来ない、と思うほど相手は来ない。
 待ち合わせというのは、そういうものだ。

 悟空は煙草屋の軒下にしゃがみこんで空を見ている。
 暗いなあ。
 見上げると、地面を見下ろしているときには気付かなかった雨粒が目の前を通り過ぎる。
 飲み込まれてしまいそうなほどに近づいた灰色の雲は、ごふりごふりとゆっくりと音を立てながら動いていくようで。
 雨がぽたり、それは自身の歪みに耐え切れなくなった雲の一部が削り取られながら落ちてくるようだ、とぼんやり思う。
 そう思うと、何となく見過ごしてきた雨粒のひとつひとつに目が行ってしまい、軒から手を伸ばしてそれを受け止める。ひとつ、ふたつ、みっつ。
 いくつそれを受け止めたら、来るだろう、と思いながら、きょろきょろと辺りを見回す。雨の街、人影はどこにもない。
(まだかなあ)
 待ち合わせは得意ではない。
 大体は遅れてくる相手にそう言うと、いつも目を細め、あれだけ待っていたくせに、と彼は言う。
 誰かを待っている、なんて、そんな感覚はなかったあの頃。
 鉄格子。その向こう。乾いた地面。そして闇。
 待つ、という動作を知ったのは、その場所から三蔵に導かれ、その後のことだった。
 待たすひとがいなければ、待つことは出来ない。そんなアタリマエのことを学んだ。
(別に待つのは嫌じゃないけど)
(でも)
 雨が軒下にも降り込み、地面の乾いている部分が段々と覆われていく。
 袖の短い服が、こういうときは不便だ。雨は熱もぬくもりも奪っていくから。寒い、と正直に思う。
 もう一度通りを見回した。食事の後、ここで待っていろ、と言われたのはもう小一時間も前のことになるだろうか。
 食事を中座した三蔵は、銃弾の補充の為に武器を扱う店に向かったらしかった。
 悟浄と八戒は、既に食事を終えて自分達の家へと戻って行った。
 悟空は三蔵がいなければ、帰る場所だって、ない。
(早く来ないかなあ)
 ぽつ、ぽつ、と降っていた雨は、いつの間にかサァッという連続音に変わっていた。
 鬱陶しくなってかきあげた前髪がしっとりと湿っている。意外に雨に濡れていることに気付いて服に触れてみたが、遅かった。水分を含んだシャツはぴたりと肌に張り付いて気持ちが悪い。空をぼうっと見上げているせいで気付かなかったのだ。
「うー」
 唸ってみても状況は変わらない。
 空は相変わらず暗い。
 抱える膝も冷たい。
 腕で膝を抱え直し、額を膝小僧に当てる。そうすると、じんわりと伝わってくる。自分の体温だけが。

 

 

「おい!」
 体を揺り動かされて悟空はハッとした。
 それが覚醒だと気付いたのは、その一瞬後。
「……ぁ」
 どうやら膝を抱えたまま、うとうとしていたらしい。どのくらいの間、うたたねしていたのだろうか。脛から下は、軒下を飛び越えて降り込んで来る雨でびしょ濡れだった。
 自分の腕を掴んでいた指を離すと、冷えたそれがぎこちなく動くのが判った。ぎぎいっと音でも立てそうにぎこちなく。
 血の気を失った手の平を、自分のものではないものを見るような目つきで見た後、悟空と同じ目線にまで腰を落としている三蔵を見遣る。
「……三蔵」
「こんなところで何寝てんだ、馬鹿猿」 
 見れば三蔵も、法衣の肩が濡れている。
 辛うじて腕に提げた袋だけは濡れないようにしっかりと包装されているようだった。
 三蔵は傘を持っていたはずだけれど、と傍を見ると、三蔵のニ、三歩背後に放り出された唐傘が見える。
 それを見止めた途端、ぐい、と三蔵の手が悟空の顎を正面に向かせる。自分だって十分冷えている筈だったのに、その指先を冷たいと思うから不思議だ。
 その仕草。それから、いつもの不機嫌に剣呑を含んだ目。
 怒っているのだ、というのが雰囲気でびりびりと伝わってくる。
 何だよ、とふつふつと怒りが伝染する。
「三蔵が待ってろって言ったんじゃん」
「だからって濡れろとは言ってねえ」
「しょうがねえじゃん、雨降って来て、オレ、傘も持ってなかったし」
 唇を尖らせて顔を背ける。そうすると、まだ自分の肩を掴んだままだった三蔵の手の平が目に入った。
 起こすために揺り動かしたのだろう、手の平。
 濡れた生地越しにぬくもりが伝わる。顎に触れている片方の手は確かに冷たいと思ったのに。
 あたたかい手が、つめたい手と入れ替わるように悟空の頬に触れる。
 この手は銃弾を提げていた手だろうか。
 それとも、濡らさぬようにと傘を持っていた手だろうか。
「つめてえ」 
 三蔵はぼそりと呟いて、ぐいっと悟空の腕を握り、立ち上がらせた。突然のことに、座りっぱなしの足ががくがくと震える。
「……ってぇ」
「お前、変温動物だろ」
「何だよ、ヘンオンドウブツって」
 三蔵に体重を預けるように背筋を伸ばすと、ちょうど額を三蔵の胸に押し当てる形になった。
(あったかいなあ) 
 いつもは自分より低い体温が、今日は何だかとてもあたたかい。
 ふと、三蔵が提げている袋がカサリとシャツに触れた。
「買えた?」
 と見上げると、三蔵は目を片目だけ細めた。
「いや。売り切れだった」
「へ、じゃあ、何買ってたの」
 そう言うと、三蔵は悟空を胸に抱きとめたまま、ごそごそと袋の中から何かを取り出し、それを自分の口の中に含んだ。
 そして、ちょいちょいと人差し指で招くので、悟空はよく判らないまま顔を近づけた。
 不意に乱暴な仕草で髪の毛に手の平が差し入れられる。
 あ、と思うより早く目を閉じた。
 引き寄せられる。
 ぬくもり。
 するり、と唇の中に入ってきたものを無抵抗に受け止めると、三蔵はすぐに唇を離した。
 煙草の香りが離れて、いち、に、さん。
(……ぁ)
「あま……」
 口の中でぐるぐると巡っているのが、指先ほどの大きさの飴玉だ、と判るまでにそうは掛からなかった。
「好きだろう、お前」
 三蔵はそう言うと、悟空の視線を避けるように唐傘を拾う。
 ばさり、ばさり。雨を払って、空に掲げる。
 その背中を見ながらようやく悟空は気付き始めた。
 こんな雨の降る日に三蔵が銃弾を買いに出かけた理由。
 いつもは店に連れて行く悟空をわざわざここで待たせていた理由。
 ひとつの手があたたかく、ひとつの手が冷たかった理由。
 少しも濡れていない紙袋。
「帰るぞ」
 うん、と頷きながら悟空は三蔵の手の平を掴んだ。
 さっきまできっと紙袋を提げていた筈のあたたかな手の平。
 すぐに一緒になってしまえたらいいのに、と悟空は思う。
 自分の体温。
 三蔵の体温。

 口の中のあまやかな飴玉より、ほんとうは隣で握る不器用なこの手の平のほうがすきなのだと言ったら、彼は怒るだろうか。
 それとも。




「あ」 雨、飴玉、甘い、あたたかい。