今夜、月の見える丘に。
Sanzo x Goku >>Sweet


 

たとえば、どうにかしてお前の中に入っていって。
 ……その目から俺をのぞいたら。

 

 ――遅い。
 時計の針は、夜を指していた。
 目を走らせた窓の向こうは既に暗い。夕暮れと呼ばれる時間はとっくの昔に過ぎてしまっている。一欠片の太陽の光さえもなく、小さな星以外、闇色を遮るものは何もない。
 三蔵は窓の外に目を凝らした。月くらいは出ているだろうと思ったが、生憎立地条件が悪いらしい。三蔵の執務室からは月の光さえも見えない。それよりもむしろ、鏡のようになってしまった夜の窓に不機嫌そうに映っている自分の姿が気に入らない。三蔵は少し苛立ちながら手にしていた筆を置いた。部屋全体が沈黙してしまったように、カタリとその音だけが響く。耳に痛いくらいの静けさだ。それは余計に三蔵を苛立たせた。
 その理由はわかっている。いつもこの部屋で騒々しさを生み出している小猿が、今日に限っていないのだ。
 勿論、三蔵が決めた門限の時間はとうに過ぎている。いつものように、遊びに行ってくるからと昼過ぎに寺院を出て、夕飯の時間さえ過ぎてしまったというのに、未だ帰ってこないのである。
「あのバカ猿が……」
 三蔵は窓の外に向かって小さく悪態をついた。
 三蔵は、他者に振り回されることを極端に嫌う男である。自分以外の事物が原因で自分の行動が制限されたり決定されたりすることがあると、容赦なくそれを排除する。それは社会的、地位的な意味だけではない。それを証明するがごとく、彼の聖職者を示す法衣の下にはいつだって愛用の銃さえ携えられているのだ。
 だがその三蔵が、馬鹿だと認めつつも排除しないでいる一人の少年がいる。毎朝毎晩、ことあるごとに振り回されていることをおそらく本人も自覚しているであろうに、三蔵の傍にいることを唯一許容されている――つまりは三蔵が決して傍から離したがらない少年が、つまりは悟空という名前の小猿だった。
 その悟空が夕飯の時間をゆうに過ぎても帰ってこないとあらば、保護者としては――あるいはそれを傍に置くものとしては気にならざるを得ない。
 ちらりと三蔵はもう一度窓を見た。さっきより眉間の皺を一つ増やした自分の姿が、相変わらず不機嫌そうに映っている。どうして不機嫌になってしまうのか、理由は決して考えないけれど。しかし先ほどからちっとも仕事が進んでいないのも確かだった。
「チッ……」
 三蔵は小さく舌打ちすると、椅子を軋ませて立ち上がった。


「バカ猿が……」
 月の見える丘だった。
 満月の光は明るい。寺院の部屋の中では一欠片も感じられなかったその明るみが、今や三蔵の目の前に広がっている。
 寺院近くの小さな丘である。三蔵は悟空を探しに寺院を出てすぐ、白やかに照らされた岩の傍で一人の少年が岩にもたれて眠っているのを見つけたのだ。
 伸ばされた茶色の髪が、吹く風にふわりと揺れる。今は閉じられていて見えないけれど、その瞼が上がれば、鮮やかな金色の瞳が見えることだろう。
 言うまでもなく、その少年は悟空だった。
 今日は五月にしては暖かく気候もいい。おまけに丘には穏やかな風も吹いている。ここまで遊びに来たのはいいが、遊び疲れて眠ってしまったのだろうか。あるいはこの月の光にささやかな眠りを誘われたのかもしれない。三蔵はそんなことを思いつつ、溜息をついた。
 ――おい、起きろ。
 そう言って悟空を蹴り起こそうとした三蔵は、悟空の頬に見慣れないものがあるのに気付いて動きを止めた。腰をかがめて、確かめるようにそれに見入る。見間違いかと思ったが、そうではないらしい。
 ――涙の痕だった。
 両目から一筋ずつ、まだ乾ききってはいない。泣き寝入りをしたのか、あるいは悪い夢でも見たのか。小さな顎に手を当てると、伝った雫がこぼれて指に落ちた。三蔵は慌てたように腰を下ろし、改めて悟空の表情を見る。
 ――なぜ?
 別に涙が苦手なわけではなかった。それは自覚している。それでも、それはあまりにも見慣れない、彼には似合わないものだった。だから手のひらを伝う滴に一瞬息が止まりそうになった。
 ……初めて見る、悟空の涙。
 三蔵は呆然と、そのまま悟空の顔を見つめた。
『三蔵ッ!』
 はじけるような笑顔。いつだって曇らない声。笑顔。その瞳。その裏に一体何があるのかなど、三蔵は考えたこともなかった。馬鹿だから。だから笑っているのだと。泣くことも悲しむことも無いのだと、勝手に思い込んでいた。
 それがどうだ。三蔵はほぞを噛んだ。
 悟空を手元に置き始めて、もう三年は経っただろうか。三年だ。それだけの間傍に傍に置いて、まるで我が物のような顔をしておいて、その実何も悟空のことなど判っていなかったのだ。こんなところでこんなふうに泣いている悟空の姿など想像したこともなかった。何か泣くようなことでもあったのかなど、考えたこともなかった。
 思えば悟空は岩牢の中に閉じ込められていたのである。過去に想像もつかぬような大きな不祥事をしでかしたのだろう。その過去について悟空は語らない。知らないのかもしれない。思い出したくないのかもしれない。……そんなことを、自分は考えたことがあったか。三蔵は自問した。
 そっと頬に再び触れる。泣きじゃくったのだろうか、僅かに瞼が腫れている。
 そういえば、と三蔵は思い出した。以前にもこうして帰りが遅くなったことがあった。あの時は部屋で待っていた三蔵に、「ごめん」と悟空は笑って謝った。いつもと何も違わない笑顔だった。悪びれのない笑顔だったから、三蔵は逆に毒気を抜かれてしまった。そしていつものように、お決まりのハリセンを鳴らした。それでおしまい。あとは、いつものように風呂に入れて寝た。
……あの時、ほんの少しだけ目が赤くは無かったか。
 三蔵は思わず口元に手を当てた。
 ――まさか。
あの時もここで泣いていたのだろうか。
 三蔵は、ふうっと全身から力が抜けていくように思った。そんなことなどちっとも気に留めなかったのだ。馬鹿猿がまた馬鹿をやったのだと、それくらいの認識くらいしかなかった。笑って謝るものだから、それ以上言及することも忘れてしまった。どうして遅くなったのかということを。
 けれどそうだ、あの時確かに服は冷たかった。ふと触れた頬も冷たかった。どうして気付かなかったのだろう。
「……チッ――」 
 ジャリ、と足元の砂が鳴る。足元に生えた草は僅かに濡れ、その冷たさは三蔵の足元をくすぐる。
 ――どうして言わねぇんだ、コイツは。
 三蔵はやりきれなさの切先を悟空に向けた。その悟空は、すやすやと穏やかに眠っている。
悟空は、痛いこともつらいことも滅多に口にしない。怪我をしても無言で立ち上がるし、たとえ寺院の僧に厳しいことを言われてもケロリとした表情をしている。それは、食べることと遊ぶこと以外、あまり執着しないせいだと思っていたのだ。
しかし、もしかしたら悟空は知っているのかもしれない。痛いこともつらいことも、知っているのかもしれない。知っていて、けれどそれは自分のものであり、結局のところ自分でどうにかするしかないと――知っているのかも知れない。だから痛くてもつらくても、決して誰でも頼らないし、縋らないのかもしれない。
 ……それは、十三歳の少年の所作にはふさわしくない。
 少しくらいは、と三蔵は思う。誰にも決して言わないことだ。ただ、転んでも誰に助けを求めるでもなく立ち上がろうとする姿や、明らかに僧達に苛められているにも関わらず、決してそのことを三蔵には言わず、自分の前ではにこやかに笑う悟空を見るたびに、少しくらい自分を頼って欲しいと思うのだ。
 べったりと依存するのは好きではない。だが、悟空の姿は、まるで三蔵を突き離しているようにも思える時がある。 確かに悟空は強い。身体的にも強い。もしも自分がこの寺院から追い出したとしても、悟空は逞しく生きていくことだろう。
 だが、それでは自分は何だ。悟空にとっての自分とは。
 三蔵は時々それを思う。
 自分の意味は。自分の場所は。
 自分の、悟空の中での位置付けは何だろう。傍にいなくても生きていける、そういう存在なのだろうか。そう思うたびにやりきれない思いに駆られる。
それは裏返せば、三蔵自身の悟空の位置付けに戸惑っているせいもある。
 いつか――という予感が、三蔵の中にはある。
 いつかきっと悟空は自分のもとを離れ、自分の生きたい道を選ぶだろう。そしてそのとき自分は彼について行くことは出来ないのだ。
 ……そのとき、耐えられるだろうか。彼の居ない空白に、自分は耐えられるだろうか。
(……莫迦なのは、俺か)
 依存するのが厭だと言いながら、一番依存しているのは自分ではないか。三蔵は息をついて、おもむろに立ち上がった。法衣を脱ぐ。穏やかな表情を浮かべて瞳を閉じている悟空に、それをぱさりとかけた。悟空はまだ起きない。
 きっと――自分の思いなど知らず、眠り続けているだろう。
 それでいい。
 今はまだ、それで。


 


 あれから、二年が経った。
「……え、出かけるの」
「――ああ。三仏神の命でな」
 三蔵はぶっきらぼうにそう答えた。
 手早く正装用の法衣に着替えると、机の中にしまってある経文を双肩へとかけた。一瞬ずしりと肩に重さを感じる。
「面倒なんだが人探しの命を受けた。しばらく留守にする」
「……ふうん」
 一瞬納得した後に、悟空はにっと笑みを浮かべた。
「じゃあ、連れてって」
「――断る。何故動物連れて出歩かなきゃならんのだ」
「誰がドーブツだよっ?」
「自覚がないのか? ――重症だな、猿」
 怒鳴る悟空に、さらに三蔵は追い討ちをかけた。
 煙草の煙がゆらりと揺れる。悟空はそれでも十五歳にしては幼い仕草でぐっと三蔵を睨んでいる。
「俺、やだよ、こんなトコに置いていかれるの」
 ぴくりと、三蔵の煙草を持つ手が揺れた。
「なぁ、三蔵っ?」
 悟空は更に呼びかける。
 ……ああ、本当に長くかかったものだと思う。
 拾った時から数えれば五年だ。その間ずっと――三蔵は悟空を見ていた。悟空が育つのを見ていた。そして悟空が自分だけを見るように育てた。自分だけを。――他の人間には決して心を許さぬように。
 それが束縛だとわかっている。
初めからわかっていたのだ。いつか悟空が自分を忘れる日が来ることを。いつか自分の元を去る日が来ることを。そして、決してそれを自分は許せないだろうということも。
だから少しずつ、少しずつ束縛していった。三蔵にすら見えないくらいに、悟空は三蔵に縛られていった。もう自分から離れることなんて出来ないくらいに。どんなに三蔵に冷たくされても、三蔵だけを信じるように。
 いつ悟空はその束縛に気付くだろうか。その束縛が三蔵のなしたものであったと知った時、どんな目で三蔵を見るのだろうか。
 三蔵はそれを思い、そして自分の作った束縛の強さに苦笑して、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「どうした悟空、――おいてくぞ」


 (終)




BACK