空見の鏡
Sanzo x Goku >>



 
 シュッと小さな音がして、暗い森の中で一つの火が灯った。三蔵は口元に咥えた煙草をその明かりに近づけ、火がついたのを確認してライターの蓋をカシャッと閉じた。体の隅々まで行き渡るように煙を吸い込めば、既に喉に馴染んだ苦さが口いっぱいに広がる。そうなってようやく三蔵は眉間の皺を解いた。
昼間だというのに辺りは暗い。森の奥だからだ。しつこい妖怪に追いかけられジープや他三人共々森の奥までやってきた三蔵だったが、ここ数日の連戦でかなり疲弊している。本当に煙草を吸う暇もないくらいに応戦せざるをえなかったのだ。妖怪たちにとっては賞金首の身の上とはいえ、余りに戦いが重なるとさすがの三蔵も辟易してしまう。悟浄や八戒たちもそれは同じだ。いつもは一際元気な悟空でさえ疲れの色を見せていた。今はこの森の中で身を隠しながら、三人は仮眠を取っていることだろう。三蔵は早く目覚めてしまったので、こうして少し歩きながら煙草などを吸っているが。
 苦い煙草の味は体中を巡って、ようやく意識をはっきりとさせてくれる。そういえば、こうして疲れた時や目覚めるときに煙草が必要になったのはいつからだろう。
(長安に来る前か…来た直後か、それくらいだな)
 何気なく煙草を吸い始めたのがその辺りだった。別に法師という身柄に反抗したかったわけでも光明三蔵法師の真似がしたかったわけでもない。
 ――眠れなかったのだ。
 寺を出て、ただひたすら長安を目指して、迫り来る妖怪たちを殺しながら――歩き続けた。そして長安についてさえもぐっすりと眠ったことなど一度たりともないと思う。眠れないがゆえに目覚めが悪い。それが原因だとも思えないが煙草を吸い始めたのは確かにその頃だ。
妖怪を殺す毎日。それは今も同じだと思う。けれど今は少なくとも煙草がなくとも目覚めることは出来るし、眠ることだって出来る。少し不機嫌にはなるけれど。
 ――何故?
 あの頃と何が変わったというのだろう。何も――何も変わってはいないはずだ。それなのに、
「お目覚めはどうだ、玄奘三蔵」
 ――チャキ。
 三蔵は条件反射で、声に向かって銃を突きつけながら、声のした方を振り返った。……と一瞬その声の持ち主を見て三蔵の片眉が上がる。女――なのだろうか。豊満な胸が透ける服を通して見えている。動くたびに首から胸へと掛けた鏡が揺れる。だが銃を突きつけられてもなお余裕の笑みを浮かべているその表情には、どこか男らしさが漂っているような気もする。笑みの形に吊り上げられた唇には口紅が塗られ、長い髪は綺麗に纏められていた。
 三蔵が目をとめたのは、その額だ。聖職者を示すチャクラが、自分と同じようについている。
「誰だ、貴様」
「随分とご挨拶じゃねえの、折角忠告しに来てやったのによ」
 艶やかで乱れた外見に少しも違わない口調で、女は言った。
「…忠告?」
「そ。」
 訝しげな三蔵の視線にも怯まず、女は笑みを浮かべて三蔵を見ている。三蔵は少し眉に皺を寄せるとキッパリと言い返した。
「胡散臭え。いらねえよ、そんなモン」
「まあそう言うなよ。貸しはローン返済にしといてやるから」
「てめえなんぞ相手にローン組むほど俺は落ちぶれちゃいねえよ」
「つれないねぇ、お坊さんはサ」
 散々言われているにも関わらず女はむしろ嬉しそうな笑みを深めた。その様子が三蔵には気に入らない。まるで子どもが大人に弄ばれているようなものではないか。眉間の皺が益々深くなった。同時に、咥えた煙草から灰がポトリと落ちる。
「じゃあ今回は特別サービスってことにしといてやるよ」
 そう言うと、女は自分の首に掛けていた鏡を取った。金の鎖のついた、手のひらに収まるくらいの鏡である。鏡の周りには装飾が施され、三蔵には興味がないので詳しくは分からないが、そのあたりの市にでも持っていけばそこそこ高く売れる代物だろう。女はその鏡を一瞥するとそれを三蔵に差し出した。
「空見の鏡だ。」
「――空見?」
 受け取りつつ三蔵は眉をひそめてそれに目を落とした。外見の装飾が少し派手な事をのぞけば普通の鏡と何ら変わりのない風体で、覗き込むと仏頂面をした見なれた顔が映った。
「何だこれは?」
「だから鏡さァ。ま、フツーの鏡じゃないけどね。お前に貸しといてやるよ」
「――いらん」
 三蔵はぶっきらぼうにそう言うと、腕をつき伸ばしてそれを女につっ返した。
「こういういわくありげなモンは持っててろくな目に遭ったことがない」
「まあそう言わずに持っとけよ。いつかソレがあって良かったと思う時が来る」
 女の笑みに三蔵は眉の皺を増やした。
「胡散臭ぇっつってんだろ。大体、これはてめえのモンかよ?」
「そ、俺の。ああ、だが誰が持ってても絶対に俺のところに戻って来るから、その辺は心配しなくて良い」
「――は?」
 意味不明な言葉に三蔵は眉を吊り上げた。その仕草を面白そうに女は眺めている。未だ銃が突きつけられているにも関わらず、腕など組んで余裕の雰囲気だ。普通の人間では――ない。
「てめえ、一体――」
 女にまとわる雰囲気の異様さにようやく気づいた三蔵が口を開いたとき、はるか背後から声がした。女の声ではない。もっとずっと聞きなれた耳に馴染んだ声だ。
「おーい、三蔵っ?」
 木々の向こうから誰かが呼んでいる。それを聞いて女はうっすらと口元に笑みを浮かべた。
「ホラ、さっさと行きな。放し飼いの小猿が呼んでるぜ?」
「チッ。てめぇに言われずとも――」
 三蔵は言いかけて、鏡を手にしたまま振り返り、そのまま硬直した。
 ――いない。
 先ほどまで目の前にいて、自分を馬鹿にしたように笑っていた女の姿は跡形もなく消えていた。三蔵は眉を顰めた。気配まで消えている。物音もしなければ足音すらも聞こえなかったのに。そういえば現れ方もそんな感じだったな、と思い出した。一体何者だったのだろう。残されたのは少し古びた感じの装飾鏡が一枚だけだ。考えているうちに別の足音が近付いて、不意に近くの茂みを割った。悟空だ。
「三蔵! ……っと、何だこんなトコに居たのか」
「――サルか」
「猿ってゆーな! ……アレ、ソレどうしたんだ?」
 悟空は目ざとく鏡を見つけると首をかしげた。三蔵はまさか『貰った』と言うことも出来ずに苦い言い訳を搾り出した。
「――拾った」
「ふーん。三蔵でも拾い物をするんだな。普通の鏡とどっか違うのか?」
「いや。ちょっと……その、妖怪の気配を感じたからな」
 苦しい言い訳も悟空はさらりと飲み込んでしまう。
「へぇ。ま、その辺のことは三蔵に任せるけどさ。――あ、もう皆起きたから、八戒がもうすぐ出発するって」
「……判った。すぐ行く」
 三蔵は懐に鏡をしまってジープへの道を歩き出しながら、先ほどのことを反芻していた。空見の鏡――とか言ったか。どんな鏡なのだろう。何か悪いものを引き付ける類の鏡でないことは判る。悟空には嘘をついてしまったが、この鏡からは一筋の妖気も感じられない。見たところ何の異変もない。だが、だからといって容易に森の中などに捨てさせない何かが鏡にはあった。
(あって良かったと思う時が来る)
 あの女はそう言っていたが、果たして――。
 ――考えたところで、無駄か。
 三蔵は短くなった煙草を地面で踏み潰すと、すぐに悟空の後を追いかけた。

***

「この辺り一帯は妖怪に囲まれていると考えて間違いないでしょうね。だとすると、このままこの道を進むと、妖怪の団体にまともにぶつかっちゃうことになりますけど……」
 八戒は地図を片手に顎に手を当てて呟いた。お決まりのように、後部座席には悟浄と悟空、助手席には三蔵がついている。悟浄と悟空は何かくだらないことで一悶着を起こし始めている。それに全く我関せず、といったふうに八戒は言葉を続けながら、ただ一人自分の言葉に耳を傾けているように見えないわけではない三蔵に顔を向けた。
「どうします、三蔵?」
「仕方ねえだろ。そこを通らないと隣町まで行けないんだろう?」
「そう――なりますけどね」
 八戒は視線を戻した。途端、話を聞いていないと思われた後部座席から声が飛んだ。
「まあしっかり寝たしな。体力勝負ならドンと来いってヤツっしょ。後はこの猿が黙りゃ万々歳だろ」
「サルって言うなよ、エロ河童! 腹減ったんだって!」
「エロ河童だァ? サルのくせに言うじゃねーかよ!」
 怒声を飛ばしながら、また二人は言い合いとつかみ合いの中に戻っていく。掴み合って叫ぶのをやめてしまえば、少しはエネルギー消費が減るだろうということに、悟空自身が気づくのはいつになるのだろう。八戒は溜息を隠してもう一度口元に手をやった。
「もう一つ、方法がないわけでもないんですが……」
 ちらりと三蔵に目をやる。それに気づいて、三蔵は不機嫌そうに息をついた。
「言っておくが魔界天浄の効力はせいぜい半径五十メートルが限度って所だ。妖怪の数から考えても片付かん」
「あ、やっぱりそうなんですか。一気にふっとばしちゃえば楽かなぁと思ったんですけど」
「大体な、何でてめえらのために俺の体力を使わなきゃなんねーんだ。てめえの命くらいてめえで守りやがれ」
 あまりにも三蔵らしい言葉に、八戒は苦笑を禁じえなかった。そしてちらりと後部座席に目をやる。悟浄と悟空はまだ言い争っている。これなら大丈夫だろう、とハンドルを握った。
「そうですね。――じゃ、行きますか」
 ジープはゆっくりと動き始め、土ぼこりがその後を追った。


 どうして、あんなことを言ったのだろう。
 てめえの命はてめえで守れ、なんて。
 ――どうせ守れもしないくせに。


「…さ…んぞ…」
 三蔵は、目の前の光景が信じられなかった。悟空が笑っている。いつもと同じように笑顔で。いつもと同じように、わずかに目を細めて。
 ――小さな体に、妖怪の攻撃を一身に受けて。
「良かったぁ。さんぞ……、怪我――ない?」
 本心から安心した言葉が悟空の唇から零れ落ちた。それと同時につうっとその唇を血が伝う。唇から顎へ、そして喉へ――
「ご…くう…」
 呼ぼうとして口を開くと、呆れるほどに掠れた声が出てきた。その声を聞いて、ドサリと悟空が三蔵の胸に倒れこんだ。三蔵は慌ててその体を抱きかかえる。悟浄と八戒は思い出したように妖怪の首を薙ぎ払った。そして三蔵と悟空の元へと駆け寄る。
 油断していたのは三蔵だけではなかった。八戒も、悟浄も、あるいは悟空さえもそうだったのかもしれない。森を出た時点で、妖怪が襲ってこなかったことに何か気づくべきだったのだ。そのままジープを走らせ続け、あと数キロで隣町へ着くというところまで来た。まさかここまでは追ってこないだろう、きっと尻尾を巻いて逃げ帰ったのだと思い込んでいた。だからいつもなら当然気づくはずの殺気にも気づかなかった。砂の下に隠れていた妖怪たちはジープの背後から三蔵を目掛けて襲いかかってきたのだ。敵はわずかに六、七人。少なかったから殺気に気づかなかったなど――言い訳にもならない。土煙の中に敵の姿が見える。
 ――しまった。
 誰もが戦闘体勢に入った。だが――
 そのときには、全てが終わっていたのだ。
 土煙が途切れて目を凝らしたその先には、三蔵に迫り来る妖怪の攻撃を一身に浴びた悟空が立っていた。三蔵を庇うことで自分を庇うことを忘れてしまったように――如意棒すらも携えずに。
 ――誰かのために、なんて。
 三蔵は頭が真っ白になった。
「おい悟空……悟空、悟空ッ!」
 血まみれになった体を揺さぶると血の気の失せた悟空の唇がかすかに動いた。
「……ん……ぞ」
「喋るな! すぐに治療を、八戒っ!」
 呼ばれて八戒が駆け寄る。だが碧の光を生み出そうとした八戒の手を悟空がやんわりと断った。そして、ただ三蔵だけを見て、
 笑った。
 これ以上の笑顔はないだろうという顔で。
「さんぞ……おれ……を、俺を――」
「……何だ?」
 震える声で聞き返し、ひんやりし始めた手のひらを握った。吃驚するほど冷たかった。
「俺を――見つけてくれて、ありがとう」
 そしてその笑顔のまま、パタリと悟空の手の平は砂の上へと落ちた。金色の瞳さえ開かれたまま。
 三蔵は意識が遠のいていくのが判った。
 ――どうして、
 どうして俺は、誰かのために生きることが嫌だなんて、思ったんだろう。こいつは馬鹿みたいに、誰かのために死んでいったのに。
 ああ、判った。
 こいつだ。
 煙草がなくても、目覚める気になったのは、
 酒がなくても眠れるようになったのは、
 こいつが――何処かずっと深いところで、
 ずっとずっと俺のことを。
 俺のことを、呼び続けていたから。
「うああああアアアアアアッ!」
 三蔵は叫んだ。
 叫ばずにはいられなかった。
 気が遠のくほど、喉を震わせ、腹から絞り出すように、何度も、何度も――


「…どうだ、持っていて良かっただろう?」
 ハァハァという耳障りな音が自分の吐く息だと気づいて、三蔵は我に返った。湿っぽい森の土に膝をついて息を荒く吐き出している。目の前には鏡がある。おかしな女から譲り受けた空見の鏡だ。そこには間抜けなほどに真っ青な顔で冷や汗を流している自分が写っている。
「特別サービスだからな。今回は負けといてやるよ」
 声に気づいてゆっくりと顔を上げる。鏡を渡した女がいた。
「これは――」
「空見の鏡だ。もう……効力は判ったな?」
 女は三蔵の前から鏡を取ると、元通り自分の首にかけた。三蔵の息はまだ荒い。けれど引きつる喉を震わせながら三蔵は呆然と呟いた。
「……あれは、まさか……」
「これからお前らに起こりうる未来――ってところさ」
 女は目を細め、口元を上げて言う。
「そんな莫迦な――」
「莫迦だと思うなら何もしなけりゃあいい。さっき見た通りの未来が待っているだけさ」
 ぞくり、と三蔵は無意識に身を震わせた。
 さっき見たとおりの未来?
 ――悟空が、自分の腕の中で、
「……ぁ……」
 小さく声を上げる三蔵を尻目に女は毅然と立ち上がった。三蔵は気づいたように声をかける。
「お前は、一体――」
「なあ、玄奘三蔵」
 女は三蔵を遮って振り返った。口元に笑みを浮かべ、決して笑わない瞳で言う。
「お前達には――未来を変える権限が与えられている。」
 そう言うと、そのまま掻き消えるように女は立ち去ってしまった。三蔵の体は未だガタガタと震えている。あれは、ほんの小さな隙間が見せた虚像なのか、あるいは――
「おーい、三蔵っ!」
 遠くから自分を呼ぶ声がした。それが段々と近づいてくる。
「三蔵! ……っと、何だこんなトコにいたのか」
 茂みを破って悟空が現れた。だが、三蔵らしくない冷や汗すら浮かべて座り込んでいる様子に、何かがおかしいと思ったのか目が丸くなる。
「ど、どうしたんだよ、三蔵――」
「悟空」
 三蔵は悟空の言葉さえ遮って、近づいたその体を抱きしめた。ありったけの力を込めて、気を抜けばその存在が何処かへ飛んでいってしまうかのように。
「ちょ、三蔵……痛ぇって、……三蔵?」
 悟空のいぶかしげな声が聞こえる。三蔵は答えない。
 離すものか。二度と、二度と――
「……三蔵?」
 悟空の声は、深い森の中に響いた。


 男は溜息をついて言った。
「また下界へいらっしゃってたんですか」
「悪いな。書類が溜まってんだろ」
 女はほんの少しだけ申し訳なさそうな顔をして、机についた。
「さっさと片付けるからもってこい」
「判ってますよ――って、おや」
 男は女の胸元にある鏡に目をやって言った。
「珍しいですね。使ったんですか?」
「まあな。必要に応じて……ってトコだ」
「ちょっと曇ってますから、後で布でも持ってきましょう」
「頼むよ」
 女が笑うと、男は部屋から去っていった。女は窓の外を眺めながら誰ともなしに呟いた。
「――そうだ。」
 その口元には、あえかな笑みが。
「お前達には――未来を変える権限が与えられている」




 (終)




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