僕が一番大切なもの
Sanzo x Goku >>Very Sweet



 
 ――ガチャン。
 何かが壊れるその音に悟空ははっとした。
 手には色紙で作られた紙飛行機。それを飛ばすのに夢中になって、机の上に置いていた「ソレ」に腕が当たったことに気付かなかったのだ。
 大僧正とやらと話があるからと、三蔵がこの執務室を出てかれこれ四時間程経とうとしている。いつもは仕事中に外さないソレを、今日に限って邪魔くさそうに置いていったのだ。
 紙飛行機を放り投げて慌てて机の傍に近寄る。
 キラリとした見慣れない光の反射。
「あ……」
 思わず手にとってみると、それは小さなガラスの破片だった。その傍には形を歪めた眼鏡のフレームが転がっている。間違いなく朝三蔵が着けていた眼鏡である。
(――しまった……)
 ザッと悟空の顔が青ざめる。いたずらをしてしまったときの心臓が跳ね上がる感触が悟空の中を駆け巡った。不意に今朝交わしたばかりの会話を思い出した。
『ねえ、三蔵の「大切」なモノって何?』
『さぁな。サルに教えても分からんだろう。』
『サルって言うなよ! じゃあさ。「必要」なモノは?』
『「必要」か。そうだな。煙草と新聞と、あとは――』 
 濃い紫色の、三蔵の眼と同じ色をした縁取り。
『眼鏡、だな。』
 必要だと言っていたのに。悟空はドクドクと波打ち始める心臓に手を当てて、とりあえず落ち着こうと息を吸った。そして破片だけでも集めておかないと、と小さな手を伸ばす。途端、
 ――プツッ……
「痛ッ……」
 触れた破片は無防備な肌をあっけなく傷つけた。指にじわりと紅い血がにじむ。悟空は慌ててそれを机の上に置きながら、今度は怪我をしないように慎重に破片を運んだ。だがそうでなくとも不器用な悟空のことだ。大方運び終わった頃には、悟空の手は傷だらけになっていた。痛くないわけがない。痛い。――痛いのだけれど。
「三蔵……怒るかなぁ……」
 そっちのほうが気になって仕方ない。あまり必要でない物でさえ悟空が触ると怒るのだ。それが必要な物で、しかも触るどころでなく壊したとあらば、想像するにしのびない。三蔵はきっと怒るだろう。怒るだけではすまないかもしれない。歪んでしまったフレームを机の上にカタリと置くと、悟空は何だか部屋にいられない気分になってしまった。三蔵がこの惨状を見てどんな顔をするだろう、なんて考えたら。
(追い出されるかも……)
 悟空の方が泣き出しそうな顔になる。時計を見ると、三蔵が帰ってくるまであと三〇分余り。
「ごめん……ごめんな……ッ」
 誰ともなしにつぶやくと、執務室の扉を開いて寺院の外へと駆け出した。 


 
 目映いばかりの星月夜。もたれた梢の隙間からは、こぼれんばかりの星が絶えず光を投げかけている。その光は太陽のそれに比べれば幾分劣るものの、暗闇を照らし出すには十分だ。
「あ〜あ」
 梢にもたれてしょんぼりとしている、幼い子どもを照らし出すには。
「三蔵、今ごろ怒ってるかなぁ」
 そうしてまた大きなため息をつき、こつんと木にもたれる。悟空の体幅の二倍以上ある太さの幹はそれを柔らかく受け止め、夜になってもなお内部に潜む温もりをじわりと背に伝えている。
 上を見上げれば満天の星空。チラチラと煌くそれは悟空が大好きなものの一つで、いつもはそれだけで満足してしまうのだけれど。今日はその大好きな星空でさえ、ため息を吐きかけるしかない。
「はぁ……」
 息を吐き出して無意識にぎゅっと手を握ると、傷が切れて酷く痛んだ。夜独特のなまぬるい風が頬を撫でて、悟空はそれに身を任せて目を閉じた。
(必要なもの、かぁ……)
 煙草と新聞と眼鏡。それが三蔵に『必要』なモノ。
(俺に必要なものって、なんなんだろ)
 生きていくために必要なもの。それがないとフツーの生活が出来ないもの。そんなふうに三蔵は言ってたっけ、と悟空は思い出す。
「それがないと生きていけないもの……」
 口に出すと不思議な感じがした。
(俺、何にもなくても生きていけたけどな)
 五行山での生活があまりに長かった悟空にとって、『必要』なものを考えようとしてもそれらしい答えが見つからない。暗い暗い岩牢の中で、たった一人で、どこにも行けなくて……
(それでも俺、生きてたけどな)
 そこまで考えて、はたと気付いた。
 そっか。
「たいようだ……」
 本能的に見上げると、そこには穏やかな月が笑っている。悟空にとっては、月も太陽も『たいよう』なのだ。いつでも自分に照らす、自分に光を届ける揺るぎないもの。それは時に、岩牢の中で開放を求める自分にとって、つらいものでもあったのだけれど。
 たいよう。たいよう。たいよう。……
 口の中で繰り返すと、不意になぜか哀しみがこみ上げてきた。
 『たいよう』はなんだかとっても懐かしくて、あったかくて、大好きで。でも俺は、やっと俺を見つけてくれた『たいよう』の、必要なもの壊しちゃったんだ。
「さんぞぉ………」

「呼んだか、バカ猿」
「……ッ!」
 いきなり声が聞こえてきて、驚いて悟空は顔を上げた。眩しい月夜に照らされて、月色をした髪の不機嫌な男が佇んでいた。
 三蔵。
 呼びかけて、悟空はハッと気付く。
「ぁ……」
 三蔵の手には壊れた眼鏡がしっかりと握られていた。顔を見上げるのも怖くて、そのままうつむいてしまう。
 ――と。
「何してやがる、ホラ手ぇ出せ」
 有無を言わせない強引さで悟空の細い腕を取ると、袖をたくし上げて手のひらを月の光に照らす。さきほど眼鏡のカケラを集めて付いてしまった傷は、ほとんど塞がりかけていた。三蔵は懐から布を取り出すと、それで乱暴に悟空の手のひらを擦った。ヒヤリとした感触があったかと思うと、鋭い痛みが傷口に走った。
「いッ………」
「このくらい我慢しろ」
 消毒液にでも浸してあるのだろう。いやに傷口にしみる。痛みに歯を食いしばってそれに耐えていると、頭の上の方で、ふうとため息をつく気配がした。不意に布が外され、包帯のような細長い物が手のひらにクルクルと巻かれる。
 ――三蔵?
「怒んないの?」
 恐る恐る尋ねると、金髪の破戒僧は器用に包帯を巻き終え、もう片方の手を引き寄せた。そしてそれも同じように消毒し、包帯を巻いていく。
「……十分怒ってる」
 嘆息まじりの言葉に、悟空は身を震わせた。
(やっぱ、ちょっとくらい殴られるのは覚悟しなくちゃだよな)
「あのさ、さんぞ…」
「怪我したら消毒しとけって言っただろうが!」
 ごめん、と言いかけた言葉を、三蔵の苦々しい言葉が遮った。
 ……へ?
悟空は目を丸くした。
「ったく壊れた硝子の破片なんざ触るんじゃねぇよ。シチ面倒な……」
「さんぞ、あの……」
「大体な、破片が傷口に入ってたらどうするんだ。無用心なんだよ、てめぇは!」
 悟空が言いかけるのも構わずに三蔵は口上を並べ立てた。確かに怒っている。黒味がかった眼を見てもそれは分かるのだが――しかしどうやら悟空が心配していた理由で怒っているわけではなさそうである。
「眼鏡、壊してゴメン」
「あぁ?」
 悟空の言葉に、三蔵はやっと気付いたような顔をして治療をするために傍の草むらに置いた眼鏡に目をやる。
「あのさ、ソレ――すごく『必要』なものなんだろ?」 
 ホント、ごめん。
 申し訳なさそうな表情で謝ると、今度は三蔵が驚いたような顔をした。
「お前……だから逃げたのか?」
「だって、眼鏡必要だって言ってたじゃん。ヒツヨウって、なくちゃいけないもののことだろ?」
 悟空はしょんぼりとそう言った。その様子を見ていた三蔵が、もう一つため息をついた。
「直したりとか、壊れたところを直せば使えるだろ、眼鏡は。だがそうはならねぇモンある。この世にはな」
「……?」
「そういうのは『大切』にしなくちゃ駄目だ」
 そう言うと、三蔵は手をぶっきらぼうに悟空の頭にやった。きょとんとして見上げる悟空を、月の光が照らし出す。
「お前が死んじまったら、元には戻んねぇだろうが。」
 三蔵はそれだけ言うと、きびすを返して寺院に向かって歩き始めた。
(えっと。つまり……どーゆーことなんだろ)
 悟空は三蔵を見上げた姿勢のまま、じっとその姿を見つめている。
(取り替えられないものが大切で、俺は元には戻らないから……だから?)
「さっさと来い、悟空!」
 三蔵の鋭い声が飛んだ。
 まぁいっか、と悟空の口元に笑みが浮かぶ。
(とりあえず俺は、三蔵のこと『大切』だから。三蔵は他にいないから、大切なんだ) 
「待ってよぉ!」
 そんなことを考えながら、その影を追いかけた。
 満月の光は、そんな二人を明るく照らし出していた。




 (終)




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