サクラ咲く




 はらり、と舞い降りる桜の花びらを見ていた。
 白いそれが青い空を舞い、ゆっくりと自分の方へと向かってくる。
 そこで初めて――ようやく、自分は倒れているのだ、と知った。
 起き上がろうとするが力が入らない。それでも指の一本を持ち上げようとすれば、ちゃぷん、と指は何か熱い液体に触れた。
 ひたひたと背を伝う熱い液体は、すぐに冷めていくようで、まるでぬるま湯にでも浸かっている気分だった。
 目の前がぼやけている。
 目を何度か瞬くと、真上で何か――小さな生き物が必死に自分を覗き込んでいた。
 茶色の毛をした、獰猛な、けれども小さな小さな――金目の生き物。
 自分はその名を呼ぼうとした。
 だが、声となるより早く、内臓の奥から込み上げた液体が、唇を零れた。
 そしてそれで、目の前の生き物が少し赤く汚れる。
 ああ、これは自分の血なのだと、その時金蝉は悟った。
 何だ、俺だって血が赤いじゃないか――とぼんやりと思った。
 見上げると、大振りの桜の木は重たそうに花を咲かせ、それが自分へと舞い降りているのだった。
 ぽた、と何かが頬を伝った。
 小さな生き物が肩を小刻みに震わせていた。
 その額に、見慣れた金色のものは――無い。
 ああ、壊れてしまったのだと思い出した。
 彼の金鈷が壊れて、それで、それで――
 それで、自分は死ぬのだ。
 もうすぐ死ぬのだ。
 それは酷く哀しいことであるはずだったが、金蝉の口元には静かな笑みさえ浮かんだ。
 ああ、善かったと心のどこかで安堵してさえいた。
 自分は、唯無為な存在では無かった。
 誰かの為に生き――誰かの為に死ぬことが出来る。
 はらり、と花びらの一枚が頬に触れた。
 その花びらに、ぽたりぽたりと彼の涙が落ちる。
 そんなに、悲しまないで欲しいのだ。
 死ぬことは、自分にとって決して哀しいことではないのだから。
 金蝉は何とか手のひらを持ち上げた。
 びくり、と小さな生き物は反応する。
 霞んでほとんど見えなくなった金蝉の目に、ぽたりと雫は滴り落ち、余計に視界は白くなった。
 何か、喋っている。けれども、何を喋っているのか分からない。
 既に耳は聞こえなかった。
 だからその頬に触れた。冷たかった。
 何やってんだ、こんなに冷えてンじゃねえか、さっさと風呂入って服を着替えて――と金蝉は言いかけ、血を吐き、そしてそれがもう叶わない言葉であると気付き、ハッとした。
 もう、明日からは、彼とは共に居られないのだ。
 そう気付くと、先ほど安堵した心のどこかに、ぴしりとヒビが入った気がした。
 もう二度と、傍には居られないのだ。
 共に眠ることも、共に笑い合うことも出来ないのだ。
 なぜなら、自分は死んでしまうのだから。
 がちがちと歯の奥が震えるような恐怖が金蝉を襲った。
 それでも自分は死ぬのだ。
 彼ひとりを遺して。
 先ほどから彼の目から滴り落ちている雫の意味を、金蝉はようやく理解した。
 この寂しがりやで獰猛な動物を、自分はひとり置いて逝くのだ。
 心配するな、と言いたかった。
 どうしてそんな言葉が思いついたのかはわからない。自分がいなくなってしまえば彼がどうなるかなんて、金蝉自身でも想像がつかなかったのに。
 それでも言いたかった。
 けれども、それも言葉にならなかった。
 頬に触れた手のひらで、涙を拭ってやったが、収まらなかった。
 だから、待っていろ、と呟いた。
 呟いたつもりだった。
 言葉になっていたかどうかは知らない。

 いつか、
 いつかまた桜が咲く場所で、
 お前が走り回るのを見たり、
 枝が折れて花びらにまみれたり、
 俺の何てことはない仕草にお前が笑ったり、
 ――ああ、何だって善い。
 
 どんな姿になっても、お前が必要とするときは、傍にいよう。
 
 金蝉は霞みゆく意識の中で、ただひたすらにそれだけを思った。
 そしてその目は薄く開いたまま、ぱたりと頬に添っていた手のひらが、落ちた。

 その手のひらの上にも、はらりと桜の花びらは舞い降りた。

(続)


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