 そもそもその感情さえ、生み出したのは脳であるというのに。
 多分、そこに矛盾があるのだ。宗教と科学の。
 宗教は人間自身が脳内に存在する。人間の中で人間というものを捉え、その幸福なり真実なりを追求しようとする。宗教は主観だ。だからその主観を持ち得ない人間にとって、宗教と狂信は紙一重、ということになる。
 科学は人間自身を脳の外に追いやった学問だ。だからこそ究極の客観性が求められる。けれどもその客観が完全かといえばそれは恐らくそうでない。不確定性原理というまことに厄介な原理が発見されてからというもの、常にその客観は疑われている。見るモノが居て、初めて見られるモノが存在出来るのだ。見られるそのモノの存在を認める時点で、見るモノの存在を認めてしまう。
 そのどちらに真理を求めたところで、恐らく手に入らぬに違いない。空が青い、それは真実だと嘯いたところで、只単にそれは人間の目には青く見えるだけで、たとえば犬などから見たら空はうすぼんやりとした灰色に見えるに違いない。そういうものだ。
 見るモノが換わると変わってしまう真理など、多分、真理ではない。
 だから。
 相手の考えていることを知りえる構造など、もしも作りえたとしても何の役に立つのだろうか。ましてや感情など。
 三蔵はそう思って溜息をついた。そして、エンターキーを数回押して、プログラムを立ち上げた。あとはコンピューターが値を処理してくれるのを待てば善い。
 その溜息を見計らっていたわけではないだろうが、しばらく沈黙していた悟空が口を開いた。
「なあ、人の体って電気を通すんだろ?」
 突拍子も無い問いに、反応したのは八戒だったようだ。
「そうですねえ。人間の構成脂質そのものは不導性ですが、体内には電解質が多くありますから」
 感電したら痛いですもんね、とこれまた幼児に応答する保父のような口調で八戒は笑う。
 そしたら、と悟空は真剣な顔で続けた。
「もしかしたら、脳内の電気信号って、指先とかまで伝わってたりするのかな」
「さあ、どうでしょう、でも」
「ありえるんじゃねえの、殻の外へ飛び出してくくらいだから」
 八戒の後をついで、明らかにからかいとしか思えない口調で悟浄が言った。悟空が真面目な顔をするときが、何より悟浄にはからかい甲斐のあるときなのだという。
 そこでいつもなら更に突っ込んで悟空を揶揄し、それに怒った悟空と小さな喧嘩でもするのが常――なのだが。
 続けて言った悟空の言葉に、悟浄は沈黙した。

「じゃあ、指繋いだら、相手のことが判るのかな?」

 それがあまりにも。
 あんまりにも真摯なまなざしの問いだったので。
 悟浄は揶揄の言葉も忘れ、八戒さえもぱちぱちと瞬きをした。
 そして悟空は。
「なあ、三蔵」
 どうしてそれを俺に聞くのか、と。 
 三蔵は深い溜息をつきながら肘をついてこめかみを押さえる。
 たった今自分は宗教の生み出す愛情と科学の真理を否定したばかりだ。
 なのに。
「――俺が知るかよ」 
 彼の指先の感覚は覚えている。

 脆い脳から生まれたどれほど役立たずの感情だとしても、きっと自分がその指先から彼に伝えてしまったものは科学より、宗教よりも。
 もしかすると真理に近かったのかも知れない。
 受け取る側がひとりしかいないという点において。
 

 三蔵はアナライズコンプリートと表示された画面に、エンターキーをひとつ叩きつけた。



 (終)


大学生三空。
後半がありえないくらいにくどくなりました。何故。
自分で書いておいてナンですが、斜め読みするとさっぱり意味が判らない(もしかすると斜め読みしなくても)文章、ですね。
宗教だの科学だの言い出す大学生がいてもそれはそれで嫌だ。
……と思ったらここにいた。沈。
アナライズは分析。インコンプリートは不完全・未完了。

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