ながれゆくもの


 


 世界は多分、闇に近かった。
 それが目を閉じていた為か、あるいは目を開いてもなお世界は暗かったのか、それは曖昧だ。
 ゆるりゆるりと穏やかな流れが身を包んでいる。
 それは冷たいものだ、という認識はまだ無かった。ただ自分のものではない、自分の一部ではないものが存在するのだということを感じた。
 唐突にその流れを肌で意識した――肌、というべきなのか、本当に突然、体中にびりびりと不快が走った。
 恐らく、呼吸が出来なかったのだ。
 己ならざるものによって、己の全身は不快に満たされた。
 そのときにはまだ知らない臓腑――多分、肺臓であろう――に、ごふりとその流れが押し寄せる。
 ごつ、と体の何処かが硬い物にぶつかり、また不快が走る。
 快と不快のみしか感ぜられぬ未熟な感覚器官が悲鳴を上げる。
 流れに揺られ、硬い物に当たり、不快はやがて、それすらも感じることの出来ぬ境地に立ち入ろうとしていた。
 水。
 闇。
 不快。

 


 
 窓を薄く開いて、三蔵は目を細めた。
 いつもの寝室だ。
 外はまだ暗い。
 押し開けた窓硝子は不均一で、三蔵自身も、あるいは部屋の様相も歪んで映し出されている。
 拳ひとつ分ほど開いた窓の隙間からひんやりとした空気がなだれ込んだ。
 風は、多分無い。
 時刻は、床について時二つほど過ぎている。
 何をするでもなく、ふと気付くとこの時間に目覚めてしまった。こういうことは――何年ぶりだろうか。
 喉が酷く渇いていたが、水場に立つのも億劫なので、寝台の傍に置かれた脚付台に置かれた水差しから直接ごくりと水を飲んだ。
 窓硝子に触れると、音を立てないようにそっと広く開いた。
 寺院の一室から見える景色は限られている。無為に高く作られた寺壁。その上の幾許かの夜景すらも、樹木の茂みに隠れ、つまりは。
 闇。
 暗い、と認識すら出来ぬ程の闇だ。
 懐から煙草を一本取り出して火を付ける。ジジッと微かな音。
「三蔵」 
 突然自分の名前を呼ばれて、三蔵は部屋の中を振り向いた。
 明かりが無いという点では確かに部屋の中も闇なのだが、ひとつ人影が寝台に起き上がっているのを見とめた。
 少年というには逞しく、青年というにはしなやかなその体躯。
 指先に挟んだ煙草をそのままで、
「……悟空」 
 と呼ぶと、その影がするりと動いた。
 昨日の行為のまま、流石に裸で床に下りるのは躊躇われたのだろう、脱ぎ散らかした衣服の中から三蔵が纏っているのと同じ白い寝着を羽織り、辛うじて前を合わせてから、童顔の青年は床に足をつけた。
 ひたり、と三蔵に近づく。
 近づくと、髪の長さまで容易に判った。鎖骨の下まで無造作に毛先が跳ねているのは、昨日、行為の最中に三蔵が髪留めの紐を解き放って、そのままだからだ。
 半歩程に近づいたところで、三蔵は指を伸ばしてその毛先に触れた。
「起きてたのか」 
「うん」
「いつから」
「……三蔵が起きる前から」
 三蔵は少し眉を顰めた。
 寝台から身を起こすとき、悟空はすうすうと寝息を立てていたように思ったのだ。
 けれども、確かに悟空の寝起きはこれほどまでに善くは無い。というよりも、悟空がこんな夜中に目を覚ますこと自体が珍しいのだ。
「どうした」
「……うん」
「言えよ」
 促すと、悟空がじっと三蔵を見上げた。
 その色は、今はよく判らない。この闇の中では総てが一色だ。判るのは色の濃淡のみ。夜の中では、人も獣も妖怪も、ただ一つの水墨と成り果てる。
「三蔵が、」
「ああ?」
「……うなされてたから」
 ぽつり、と呟かれた言葉に、三蔵は目を細めて、逸らした。 
 逃げるように煙草を吸う。
 指先を離して。
「悪い夢でも見てンのかなって」
「……見るわけねえだろ」
「でも」
 悟空が僅かに首を傾げる。そこでぷつんと言葉が途切れた。
 三蔵は窓枠で数回灰を落とし、窓の傍の壁に体を預けた。
 指先の煙草だけが赤い。
 色を持っているのは、それだけだ。
 光の中で光は意識されない。闇の中でこそ光は認識される。
 煙草の火というそれ自体は変化しないのに、外界の様子は実に簡単に見る者を左右する。
「去年も、そうだったろ」 
 悟空が、言い難そうに言った。
 三蔵は応えない。
「一昨年も、その前も、その前も」
「何で知ってる」 
「起きてたからだよ」
「嘘ついてんじゃねえよ。猿がこんな夜中に起きていられるか」
「……三蔵」
 三蔵の雑言に一つ息をついて、悟空は窓枠に手を置いた。

「毎年見てるんだろ、生まれたときの夢を」

 ひゅっと三蔵の息が止まった。
 それを見抜かれぬようにふうと吐き出す。
「何で」 
 そう思うのか、と問いたかったのだが、悟空の唇が動く方が早かった。
「いっつも咽て、目ェ覚ますだろ。――だから」
 それくらい判るよ、と悟空は窓の外の闇を見つめた。
 三蔵は川に流されて拾われた。
 悟空に話しているのはそれくらいの簡単なものだったから、まさか気付かれているとは思わなかった。
「それに旅が終わってからずっと、この日が来るたびに、そうだから」
 この日。霜月もあと幾日かで終わりという十一月二十九日。
 いつもより幾分低い声で悟空は呟くと、三蔵を再び見つめる。
 その視線は真っ直ぐだ。彼と出会ってから十五年、その視線の強さが変わったことは一度も無い。 
「生まれた日って、俺にはよく判んねえけどさ」 
 そう言って、悟空はがしがしと頭を掻いた。
 彼は、岩から生まれた大聖、なのだという。未だに三蔵は信じられない。
 だからこそ彼の生まれた日など知る者はいない。ただ、三蔵が彼を拾った日は毎年祝うようにしている。している、というか街はずれのお節介が二人、何の約束も無いのに料理と酒を持って押しかける。
 それを言うならば自分もきっと似たようなものなのだろう。日付が変わる直前、何かにつけて饗宴を設けたがるその二人組みは帰って行った。宴そのものは変わらない。祝う対象が変わるだけだ。そして悟空以外の三人の誰が対象であったとしても、大抵その対象は無視される。要は楽しければ善いのだ、と笑う。
 祝う、ものなのだろうか、と三蔵は思う。
 人が生まれるというのは、それほどまでに祝福すべきことなのだろうか。
 三蔵はじりじりと灰になってゆく指の間の煙草を思い出し、指先で灰を振る。隠れていた赤色がすぐに目前に晒された。
 その赤は、指先で揉み消せばあっと言う間に無くなってしまう。
 あるいは、目を閉じれば見えなくなってしまう。
 見えなくなっても、認識だけは残っている。
 軽く一息ついた。
「……別に、この日だからってわけじゃねえだろうよ」
 三蔵は、自分でも思ったより穏やかな声だと思った。
 ゆったりと、肩の力を抜くように煙草を吸って、吐く。
「重すぎるんだろう、俺にはな」
 何が、と。
 悟空は問わなかった。
 するりと今は色を失っている筈の金色の瞳が、部屋の奥の棚を見る。三蔵は眠るとき、いつもそこに経文を仕舞うのだ。
 旅を終えたとき、三蔵の双肩に掛かっていた経文の数は二つ増えていた。
 聖天経文。無天経文。
 牛魔王蘇生に用いられた二つの経文。そして、三蔵が師匠から受け継いだ魔天経文。
 単に物理的な重さではないのだ、と三蔵にも判っている。
 ただ、ひとりの三蔵法師が三つもの経典を持ち続けるのは、決して容易なことではない。
「弱音だね」
「事実だ」
 そう呟くと、悟空があと一歩三蔵に歩み寄った。
 そして、とさり、と三蔵の肩に凭れ掛かる。
 背丈は三蔵より指四本ばかり低い。
 拾ったばかりの頃、悟空は三蔵の腰によくしがみ付いたものだった。それがいつしか腕に変わり、胸に、そして今は、肩に頭が乗せられるくらいの背丈になった。
 伸びた悟空の髪がさらりと三蔵の首筋に触れて、三蔵は目を細めた。
「だから、明後日、俺を入堂させるんだろう?」
 昔に比べると、少し低くなった悟空の声が耳をくすぐる。一番耳に馴染んだ声だ。
 入堂、とはつまり、この寺院に、三蔵の弟子として勤めを請願する、一種の儀式だ。本来ならば入門式から始めるのが道理だが、既にこの寺院に住んで十五年、とうに悟空は入堂前の入門生、いわゆる「暫到」として認められていた。
 何より、事実上のこの寺院の権力者である三蔵がそう言うのだから反対をする者はいない。
「さて、てめえに旦過詰めなんてモンが勤まったらの話だがな」
「要は気合だろ、気合」
「どうだか」
 旦過詰めとは、入堂を請願する者が、三日三晩、飲まず食わずで座禅を組むことである。その間、目を開くことも声を漏らすことも赦されない。
 そういった形式上の儀式を、三蔵は好む方ではない。だが――ある程度の規則に則った上で得られるものも存在することをまた知っている。
 そうして、自分は、この名を受け取ったのだ。
 三蔵は、経文の入った棚を見つめた。
 聖天経文。それを手に入れてから頻繁に見るようになった夢。
 どんなに苦しくても、あの時自分は生まれたのだと思う。確かに。
 不快を感じた瞬間、自分は確かに生きていた。
 それから光明三蔵法師が自分を川底から拾い上げなければ、飽くまで過去形であったろう生命。
 流れゆくのだ、と三蔵は思った。
 川の水が。
 月日が。
 過去形でなくなった命が。
 そして受け継がれるこの肩の重みまでもが。
 どうどうと重く激しい音を立てて、目には見えない速度で流れてゆく。
 三蔵は役立たずになった煙草を灰皿に押し付けた。
 そうすると、紅い光は消えた。
 それでもやはり、見えなくなっても、その認識は残っていた。
 その紅を見た、という認識。記憶。
 それは、人と同じなのかもしれない、と思う。
 人が生まれてから死ぬまで僅か幾十年。
 その余りに短い万人の人生を、ただ蓮の池の傍で見ている菩薩は、笑うのだという。
 一つ瞬きする間に人は老い、二つ瞬きすると骨になり、三つ瞬きする間にはその骨すら消えて何も残らない。真実かどうか三蔵は知らないが、きっとそれほどに短いものなのだろうと思う。
 今、三蔵の目の前には悟空がいる。暗闇の中で、首筋に触れる悟空の頬の温もり。感触。
 それがいつか――本当にいつか、触れられない場所に離れてしまったとしても、この温もりの記憶だけはあるのだろう、と思った。
 人は曖昧なものだ。
 記憶は人に付随するのではない。
 だから自分がいつが自分でなくなっても、多分、この記憶は無くならないだろう。

 唯だ在るのは、この記憶。意識。――これだけが流れゆかぬもの。

「悟空」
 呼ぶと、悟空が埋めた首元から顔を上げた。
「何」 
 髪を梳こうと手を伸ばすと、金鈷に触れた。
 悟空は、決して人間ではない。
 それを誰よりも三蔵が知っている。それなのに――。
 自分はその小さな双肩に、自分の重みを継がせようとしている。
 そして自分の記憶を。
 下らないひとりの男の記憶がいつまでも悟空にあればいい、と無条件に願っている自分がいる。
 する、と逃げかけたひと束の髪の毛で、やんわりと悟空の頭を引き寄せた。
「三蔵」
 僅か足らない身長。
 悟空は三蔵の首に腕を回して、口付ける。
「俺はね」
 口付けの隙間に悟空が言う。
「多分、三蔵が生まれるずっとずっと前から、あの場所にいたんだ」
 数度目に触れた唇が熱を持った。
 三蔵は悟空の髪の毛の、その滑らかな心地をもてあそびながら、体を強く引き寄せる。
「だから、三蔵が生まれたことも、俺を見つけたことも、全部」
 悟空の言葉は途切れるように三蔵の口付けに飲み込まれる。
 三蔵は悟空の体ごと、ゆっくりと寝台に倒れこんだ。
「偶然なんだとしても」
 馴染んだ声。
 馴染んだ温もり。
 悟空の。
 それが無いと自分は生きてゆけないのだと。
 そう気付いたのはどれくらい昔のことだったのだろうか。
「俺は、その偶然に感謝するよ」
 悟空が笑う。
 見えないけれど、確かに笑んだ。
 三蔵の息が止まる。
 何か、渦のような激しいものが心臓から飛び出して、全身の隅々まで流れていくのが判った。
 三蔵はそれをゆっくりと吐き出しながら、先ほどの悟空のように、組み敷いた悟空の首筋に額を当てた。
 指先にまでその流れがたどり着いて、三蔵はそれを悟る。

 これを多分、いとしい、と言うのだ。

 体温を絡ませる。
 互いの熱を絡ませる。
 何度目かの口付けの瞬間に、呟くように悟空は唇を開く。
 喉からの声を殺して、吐息で名を呼ぶ。
 まるで木々の葉擦れのようなささやかな声で。
 不意に視線が交わり、悟空が三蔵に何か言いたげに瞬きをした。
 三蔵は、悟空が何を言うか判ったので、判ったからこそ言わせたくなくて、親指で悟空の唇を押さえる。
 それは悟空でなく、自分が。
 言うべき言葉だと思った。

「愛してる」

 それは、彼と生きて十五年目で初めて口に出来た言葉だと、三蔵は気付かれないように激しい口付けをした。


 (終)


とにかく「唯識論」が書きたくて中途半端に固くなってしまったお話。悟空ご入堂。
きっと玄奘三蔵はこんな感じで唯識論を編み出し、それを弟子(悟空)が継いだのだと(勝手に)思ってます。
本当は悟空が法名を授かるところも書きたかったのですが、勝手に話が甘い方向に進んで書き切れませんでした。
タイトルを一緒に悩んでくれた夜姉に捧げます。

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