君の爪痕、僕の痛み。
Sanzo x Goku >>Sweet



 
「――いい加減、爪を切れ」
 開口一番、三蔵は不機嫌そうに眉をひそめ、起きたばかりの悟空に言い放った。まだやっとまどろみから覚めたばかりといった様子の悟空は目をこすりながら、ふわぁと一つ欠伸をした。
「……え?」
「だから爪だ。前から切れって言ってあるだろうが」
「え〜、だって面倒じゃん」
 いい気分で眠っていたところを起こされた悟空はほんの少しだけ気分斜めだ。それもそのはず。仕事明けの三蔵は昨夜、一週間ぶりということもあってか、なかなか悟空を「眠らせてくれなかった」のだ。――その意味は、推して知るべし。
「面倒だぁ? 猿のくせに一丁前のこと抜かしてんじゃねぇよ。痛ってぇ……」
 三蔵は眉間の皺を緩めることなく傍に落ちていた寝着を羽織ると、背中をわずかにさすった。怪我でもしたのだろうか。その様子を不審に思った悟空は、裸のままでひょこっと布団から顔を出した。
「どしたの、三蔵?」
「……うるっせぇ、だから爪切れって言ってんだよ……」
 三蔵はわずかに視線をそらしてそういうと寝台から立ち上がった。つられるように悟空も布団から体を出した。
「……? どーゆーこと?」
「……だから、な」
 三蔵は背を向けると、ナイトテーブルの上のケースから煙草を一本取り出して火を付けた。そして腕を寝着から引っ張り出して少しだけ悟空に見せた。三蔵の均整の取れた二の腕に、明らかに何かに引っかかれたような跡がついている。
「え、コレどうしたの?」
 驚いて悟空がそう問うと、三蔵は少し飽きれた顔をして、
「覚えてねぇのか? 昨日の晩、お前が付けたんだろうが」
 その言葉に一瞬置いて悟空の顔が赤くなる。
「……あ……」
 ――昨晩。熱い吐息に溺れていた。体の奥からせりあがってくる熱に必死に耐えるように悟空が掴んだのは三蔵の腕と――背中。あまりよく覚えていないが相当強く掴んだ覚えがある。おそるおそる三蔵の傷と自分の手の平を合わせてみると、
「……ぴったりだな」
 三蔵が煙草の煙とともに吐き出した。
「も、もしかして背中のも……俺?」
「お前以外に誰が付けるんだよ」
 その言葉に、悟空はやっと『爪を切れ』の意図を掌握した。
「……うっわ、ゴメン! 今度から、俺――」
「コレ今日の服。爪切りはここに置いておくから帰ってくるまでには切っとけよ」
 そういうと三蔵はテーブルに爪切りを置き、離れたところに畳んである法衣に手を伸ばした。
「……ん。」
 悟空は少し途惑いながらも用意してくれた普段着に手を伸ばした。


 ――俺、今度から掴まないようにするから。
 そう言おうと思ったのに、と悟空はちょっと首をかしげる。三蔵は仕事に出かけてしまった。テーブルの上には三蔵が先ほど置いていった爪切りが何の表情もなく座っている。
「……三蔵、嫌じゃないのかな?」
 俺が腕とか背中を掴むの、痛いからやめろって言われるのかと思った――と悟空は頬を掻いた。もちろん悟空は無意識のうちにすることなのだから当然自覚はない。だが三蔵なら止めることもできるはずである。そこまで考えたが、いかんせん知識が足りない悟空のこと、そこから思考は進まない。
「……ま、いーや。爪切ろっと」
 そう言って爪切りを掴んだ悟空は、そこではたと気がついた。
「――俺、爪の切り方わかんねぇ……」


「あ……ッつ……」
「どうかなさいましたか、三蔵さま?」
 傷が法衣に擦れて一瞬ビクリとするほど痛い。思わず声をあげれば、秘書格の僧が心配そうな顔で近づいてきた。
「いや、たいしたことはない」
「どこか痛めたのですか? きちんと治療しないと後で大変なことに……」
「大丈夫だと言っている。それよりもさっさと整理を済ませてくれ」
 三蔵はいつもの鋭い目で僧を見ると、手元の終わった書類を彼に押し付ける。は、と僧は答えて自分の机に戻ってから、気付いたように三蔵に声をかけた。
「薬湯でもお飲みになりますか? 痛みは、お仕事に差し支えるのでは?」
「そんな大仰なモンはいらん」
 そう吐き捨ててから気付いたが、考えてみれば安全第一の寺院において背中を痛める事など珍しい。僧がそんな言葉を掛けるのも無理はないことである。三蔵は咥えていた煙草を灰皿に押し付けながら、吐き出すように答えた。
「……それに、これは痛みじゃねぇよ」
 わずかに浮かんだのは――苦笑。


 バタン。
 扉が開かれる音に、悟空はビクリと肩を振るわせた。
(――どうしよう)
 そんな思考が、いっぱいに頭を占める。とりあえず右手を隠すように寝台につっぷして絵本を広げると、普通を気取って扉の方を振り向いた。
 ……バレませんように。
「お、おかえり!」
「……ああ、今帰った……。……?」
 三蔵の表情にわずかに不審の色が見える。悟空は気付かずに絵本に没頭しているふりをする。その絵本も実はさかさまだったりするのだが、それどころではない悟空はそんなことは気付かない。内心は冷や汗をかきながら絵本の文字を追っているつもりだ。フン、と三蔵は鼻でその様子をあしらうと、
「おい、悟空」
 煙草を咥えながら威圧感のある声で言った。悟空は一生懸命動揺を抑えながら右手にぎゅっと力を込めた。
「……な、なに、さんぞ――」
 言いかけた悟空を三蔵はあっさりと遮った。
「右手見せてみろ」
 ――うっ。
 悟空の思考が停止する。
「……バレてた?」
「フザケんなよ。俺を誰だと思ってやがる」
 おそるおそる聞いた言葉に、熨斗が付けられて返ってきた。悟空はうつむきながら絵本を閉じると右手を差し出した。三蔵がその手を乱暴に掴むと、
「……った……ッ……」
 悟空の口から小さな悲鳴が漏れる。その声に細い指を見ると――
「――お前な……」
 三蔵は、心底呆れたといった感じの声を上げた。比較的細くて小さい指の先に、明らかに爪の切りすぎによるものと思われる傷跡がついている。おまけにわずかだが血も滲んでいる。
「深爪してんじゃねぇよ。ったく爪も一人で切れねえのか」
「だってずっと三蔵切ってたから、爪切りの使い方分かんなかったんだもん」
 口を尖らせてそういうと、悟空はぷっと頬を膨らませた。どうやら爪切りと格闘した挙句、本来の目的である『爪を切る』ことは出来たらしい。ただ切りすぎて中の方まで痛めてしまったようだ。
「……ちょっと待ってろ」
 そう言うと三蔵は消毒液を持って来て、それに浸した布を悟空の指に当てた。
「うッあ、いってぇ……沁みるってば、三蔵!」
「うるせぇな! 我慢しろよ。大体な、てめえが爪切り間違えるからだろーが」
 思ったとおり、消毒液による痛みに顔をゆがめた悟空に三蔵は一喝した。そして消毒し終わった指を丁寧に乾かすと、
「今日はこっちの指はあんまり使うな。傷が深くなる」
 そう言うとてきぱきと消毒液を片付ける。悟空はまだ痛む右手をかざしながらふと思い出して言った。
「……あ、でもまだ左手の爪切れてないんだけど。」
 どうしよう、と純粋に自分を見上げてくる小猿に三蔵は本日何度目かになるか分からない溜息をついて言った。
「――来い。切ってやるから」

 三蔵の背中に痛みが走る。悟空が昨晩付けた爪痕である。まるで自分を逃さないとでも主張するように、力いっぱいに掴んだ傷――
『さんぞぉ……三蔵ッ……!』
 そんなふうにしなくても自分はどこにも行かないのに。
 そう言いかけて三蔵はふと思う。
(なら、俺は?)
 自分以外何処にも行きようがないはずの、まだ幼い少年を引き寄せて、それでもまだ足りずに温もりが欲しいと思う――。それは多分、失うことの恐怖と、それにも増して失いたくないものへの執着だ。
(俺も一緒じゃねぇか)
 そう思うなら、付いた傷は痛みではなく、むしろ。
 ――愛おしさだ。
「ったくどんくせえな。深爪してんじゃねーよ」
「……う、うん。ごめん……」
 そう言って殊勝に謝る悟空は、昨日の彼からは到底想像が付かない。三蔵は小指の爪を切ってやりながら、
「ま、爪切りの使い方を教えてやってなかった俺も悪かったがな」
「……三蔵?」
 ほんのすこしだけ痛々しい、左手の指たち。それはきっと自分の背中の傷と同じ痛みだと三蔵は思った。
「また伸びたら今度は自分で切るから」
「……ああ。」
「三蔵も――伸びたの気付いたら言ってな?」
 その言葉に、三蔵はわずかに口元を上げて言った。
「――気付いたらな」
 たまにはこんな痛みで、 互いを縛るのも悪くはないか。



 (終)




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