手のひらを握る痛みを。
Sanzo x Goku >> …There is LOVE only.


 たとえ自分がどんな姿になっても、彼を失いたくないと思った。

「手、離すなよ」
 その声に、悟空ははっと我に返った。
 がやがやと喧しいくらいの人ゴミの中。
 繋いでいたはずの左手が、ぼんやりしているうちに離れ掛けていたらしい。この人ゴミで一度手を離してしまえば、再び顔を合わせるのは難しいだろう。悟空は慌てて手のひらに力を込めた。すると、それを待っていたとばかりに、握っている手の主は、ぐいっと悟空を引き寄せた。すぐにその姿が悟空の目の前に現れる。
「何やってんだ」
「ごめん、ちょっと考え事」
 苦笑いをして悟空は謝った。
ふう、と相手が息をつく気配が伝わる。
 だが悟空には判っている。それが呆れた溜息ではなく、自分がいることの安堵のそれだと。
「……行くぞ」
 手を握った相手はくるりと踵を返すと、悟空の手を握って人ゴミの間を縫って歩き始めた。引っ張られて悟空も歩き始める。背後から見えるのは鮮やかな金色の髪。それもこの人ゴミの中では珍しいものでもない。
 悟空は、自分の手をしっかと握るその手に目を落とした。骨ばった、自分のそれより幾分大きい手のひら。どんなに年を経ても、自分はこの手の大きさすら追い付けないだろうと思う。いつだってこうして、彼の後ろをあるいは横を歩くことしか出来ないのだ。
 けれど――。
 ふと、悟空の目に、彼の腕で揺れているソレが飛び込んできた。手のひらと同じように銃の反動にさえ耐えられるように強くなった腕には、見慣れた、しかし似合わない腕飾りが絡んでいる。
腕飾り。茶色の髪で編まれた古びたそれ。
 それは悟空の髪で編んだ、彼の制御装置。
 ――そうだ、と悟空は思う。
 どんなに追いつけなくとも彼には自分が必要なのだ。そう思うと腹の奥の方で、ほっとしたような、同時にもう後戻りがきかないような重みを感じた。
彼は歩くのが早く、悟空は追いつけずに腕をきりきりと引っ張られた。
 慌てて呼ぶ。
 彼の名を。
「待って、三蔵」

 三蔵と言う名前はもう自分には不釣合いになってしまったことを、三蔵は知っている。
けれどその声だけには答えた。
もうずっと自分を呼んでいる声だから。
「――どうした」
「歩くの早いよ。追い付けない」
「……てめえが遅いんだろうが」
 そう言うと目の前の彼は、「ひっど」と頬を膨らませた。 その頬をつねってやろうと指を伸ばすと、腕に付けた腕飾りが、しゃらりと揺れた。
「ホラ、文句言ってないでさっさと行くぞ」
「……ちぇ」
 彼はまだ頬を膨らませたまま、少し足早に自分の後を追い始める。伸ばした腕を、その手のひらをしっかりと絡ませて。指の隙間に彼の細い指が絡む瞬間、三蔵の背筋をぞくりと何かが走った。
「どうしたの?」 
 三蔵?と彼は澄んだ目で自分を見上げる。
 口元に苦笑が浮かぶのが判った。
「……なんでもねえよ」
 そう言って絡んだ手のひらにぐいっと力を込める。またしゃらんと腕飾りが揺れた。
 彼の髪で編んだ髪飾り。
 三蔵の制御装置。
 ――そう、もう自分は三蔵という名は不釣合いなのに。
 くっと三蔵は喉で笑った。

(妖怪は、)
 旅の終わったある日。
 八戒が三蔵の寺院を訪れた日のこと。
 悟空は外で遊んでいる。
 三蔵の声。
(妖怪は、人間にはなれないのか?)
 八戒は、碧の瞳をゆらりとゆるがせた。
(何を、突然――)
(答えろ)
 三蔵はそっけないほどの声の冷たさで言った。暖かくなり始めた部屋の温度が嘘じみたように窓を曇らせる。シンとした静寂が執務室の温度をニ、三度下げた。
(……無理、でしょうね)
 しばらくして八戒は口を開いた。
(元々機能が違ってしまったみたいです。僕の場合だと。ま、悟浄は中途半端なので如何とも言えませんけど)
 「僕の場合だと」「悟浄は」――その言葉に力を込める。
 八戒には判っている。なぜ突然、三蔵がそんなことを言い始めたのか。
 妖怪とは、つまり誰のことなのか。
(……そうか)
 三蔵は仕事の筆を一瞬止めて小さく低く呟いた。八戒は黙ったまま、腕に持ったコートをぎゅうと握り締めた。怖いくらいに、手までびりびりと震えるほどに厭な予感がした。
 ――まさか。
 問いただそうとして口を開いたが、其処からは何も出てこなかった。三蔵は何だってするだろう。そんな想いが八戒の脳裏を掠める。
そう、何だって。彼が失いたくないと思うものがあるなら、どんな手段を使ってでもそれを得ようとするだろう。それは旅を共に終えた八戒にはよく判ることだった。
 彼に、唯一つのことをのぞいては、この世に怖いことなど何一つ存在しないのだ。犯罪であろうと神罰であろうと何だって。
 だから。もしかして。
 それは口に出すことも出来ず、八戒は開きかけた口を閉じた。
(もう一つ聞きたいことがある) 
 三蔵の声に八戒は顔を上げた。
 紫色の瞳が、翡翠色のそれを貫いた。
 ――ああ、そうだ。
 八戒は再認識した。
 彼は何だってするだろう。
 愛しいものを、喪わない為に。
(千人の妖怪を殺せば妖怪になれるというのは本当か?)

 八戒は言った。
 数ではない、要は思いなのだと。
 どれだけの妖怪を、ではなく、自分がどれだけ妖怪になりたいか。妖怪になって相手を殺したいか。その想いが強かったから、だから自分は妖怪になったのだと。
 ――ならば。
(一人になるんだよ)
 不意に彼の声が振ってきた。
(いつか、俺は一人になるんだ)
 ああ。喪いたくない。
 お前を喪いたくないんだ。
 たとえ俺が、どんな罪を負ったとしても。 

 悟空が外から帰ってくる頃、俺の手のひらは血まみれになっていた。そして俺は経文を投げ捨てた。あれほど執着した、あれほど求めていた経文を。得てみて判ったのだ。欲しかったのは、それではないことを。そうしてそれは、今になってはどんなに頑張っても手に入れることが出来ないものだと言うことを。
 だから俺は経文を捨てた。法衣も脱ぎ去った。
 邪魔だ、こんなもの。必要ない。こんなものが、必要なわけではない。
(さん……ぞ……)
 そんな俺の姿を見て悟空の目が丸くなる。ゆらりゆらりと、それでも悟空は俺に近寄った。
(この血……どして――) 
 俺の手のひらを取る。真っ赤な真っ赤なその色が、お前の手のひらすら染めていく。
(お前と、)
 口を開くと、呆れるほどに掠れた声が出てきた。
(お前と、同じになったんだ)
 そうしてお前の茶色の髪を、腕に絡めた。その手を取った。お前がこの手を振り解いたならなんてことは考えていなかった。その手のひらにするりとお前は指を絡めた。まるでそれがアタリマエのことだと言うように、
(……行くぞ、悟空)
 俺は、三蔵の地位と場所を捨てた。
 そして――

 そして三蔵は妖怪になった。
 俺は髪を一房切って編んだ。それを三蔵の腕に絡めた。もう負の波動は流れないから別になくても狂ったりしないけれど。それでもそれがあった方がいいと三蔵が言ったから。
 俺たちはそれから寺院を出て街へまぎれた。旅をしていたあの頃と同じくらいにあちこちに行った。三蔵はよく笑うようになった。きっと八戒や悟浄が知ったら吃驚するだろう。けれど本当は判っている。八戒も悟浄も、もう再びと会うことはないのだということを。だから三蔵は俺しか見ない。俺の声しか聞かない。
 その現実が、俺の背筋を、奮わせる。
「……何、考えてるんだ」 
 気付くと三蔵が俺の顔を覗きこんでいた。思考まで覗かれた気がして一瞬どきりとする。
「何でもない」
「……じゃねーだろ」
「何でもないって」
 三蔵はしばらく俺の顔をじっと見ると、再び手に力を込めて歩き始めた。痛いほどの力を手に込めて。
「――悟空」
 俺の名を呼ぶ。俺の名前だけを。

 怖いものなど何もない。
 そう、何もない。
 唯一つの、この手のひらを握る存在が消えてしまうこと以外は。それ以外、何だって怖くない。
 莫迦だと謗られようが愚かだと笑われようが構わない。
「悟空」 
 呼んだ。
 振り向くと金の目が自分を見ている。
「手、離すなよ」 
 言うと、悟空も痛いほどに手のひらに力を込めた。

 しゃらり、と腕飾りが揺れた。


 (終)




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