空に細い疵が走った。
 夜空。冬の薄らいだ暗闇に、一筋、ぱきりと割れたような疵。
 光だ、と気付くまでにさほどの時間は要さない。
 何の光だろう、と思う暇もなく、つうっとその光は空を割り裂き、数秒後に音もなく立ち消えた。既視感が心を襲う。
 瞬くと、光の残した残像が眼を灼く。
 そこで遅まきながら、ああ、と気付く。
(流れ星)
 星が流れるわけでもないのにそう名付けられた現象に、ひそりと息を吐く。
 白く舞い上がる吐息に視界が溶け、溶けたかと思うと周囲の温度の低さがその視界を晴らす。
 吐息が消えていくのを視線で追いかけながら、何か願い事をすれば良かったかな、と今更に思う。
 裸の指先に息を吐きかける。防寒用のコートを被っていないせいか、肘から指先までがじんじんと冷たい。
 宿屋の壁に凭れ、庇から外れた空を見る。
 部屋の中には各自個室のとれた他の三人が睡眠をとっているだろう。
 この時間帯に悟空が寝台の中に居ないのは珍しい。珍しい、と悟空は自分でも思う。
 今日だって妖怪と一戦繰り広げ、体が疲れていない筈は無いのに。
 掌を、握る、再び開く。
 呼び出せばいつだってその場所には如意棒が現れる。戦うために、体の一部が如意棒に変化する、と言い換えてもおかしくない。
 戯れに呼び出してみようか、と思いついて、手を握ったところでふと気付いた。
 煙草の匂い。
 落としていた視線を上げると、視界に入るギリギリの境界、同じように壁に凭れて空を眺める存在がひとつ、あった。
 それからゆらりと煙が空へ立ち昇る。
 吐息と違って決して消えゆかぬ白さ。
「……三蔵」
 呼んだ。呼んでから、いつの間に、と思った。
 自分が部屋から出た時、人の気配なんて無かった筈なのに。
 流れ星から視線を落とした一瞬の間、それともそれよりも前から?
 離れているのも不自然な気がして歩み寄る。
 じゃり、と夜空の暗闇を遮る足音が、触れる空気の冷たさを思い知らせる。
「何してんの」
 手の届くほどの距離で尋ねると、そこで漸く三蔵は悟空に気付いた、というように片眉を上げて見せる。
「……こんな夜中に?」
 煙草を咥えながら器用に問いかけを返され、悟空は言葉に詰まった。
 それは自分の方だ、とたったその一言で気付かされて。
「俺は、ただ――寝らんなくて」
「……ほう」
 別に聞いちゃいないがな、とでも言いたげな緩慢な口調で三蔵は答える。
 咥えた煙草の先だけがじわりと赤い。
 悟空は視線を落とし、三蔵に倣って再び壁に凭れた。
 身長差で、肩先は触れない。
「体ん中がめちゃくちゃ熱くて――なのにすっげ冷たくて……わかんない、ぞくぞくする。身体の中から熱抜かれてく感じがする。寒い、とかじゃなくて。眼が冴えて」
 言い訳をしようとした筈なのに、思ったよりもするすると言葉が零れた。
 眠りにつこうとすればするほど、体が疲れていく感覚に襲われるのだ。まるで寝台に身体を吸い込まれそうに、意志とは関係なく熱が奪われていく――それは寝台よりもっと下にあるものにそうされている気がして、何度横になっても眠りにつけなかったのだ。
 それなのに熱い。何処が、とは判らない。身体の中が。灼けつくように熱く、きしきしと響く。
 病気である、という感じはしなかった。体調の悪い時に感じる気だるさは微塵も覚えない。
 病気でないなら――
 悟空の脳裏に一抹の不安が過ぎる。
「なあ、三蔵、俺、もしかして――」
「心配するな」
 三蔵が無愛想に悟空の言葉を遮った。
 表情を止めた悟空に、三蔵が続けて言う。
 ゆるり、と紫の瞳。
「その時は、殺してやる」
 そう言っただろう。
 三蔵の言葉にならない声に、悟空の眼が見開かれる。
 悟られていたか。自分の思考など。
 力が抜け、どさり、と頭ごと壁に預ける。
 掌の冷たさなど判らない。
 この掌に如意棒を呼び出すたび――自分の本質は生き物よりむしろそれに近いのではないかと思ってしまう。
 物ではないもの。
 理性を失って本能で生きる今の妖怪達。
(いつ、そうなってもおかしくない)
 不安がないわけではないのだ。いつだって。
 自分だけは狂わないという、確固たる自信があるわけではない。
 額の金鈷に手の甲で触れる。
 この金鈷が外れれば、多分、生という本能が優先される。如意棒が悟空の意志に従い、大気の温度が太陽のぬくもりに従い、この星に降るひとかけらの石が、空の遥か彼方で物理の法則に従うように。
 本能で忠実であることを、狂う、とこの世界の一部では名づけられ、
 己を本能に従わせないもの、それが、人、と定義される。
 人か、否か。それは。
(その手段を持つかどうか)
 おぼろげながらに悟空にはそれが判っていた。はっきりとではないけれど。
 本能に従わないための手段。理性、感情、体裁、常識――それらは時に非常に本能に近い。
 経験したことはある。
 この金鈷が外れた時、自分を抑えていたものが弾けとび、それを凌駕する衝動が内側からこみ上げてくるのを感じた。
 もしかしたらその瞬間の衝動は、小銃の引き金を引くような、たったあっけない、それだけの動作なのかもしれない。
 それでもそれで自分は人でなくなるのだ。
 金鈷に触れた掌に、別の掌が重なる。
 同じ冷たさの。
(そうだ)
 この掌の温もりが失われた時、総ての理性が消えた。
 喪う、という恐怖の前に。
 それなのに――
 理性をなくした掌は、この存在までをも殺そうとしたのだ。
「お前が」
 悟空から夜空を隠した三蔵の体躯から、声が零れ落ちる。
「俺を殺すときは」
 低く掠れた囁きが舞う。
 瞬時、煙草の
 味。

「俺が、お前を、殺すから」
 
 触れる法衣。
 引き寄せる、冷たい感触に、悟空は縋る。
 もう熱を引きずり去られるような感覚は無かったけれど。
 布越しの体温を感じるより先に、肩越しで眼を閉じた悟空は、ようやく気付く。

 金鈷より己を左右するものの存在。
 己を本能に従わせず、あるいは本能に従わしめる存在。
 暗闇を割り裂いた光の疵。
 それは暗い牢獄の格子越しに伸ばされた、
(ああ)
 先刻感じた既視感、あれは、この存在そのものだったのだ、と気付いて、苦笑が零れた。








「そ」 存在