君は此処にいる
Sanzo x Goku >>Sweet


 

 執着するものなど、
 何もなかったはずなのに。

「いやッ…やめろ…やめッ…」
 ガウンッ
 強い硝煙の匂いだ。
 さっきまで自分を見下ろして嘲っていた妖怪は、表情を一変させて自分に酷く怯えている。引きずり込まれた砂漠の砂の色のように土気色の表情をして、カチカチと恐怖に歯を鳴らしている。
 確かに油断した自分たちも不味かったのだろう。だが今になって思うことは、どうしてこんなしょうもない妖怪の罠などに引っかかったのかという自嘲だ。女装趣味なのだろうか、妖怪の伸ばした髪と口紅が胸焼けを超えて滑稽にすら思えてくる。
「三蔵法師を食べると不死になるってな」
 そう言いつつ三蔵は眼を細めた。へたり込んで後ずさる敵の様子に余裕の色は欠片も見られない。
「――試してみるか」
 軽く銃口を構える。
 ガウンッ…ガウンッ、ガンッ…ガウンッ。
 薄暗い部屋の中に銃声が響く。それすら三蔵には聞こえない。ただ指にリアルに伝わる振動だけが心を少しも満たさずに冷笑を生み出す。照準を少しずつ変えながら決して心臓を狙わずに弾を飛ばしていく。肩、腹、脚…ああ、耳もいいかもしれない。悲鳴が遠くに聞こえ始める。目の前でそれに合わせて赤色の液体が弾き飛ぶ。
 ――うぜぇんだよ。
「お前、三蔵法師だろうッ? ……どうしてこんなッ!」
 バカか、お前は。
「ク……」
 坊主が人を殺さねえとでも思ってんのか? 

 ――バッ、と三蔵は飛び起きた。
 額から伝い降りた汗が頭から水でもかぶったようにぐっしょりと髪を濡らしている。息が荒い。辺りはまだ暗く、部屋の中には太陽の明かりはない。
「は……ッ」
 足元さえ見えない暗闇の中で三蔵はやっと夢を見ていたことに気付いた。手探りで時計を掴む。わずかに見えるその時間はまだ午前二時。
 いつから――夢を見ていたのだろう。三蔵は大きく息をつくと寝台から立ち上がった。砂漠の妖怪の罠にはまり、また紅孩児達に助けられる形となって砂漠を抜け出して一週間。妖怪の毒にやられてから数日間のことを三蔵は何一つ覚えていない。後で八戒に聞いたところ、三蔵を助けるために悟空が暴走しただとか、その暴走を止めたのが自分であっただとかいう話だったのだが、残念ながら一つも記憶に残っていない。ただ未だにあのときのことが思い出されて――
『――うぜぇんだよ』
 夢に見た日には、やりきれない。
三蔵は重い足を動かして寝台を降りると、バタンと冷蔵庫を開けた。暗い部屋がそこから照らされる灯りに一瞬その姿を映し出す。……と。
「……ッ!」
 三蔵は不意に妙な視線を感じて勢いよく振り返った。 冷蔵庫の扉が汗で滑ってヒヤリと肌を撫でる。背後にあるのは部屋の壁。冷蔵庫の灯りに照らされてそこに映るのは――自分の姿。それ以外には何もない。誰もいない。本来のそれよりもずっと大きくてぼやけた自分の影があるだけだ。ふと――カタチのないもう一人の自分を思い出す。
『――試してみるか』
 そんな声が聞こえた気がして、思わず三蔵はビクッと目を逸らしていた。
「……ッ」 
 ――バタンッ
 冷やされたビールの缶を掴んで、三蔵は冷蔵庫の扉を閉めた。わずかな冷気を残してすぐに部屋は元の暗闇へと戻っていった。手のひらにこびりつくようにしがみついた缶を両手で掴むと、三蔵は寝台に乱暴に腰を下ろした。まだ息が落ち着いていないような気がする。原因はたかが夢だ。それも自分の、せいぜい数日前の夢だ。そんなもので息を荒げてしまうほど自分は弱かったのだろうか。
 あのときの自分は何を考えていたのだろう、と三蔵は思い出そうとした。
 ――肩、腹、足…ああ、耳もいいかもしれない。
 何を考えていたのだろう。口元に笑みすら浮かべて、目の前の敵を遠い目で嘲りながら、――ああそうだ。
 自我を失うのは妖怪だけではない。
 三蔵は意識すら遠のいたあの瞬間のことを覚えている。体に打たれた薬が切れて次第に自由に動けるようになっていく。目の前の妖怪を殴る。
『お前、いつの間に……っ』
 妖怪の顔が恐怖に歪む。
 ――うるせぇ。
 怒りに狂う自分と同時に、呆れるほどに落ち着きかえった自分がいる。目の前には怯える敵が。ふと何気なく手のひらに視線を落とすと、そこには黒光りのする銃がある。
 ――なんだ。
 ガチャ。
 ――ああ、簡単なことじゃねぇか。
『ヒィッ…や、やめろぉ…ッ…』
 ――殺せばいいんだろう?
 そう思って笑んだのは、あれは――自分だったのか?
 ピチャン。
 冷やされた缶が常温に戻り、その温度差で缶壁についた雫が床に滴り落ちた。
「は……」
 三蔵は柄にもなく小さな息を吐き出すと、ビールを勢いよくあけた。常温に戻されたアルコールは喉に引っかかってもどかしい。おまけに酷く不味い。三蔵は手の甲で軽く口を拭った。
 自分を弱いと思ったことは、ただの一度も無い。けれど多分自分は『強くない』。そんなことはもっとずっと昔から分かっていたはずなのに、まるで若い少年のようにらしくもなく動揺しているのはどうしてなのだろう。『三蔵法師』という言葉にあの人を思い出したからだろうか。
 否。多分そうではなく。
「……ッ」
 あのとき初めて三蔵は自分を怖いと思った。自我を失い理性さえも失い――ただただ冷静で。覚えているのは冷えた銃の感覚。弾がはじき出されるときのリアルな衝動。わずかに匂う鉄の匂い。それらがグルグルと頭の中を巡りながら、我に返ってしまった自分を責める。あのまま怒りに任せて狂ってしまえたならば、どれだけ幸せなことだったろうか知れないけれど。
 人が狂うということ。それはおそらく妖怪のそれよりもずっと凶悪だ。どんなに妖怪を殺そうと、それが確固たる自分である証ならばそれでいい。だが自我すら失い、ただ理性のみで動く人間は――それはもはや動物でしかない。理性と本能は同じだ。どちらかだけで生きようとするとき、自分が何処にいるのかわからなくなってしまう。ここにいて息をしているのは、本当に自分という「人間」なのだろうか。それとも、
「――三蔵?」
 その声にバッと三蔵は振り向いた。声から少し遅れて薄く扉が開かれる。一筋の糸のような光が部屋の中へと差し込み、おおよそ逆光になった廊下から見えたのは、影。見覚えのあるそれに三蔵は誰何せずに顔だけ向ける。
「どうした?」
「んー、何か目が冴えちゃって」
 そう言ってエヘヘと小さく悟空は笑う。怪我している自分を気遣ってか、未だに三蔵は二人部屋に一人といった具合に寝かされている。悟空も悟浄も八戒も、二人部屋で三人寝ている計算になる。
「通りかかったら、物音がしたから」
「――フン」
 三蔵は鼻で笑いつつ煙草を手繰り寄せた。ベッドライトを掠めて部屋に薄暗い灯りをともした。
「一丁前に嘘なんざ付いてんじゃねぇよ」
 そう言って初めて視線を向けてやる。無言で入室を赦されたと分かった悟空は、後ろ手で扉を閉めつつも苦笑いした。
「あ――バレたか」
「当たり前だ。ここをどこだと思っていやがる。」
「あ、そっか。廊下の突き当たりだったっけ」
 自分の非を認めて悟空は笑う。廊下の突き当たり、それも階段も窓すらない廊下の突き当りを「通りかかる」なんてことは道理に合わない。三蔵の部屋はまさにその場所にあった。
「――フン」
 ゆらりと紫煙が揺れる。風のない部屋で拠り所を探すかのように彷徨いながら、ゆっくりと天井に向かって伸びていく。その先にあるものは果たして闇だろうか。
 悟空は口を開いた。
「呼ばれてる、気がしたから」
「?」
 眉を顰めた三蔵の瞳を、まっすぐな悟空の視線が貫いた。
「――三蔵に」
 ドクン、と一瞬三蔵の心臓が跳ね上がる。
「馬鹿言ってんじゃねぇよ。誰がてめぇなんか――」
「……うん。だからね、」
 悟空は三蔵の言葉を遮ると、うつむいて苦笑した。
「多分、俺が会いたかったんだと思う」 
 三蔵は再び言葉を失った。何もかも――見透かされてしまったかと思った。夢を見たことも、影に怯えたことも、まるで子どものようにムキになっている自分のことも。
「さっき起きたら、何でかわかんないけど不安になってさ」
 悟空の言葉に、三蔵は反応した素振りは見せない。
「どうしてこんなに不安で胸騒ぎするんだろ、って――呼ばれてるような気がするんだろ、って思って」
 無邪気な視線だけがわずかに作られた視界を埋める。
「んで、思ったんだけど。」
 三蔵の中にじわりと認識が広がっていった。あのとき自我を失った自分は、多分殺すことも嬲ることも畏れはせずに、ただ冷え切った手のひらに銃を握り締めて――多分誰よりも弱かったのだと。
『それが――俺の知ってる三蔵だ』
 多分、誰よりも。
「俺は三蔵のこと、……すきだよ。」
 気付くと悟空は自分のすぐ目の前に立って笑っていた。
 三蔵は伸ばした前髪の間から彼を見ていた。ライトに照らされた彼の瞳を美しいと思った。
「三蔵は俺のこと嫌いでも、俺は――すきだよ。」
 ジジッとわずかに煙草が声を上げる。
「ちょーぜつ意地悪で、すぐキレて冷たくて意地っ張りで、……それでも、」
 ……それでも。
 あの日。
『あんた…誰?』
 幼い子どもが肩を震わせるように、見えない敵に怯えてうずくまっているように、誰かに優しく肩を叩いてもらうのを待っているように『声』で呼んだのは、本当は、――悟空でなく、自分自身だったのかもしれない。
 三蔵はゆっくりと瞬きした。
 師匠を失い、ただ妖怪を殺して長安を目指し、目の前の見えなくなっている自分を止めて欲しかったのかもしれない。――数日前だって。もういいから、と。自我を失いかけた自分に言って欲しかったのかもしれない。
 心配などいらない。自分という人間が、確かに此処に、
「ココにいるんだって、確かめたくってさ。」
 ヘヘ、と悟空は決まり悪そうな笑顔をした。
「何か変だろ? 昨日も一昨日もずっと会ってんのにな」
「――フン」
 三蔵は鼻だけで笑った。
 多分――これが最後の砦なのだろう、と三蔵は思った。何もかもを失ってしまったとき、自分というものを保つ為の砦。――きっと、彼こそが。
「分かってやってんだったら余計に馬鹿だな」
「何かその言い方腹立つ!」
「馬鹿に馬鹿って言って何が悪いんだ。大体な、こんな夜中に――」
 そうしていつものような口げんかが始まる。すうっと溶けるように、胸のわだかまりが消えていく。
きっと彼こそが、自分の最後の砦になるのだろう。意識はない。予感だ。まるで制御装置のように、どこまでも自分を離さないその存在。いつだって自分が此処にいるのだと教えてくれる、その重み。それこそが、きっと何があっても自分を信じてくれるだろうという――。
 馬鹿みたいに弱くても強くなくても、『それ』さえあれば きっと自分は自分でいられるという、自信。
「馬鹿だってこともわかんねえ奴は馬鹿以下だな。」
「だからバカバカ言うなっ!」
「そうか。てめぇはハナっから猿だったな」
「〜〜〜〜〜三蔵……ッ! っと、わ……ッ!」
 言い合いをしていた悟空が、ふとした隙にバランスを崩して倒れこむ。裾を掴まれていた三蔵も、つられて覆い被さるように寝台に沈み込んだ。
 目を開く。目が合う。まるで透き通る宝石がぶつかり合うかのように意識が混ざる。
「――もう一度。」
 三蔵が口を開いた。わずかに視線が揺れる。
「――……もう一度。」
 低い声。
 悟空はわずかに笑んだ。
「『三蔵は、ここにいる。』」
 それは小さな小さな呪文だ。
 少しばかりの自信を生み出すための、弱い呪文だ。
 ――ほんの少し、強くなる為の。
「……覚悟しておけ」
 三蔵はそう言うと、悟空の唇にそっと自分のそれを近づけた。
「――望むところだよ」
 そうして二人の影は、次第に一つになっていく。

 ああ、執着するものなど、何もなかったはずなのに。
 どんな理由をつけてでも、手放したくない存在が、
 ――今、この腕の中にいる。



 (終)




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