泣いて泣いて泣きやんだら
Hakkai x Goku >>Sweet



 手元の小さな本に目を落としていた八戒は、ふと何かに気付いたように顔を上げた。部屋の中は暗い。寝台の枕もとについているライトが赤く部屋を照らし出し、ちょうど走馬灯のように自分の影が映っている。時刻にして夜の二時過ぎといったところだろうか。少し離れた壁にある掛け時計を見やると、八戒はふうと溜息をついた。午前二時。普段ならとっくに寝入ってしまっていい時間帯である。八戒としても明日からの旅路を考えるとそろそろ布団の中にもぐりこみたい時間なのだ。
 そう、普段なら。
 野宿は嫌だと悟空がわめき始めたのは、今からちょうど半日前、午後二時ごろだった。いつもならそこで「我慢しろ」と三蔵が怒鳴る。八戒だって「我慢してください」の一つも笑顔で言う。その二人にそういわれたら、いくら悟空とて大人しくなるのは目に見えているのだが。
 そう、いつもなら。
 ポツ ポツ ポツ…………
 今日が、雨の日でなかったら。
 八戒は読みかけの本にもう一度目を落とした。手と目だけはせわしなく動かしながらも、その実内容はまったく頭の中に入ってこない。文字の羅列が流れて、それを目で追うというそれだけの仕草。彼を良く知らない人間なら普通に読書しているのだろうと思うだろう。八戒にしたってそれで構わないのだ。ただ何か気を紛らすものが欲しい。それだけだから。
「ふう……」
 雨はまだ止んでいない。窓ガラスに叩きつけられる雨粒は酷く激しくて、悟空が騒ぎ始めた頃から考えると大分雨足も強くなった。明日はジープを出せないかもしれないな、とぼんやり思う。こころのところ休みもなかったことだし、白竜には休んでもらおうと思い、枕もとに寝そべっているジープの体を撫でてやると、半分ほど寝入っているのか眠そうに「キュウ〜」と答えた。それにまたほんの少し微笑む。
 八戒は雨そのものが嫌いなわけではない。むしろ雨は好きだと思う。体に纏わりついた血も涙も、全て洗い流してくれるような気がするから。
 ――ありきたり、ですけどね。
 けれど雨の日は苦手だ。
 笑顔を忘れてしまいそうになる。
『悟能の笑ってるところって凄く好き。』
『おかしいかしら? ……同じ顔なのにね。』
『ううん。そういうんじゃなくて……。ずっとずっと、見ていられたらいいなぁって。』
 目を閉じればそんな会話が思い出された。
 あれも雨の日の会話だったなぁ、などとおぼろげに覚えている。彼女が笑ってくれるなら、彼女が微笑んでくれるなら。あの頃の自分は何だってした。それは恋愛というよりもどちらかといえば自分の知らない「母」という者への想いに似ていたのかもしれないのだけれど。それでも自分は、たとえそれがどんな意味だとしても、彼女を「愛していた」。
 雨の日は、笑顔を初めて忘れた日だから。八戒はもう一度自嘲的な笑みを浮かべると、パタンと本を閉じた。もう一度時計を見る。二時半が過ぎようとしている。ぐっすりと寝られはしないだろうが、やはり体だけでも休めたほうがいいだろう。そうして本をサイドテーブルに置き、毛布を引き上げたときだった。
「八戒……起きてる?」
 小さな掠れた声が少し離れたところから聞こえた。しばらく考えてそれが何かを隔てた遠さだと気付く。八戒は数歩先にある部屋の扉を見やった。
「起きてますよ。どうぞ。」
 ――キィ。
 答えてやるとすぐに扉は開いた。廊下の明かりがわずかに差し込んで殺風景な部屋の中を照らし出す。おぼつかない足取りで部屋に入ってきたのは、声である程度予想をしていた悟空だった。大き目のスリッパを引きずりながら、部屋の中に入ってくる。
「どうしました?」
「ちょっと……眠れなくてさ。」
 悟空が八戒の元を訪れるなど原因と理由はいつも決まっている。もっとも悟空が悟浄曰くの『超鬼畜生臭坊主』以外のことを気にすることなどきっとないのだろうけど。歯切れの悪い言葉が返ってきたところを見ると、今回もそうなのだろう。
「何か温かいものでも作りましょうか?」
 そういうときの処置も心得たもので、そう尋ねてやると悟空はぱっと笑みを浮かべた。
「え? ホント?」
「ええ。何がありましたっけね」
 そう言って八戒はおもむろに立ち上がった。台所らしきところへ歩いていきながら、内心ホッとしている自分に気が付く。情けないなぁ、と苦笑してしまう。安心しているのだ。自分は。彼のそばにいれば、いつだって笑っていられるから。

 ガチャ。
「悟空……」
 八戒はミルクティ―の入ったカップを二つ携えて、寝室で待っているであろう人物の名前を、呼びかけてつぐんだ。
 ――ポツ ポツ ポツ……
 悟空が真剣な顔で窓の外を見ていた。窓に斑点を作る雨粒を目で追うでもなく真っ暗な中で降り注ぐ雨に目を向けるでもなく、まるで「雨」そのものを睨むかのようにじっと見つめていた。一瞬だけ躊躇した八戒は息を吐き出しながらそっと近付き、後ろからカップを渡した。
「どうぞ?」
「…………」
 ありがと、と小さく呟いて悟空は八戒からそれを受け取った。ミルクティーを口に含みながらまた悟空は窓の外に目をやる。八戒も目を細めながら一口それを飲んだ。
 静かな沈黙。
 八戒は、あえてその理由を問いただそうなどとは思わなかった。悟空が自分の部屋を訪れた理由はおそらくそこにあるのだろうから。それを無理やり聞き出す必要はない。だから視界の端に小さな姿を入れながら、もう一口ミルクティーを喉に通す。悟空用に、と作ったそれはとても甘かった。
「……あのさ」
 ようやく悟空の口から言葉が漏れたのは、八戒がミルクティーを半分ほど飲み干したときだった。八戒は聞いていることを示すように、そっと口元からカップを離した。
「雨、降ってるじゃん」 
「……ええ。」
 なんてことのない会話。
 悟空は同じように口元から外したカップをじっと見つめながら、ふうと一つ息をついた。目が迷うように何度か揺らいで、次第にその視線が形を成していく。それはまるでカップから漂う湯気のようで酷く掴みどころがない。八戒は手元のカップで温もりを確かめながら悟空が視線を外した窓の外を見つめていた。ぽつり、ぽつりと窓に模様を作っていく雨。軒から滴り落ちる雨粒は、叩きつけるように窓をきしませる。八戒はゆっくりと息を吐き出して、目を閉じた。窓の外は寒いだろうなどと考えると、手の温もりが夢の中のようにも思えて面白い。
「……八戒も、雨嫌い?」
 一瞬、八戒は心臓が飛び出すかと思ってしまった。まるで心の中を読んだかのように悟空が尋ねたからだ。八戒は自分自身の鼓動を抑えながら、ゆっくりと悟空の意図を考える。
 ――『も』ですか。
 そういう目で見やると、悟空は冷めかけたミルクティーを握り締めた。
「……苦手なんだってさ、雨。」
 誰が、なんて問う必要はなかった。八戒も気付いていたことだ。三蔵は雨が降ると極端に機嫌が悪くなる。
「大切な人が、雨の日に死んじゃったんだって。」 
 ぱたり、と八戒の動きが止まる。
 ――三蔵『も』?
「生きてる人ってさ、死んじゃった人には勝てないじゃん」
 悟空は妙に明るい声で言った。天井を仰いで、まるで涙をこらえているかのようにじっと目を見開いている。どうだろう、と八戒は思った。死んだ人間は綺麗な思い出だけを残す。生きていれば諍いもある。――勝てるだろうか。生きている人間が死んだ人間以上に想われることはあるだろうか。自分が彼女以上に大切だと、そう想う人はいるだろうか。想える人はいるのだろうか。――そう想ってもいいのだろうか。
「生きてるからさ、どーしても勝てない」
 ふるりと隣で小さく肩が震えるのが見て取れる。泣くのだろうかと八戒は思った。――あの日の彼女のように。
 不意に薄暗い牢獄が頭の隅から蘇る。
 花喃を見る自分。
 自分を見る彼女。
 思わず縋りついた鉄格子の冷たさ。
 格子越しに触れた、彼女の暖かな手。
 それから、それから。
 ――最後の、彼女の笑顔。
「死んだら一番になれるのかな?」
 ざくり、と八戒の胸の中で何かが弾けた。弾けたそれは酷く鋭く心臓を破いて、まるで魔法のように鼓動を早くした。
「死ななきゃ、三蔵の一番にはなれないのかな?」
 泣きそうな笑顔が閃いた稲光に照らし出された。
 ……ああ、と八戒は思う。
 自分は僕は花喃を一番に愛していた。自分の分身だからとか流れる血が同じだからとか、そういう理屈抜きでひたすら大切だった。彼女は自分を愛してくれた。だから――ずっとずっと考えていた。花喃が自分を愛さなければ、もしかしたら彼女は死ななかったんじゃないか、と。彼女に自分が出会わなければ。自分が彼女を愛さなければ。二人で暮らそうだなんて自分が言い出さなければ――彼女は、今でも誰かの胸の中で笑っていられたんじゃないか、と。
 だから死ぬまで自分は彼女だけを愛さなくてはならないと。彼女以上に想う人がいてはいけないと、思っていた。
 だけど。
「違う……違いますよ、それは」
「……八戒?」
 いきなり苦しそうに体を屈めた八戒に、悟空は心配そうな声を上げた。顔を手のひらで押さえて八戒は泣きそうになる自分をこらえた。
 ――違うんだ、そんなことは。
 生きてる人間が、死んだ人間以上に愛されてはいけないなんて。
「違うんです。僕は…………」
 顔を上げると幼い顔が心配そうに自分を見ていた。 彼に伝えなければならないと思った。だからその小さな体を抱きしめた。びくりと腕の中でそれは震えた。
「はっか…………」
「そんなの、嘘です。」
 戸惑うような悟空の声に八戒は抱きしめたまま言った。ぎゅっと力を入れると、自分と同じ構造をしているはずの体は酷く脆くて、折れてしまいそうで。
 ――ああ、そうだ。
 花喃は、確かに大切だ。他の何者にも代えがたい存在で、それは今でも変わらない。家に帰って彼女が笑ってくれるならそれ以上嬉しいことはない。――だけど。
だけど、生きてる人は死んだ人より愛されないなんて、そんなのは嘘だ。
「生きてる人を愛したっていいんです。愛されたって……誰も、咎めやしないんだから。」
 八戒は悟空を抱きしめたまま、まるで懺悔のように吐き出した。――誰も、咎めやしないんだからと自分自身に言い聞かせるように。
 ……ああ、そうだ。笑えなくったっていいじゃないか。笑顔を忘れたって。笑ってなきゃいけないなんて、誰も決めていない。彼女の人生の分まで自分が幸せに生きなきゃなんて、そんなこと誰も言ってない。そう思い込んでいただけで。――泣いたって、いいじゃないか。
 泣いて、泣いて、またいつか泣き止んで。そうしてまた笑えるなら。
「八戒……」
「だから……死んじゃ、ダメです。」 
 キッパリと八戒はそう言った。一呼吸の間を置いて、抱きしめた小さな体からこくりとうなずく雰囲気があった。
「ん……うん……死なない。」  
 じわり、と八戒の右肩が熱くなる。悟空は顔も伏せずに八戒に体を押し付けた。温もりが酷く欲しかった。我慢していたはずの涙が堰切って流れ出した。もう止めようとも思わないけれど。
 ――生きてる人を、愛したっていいんだ。
 だって、この存在は愛しい。誰が何と言おうと、この小さくて脆くてはかない存在は今の自分にとって必要なもの。その感情を何と呼ぶのか、自分は知っていてあえて名付けないけれど。きっとそれは、彼女に感じたものとは違うけれど。それでも自分は大切にしたいと、思うから。
「生きて、……生きて、いつかきっと三蔵の一番になる。」
「……ええ。」
 『強くなる』
 そう言ったときと同じ目をして、悟空は八戒に誓った。どうしてだろうと悟空は思う。一番好きなのは三蔵で、もしかしたらこういうことは三蔵に言わなきゃいけないことなのかもしれないのだけれど。でも、どうしてか三蔵の前に、八戒の笑顔が欲しくなる。それもニセモノのじゃなくて、とびっきりの笑顔。心の底まで温かくなる、そんな笑顔。それを見ると、やっぱり頑張ってみようかなんて、気分になれてしまう。
「あのさ、八戒。」
「はい?」
「今日……一緒に寝てもいい?」
 抱きしめた体越しに問う。ちょっと子どもみたいかなと自分でも思う。だけど、八戒は涙と笑顔を一緒に浮かべて、悟空に笑った。とても、綺麗だと思った。
「いいですよ」

 泣いて、泣いて、またいつか泣き止んだら。
 ――そうしたら、ホラ。
 きっとまた、笑えるから。


 (終)




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