THE CIRCLE


 これ以上届かない想いなんて無いと思った。

「あ」
 思わず小さく上がった声に、数歩先を歩いていた男が立ち止まる。
 普段は自分の声になんて耳を傾けないくせに、きちんと聞いている。こういうときだけ。
「どうした?」
 そう問われて言葉に詰まる。
 立ち止まるようなことでもなかったので。
 ただひらひらと。
 ひらひらと。
「……うん」
 胸にわだかまる気持ちを言葉に出来ずに、喉の奥でそう答えると、無愛想な男の顔が完全にこちらを向いた。
 目の前をひらりと舞い降りてゆく薄紅。
 自分の名前しか覚えていなかった記憶の中に、ふわり、と浮かび上がるように口をついたそのひとひらの名。
「さくら」
 たどたどしい口調でそういうと、「ああ?」と男は眉間に皺を寄せた。
 怖い――わけではない。男は確かに悟空よりもずっと身長が高くて、ずっと確りとした肩と腕と足を持っていて、その表情は怖いくらいに綺麗なのだけれど……悟空は自分がその威圧感に慣れている気がした。
 いつもいつもこんな表情を、誰かの表情を見ていた気がする。
 それはあくまで「気がする」でしかない。薄紅の淡い色にも似たぼんやりとした記憶を手繰ろうとすれば、手繰る手元からゆるゆると白く消えてしまうということを悟空は学んだ。
 だから、悟空が知っていることと言えば、自分の名前と、牢獄に入れられてからの記憶と。
 この男の名前だけ。
 そして、悟空がそれを呼ぶと、男の纏う雰囲気が、ほんの少しだけ柔らかくなるということ。
 いつもどうしようもなくなったとき、伝えられなくなったとき、呟く言葉もなくて、ただ、彼の名を呼ぶ。
「三蔵」
 その声音に男は片眉を上げて見せる。
 そして、ああ、と気付いた様に悟空の視線を追う。
(ほら、こうして呼ぶと)
(気付いてくれる)
(言いたいこと。伝えたいこと。)
(気付いて欲しい 視線)
 悟空の視線と三蔵の視線が垣根越しの薄紅で交わる。
「……八重桜か」
 既に満開を過ぎたのだろう、はらりと衣を落とし始めた木は、それでも両手を広げるように枝を張っている。
「珍しいのか?」
 そう尋ねる三蔵に、ぶんぶんと悟空は首を横に振る。
 違う。むしろその逆だ。
 いつだって見ていたような気がする。
 いつだって傍にいたはずの誰かと。
 そうか、と三蔵は無表情に、また桜へと視線を移す。
「じきに全部散るぞ。次に咲くのは来年の春だ」
「散る?……全部?」
「……ああ」
 悟空を見下ろして三蔵は言う。
 三蔵は絶対に悟空の目線に合わせることをしない。牢獄を出されたときから、いつだって、悟空は見下ろされている。
 実は、悟空はそれが好きだ。下から自然、三蔵を見上げる格好になるので。
 下から三蔵の顔を見上げると、金色に光る髪が空に殆ど溶けてしまって、まるで。
 たいようのようだから。
「春に咲いて春に散る、また次の春に咲く」
 低く響く声が耳に心地よい。
「何度でも?」
 そう尋ねると、珍しく三蔵が笑った。
 どうして笑うのだろう、と悟空は首を傾げる。
 不意に、だらりと垣根にかけたままの指を取られた。
 三蔵の左手に。
「そうだな、何度でも」
 繋がる指の、体温の低さにどきりとする。
(春に咲いて春に散る、また次の春に咲く)
 こころの中で三蔵の言葉を繰り返す。
(何度でも) 
 ぐるぐると大きな何かを自分達は巡っているのだ、と悟空は漠然と思った。
 それが何かは判らないけれど、自分も三蔵もその何かに巻き込まれ、けれど確かにその何かを為している。
 春の次は夏で、その次が秋、そして冬で、また春が巡る。それは三蔵に教えられたばかりの知識だ。
 何度も何度もその四つが繰り返されて、それが一巡するごとに、一年、という単位が生まれる。
 けれどもそれが、広場を大きく一周して、元の位置に戻ってもう一度よーいドン、といったものではないことを悟空は悟っていた。
 春はまた巡る。けれど、それは今の春とは違うものに違いない。
 少しずつ、少しずつ、雲が知らないうちに千切れているように、目には見えないところで大きな何かに飲み込まれている。
 その濁流にも似た流れの中で泳ぐものは多分――同じ瞬間を二度味わうことは無いのだ。
 悟空があの牢獄の中、何度も繰り返した闇の季節も、雪の季節も、また繰り返しの毎日を、過ごすことは無い。
 今日と明日が違う。
 今年と来年が違う。
 それを恐らく、生きている、というのだ、と。
 薄紅の花がふわっと幾枚も拡がるように、悟空は唐突に理解した。
(三蔵)
 伝えたい。
 桜が散ること。
 桜が咲くこと。
 繰り返しの毎日ではないこと。
 自分も三蔵も大きな何かに飲み込まれていること。
 その何かに自分を引きずり込んだのは三蔵であること。
 そうして自分が生きていること。
 三蔵に抱いている気持ち。
 過去の不安より、牢獄の孤独より、もっともっと今の自分を強く貫いている感情。
 けれど、胸の中のもどかしい気持ちを、やはり伝えられなくて、悟空は三蔵の名前を呼ぼうとした。
 その途端、低く呟かれたのは、自分の声ではなく。
「ああもう、うるせえな」
 ぐい、と繋がった指先を引かれた。
「ひとの名前を安売りしてんじゃねえよ」
 そのまま歩みを緩めて足を動かし始める。
 引き摺られて悟空も歩く。
 ほんのちょっと縺れながら。
 こうして手を繋ぐと、悟空は強引に連れて歩かれる。
 けれど、それのほうがよっぽどいい。どこかにひとりきりで置いていかれるよりは。
「それなら」
 三蔵が、悟空のこころを読んだように呟く。
「手を離さなきゃいいだろう」

 手を繋ぐ。
 つよく、つよく。

 これ以上届いて欲しい想いなんて無いと思った。




「り」 輪廻













願わくば、彼の総てを。





 
 蕩けそうな夕陽だ、と思った。
 赤色を放つ太陽の周囲は中心よりも僅かに色味の違う赤橙色をしていて、反射する空の色との境界はとても曖昧だ。ゆらゆらと揺らぐその境界を見つめるうちに、背後から迫り来る夕闇の暗さを忘れそうになる。太陽は少しずつその身を山の向こうへと隠しながら、ちょうど水彩画をぼかしたときに似た色で放射線を描くように空を染める。
 運転手が席を外したままのジープは、あと少しで街に入る、という森の中に止められていた。助手席に座ったまま空を仰ぐと、更に境界のわからぬ色の果てに、確かに闇があるのが分かった。それを確かめて三蔵は息をつく。昼より夜が好き、というわけではない。ただ、目のくらむような太陽の紅さよりも、仄かに闇に浮かぶ月の光のほうが好きだった。
 闇の色の広がりは、あと半刻も待たずに夜と呼ばれる時間帯になることを地上の者に教えてくれる。そうなる前に街に入りたいのだが、と三蔵は舌打ちをした。
「八戒たち、けっこう時間掛かってんな」
 まるで自分の心を見透かしたような言葉に、三蔵は小さく反応した。声は、こちらも広いシートに一人残された悟空だ。
 八戒と悟浄が街の様子を見てくる、とジープを降りてからかれこれ小一時間が経過していた。このところ、街に宿泊している最中に、先回りしていた妖怪たちと戦うことが多い。街での戦闘となると被害も少なくはなく、犠牲者を出す可能性もある。それを避けるために、との八戒の提案を断らなかったのは、三蔵も連日連夜の戦闘で疲れていた為だった。今日くらいは布団でゆっくりと眠りたい。
「……またいたのかなァ、待ち伏せ軍団」
「さぁな」
「あー、ハラへったぁ。八戒、早く帰ってこないかなぁ」
 そう言って悟空はあくびをすると、大きく体を伸ばした。
 退屈そうに三蔵の視線を追って、空を見上げる。
 悟空の目に、この空はどう見えるのだろうか。不意に三蔵はそんなことを思った。
 ひとは「見える」風景を見ているのではない。「見たい」風景を見ている。さまざまな情報の中から、自分に必要なもの、自分がほしいものを選んで手に入れている。視覚とてそのひとつである。
 夕陽の色も、この体を脈々と流れる液体の色も、
(まるで同じ色)
 血生臭いのは、己に流れる血液の所為である、と。そう言った長安の老僧は既に死んだ。だとしたら、夕陽の色は。
 三蔵は己の手のひらを軽く開いた。この赤色の中では、ほとんどの色がその彩度を失い、太陽の色に従う。だから、三蔵は夕陽が余り好きではない。
 真っ赤に染まる手のひら。
(汚れていても、判らない)
 この手のひらも、小銃も、血まみれだったとしても、判らない。今だけは。
 他人の血に汚れると、己の血生臭さが判らなくなるように。
「……あー」
 背後から突然声がした。
 どさり、と助手席のヘッドにもたれかかる気配と共に、気の抜けた声が続く。
「うまそうな太陽……」
 その言葉に思わず苦笑が零れる。三蔵の視線を追っていたにしては、あまりにも彼らしい言葉だったので。 自分には好ましく見えないこの空の赤さも、悟空にとっては熟れすぎた柿やトマトの色に見えるのだろうか、と考えると、何だか可笑しかった。
「勝手に食ってろ」
「んー……でもさ、うまそうだけど、何か」
 ふ、としたさり気無さで、助手席にもたれかかった悟空の指先が三蔵の服の裾を引く。
 何だ、と問う前に、悟空の指先に力が篭る。
「とけちゃいそうだ」
「は?」
「とけていきそう」
「太陽が?」
「……違う」
 額が助手席の後ろから押し当てられる。

「三蔵が」

 ふ、と。
 息が止まる。
「皮膚も髪も法衣も全部おんなじ色になるから」

 この体の中をめぐる血液とその色がいつか同化し、蕩けていくような錯覚。
 蕩けてしまえばいいのに、と思う錯覚。

 まるでそれを見抜かれていたような気がして。

「何言ってやがる」 
 勢いで振り向いて、法衣の先に触れる指を強い力で掴み返す。
 そうすると、すきとおる金色の瞳が、助手席のシート越しに自分を見た。
(金色) 
 その色がこの空の紅さにも染まらないことに気付き、三蔵はそれが悔しくて悟空を引き寄せた。己の皮膚も髪も法衣も同じ色になるのだという。まるで太陽の色にとけてゆきそうに思えるのだと。
 それならば。

「蕩けてしまえばいい」

 合わせた唇から、この太陽の色も己に流れる血の色も、そして彼のすべてが、自分と同じ色になればいい、と願った。




「ゆ」 夕陽