非常階段



 カァンカァンと金属板の喧しい音が耳につく。
 フラガは屋上への非常階段を昇りながら、小さく舌打ちをした。
 待ち合わせの時間からは大分遅れてしまった。春が過ぎて、そう寒い気候では無いが、それでも待たせている彼のことが気に掛かる。
 こう言うときに限って階段は長く、足音はうるさく感じられるものだ。
 もう日が暮れ始めた。もうすぐ下校時間になろうかという時間帯である。
 こんな時間に屋上へ掛け昇っている生徒もおらず、うすぼんやりと溶け始めた夕暮れの空気からは、屋上に気配があるのかどうなのかも感じ取ることは出来ない。
 フラガは息を吸い込むと、一気に階段の一番上まで掛け昇り、続く金属格子の扉をキィッと押し開いた。
 そこには予想通り、それでなくとも細く華奢な体を腕で抱きかかえ、屋上タンクの壁に身を預けている少年がいた。
 フラガは腹を決めるとパンッと両手を顔の前で合わせ、
「すまんッ! ・・・待っただろ、キラ?」
 その言葉に、キラと呼ばれた少年がくいっとこちらを向く。
 薄暗闇のせいだろうか、キラは一瞬戸惑うような雰囲気をみせた。
 そして相手がフラガであることが判ると、大きく息をついたようだった。
「・・・別に――待ってなんかいませんけど」
「悪かったな、どうしても職員会議が終わらなくてさ」
「別に善いですってば。僕は貴方を待ってたわけじゃないんですから」
 キラは不貞腐れたようにぷいっと顔を背けると、冷たく言葉を返した。
 言葉には怒りの色は無い。冷たさはあるものの、フラガを責める色も無い。
 今日は自分の部屋に来いと誘い、屋上での待ち合わせを決めたのはフラガの方だったのに。
 たとえ何があっても相手を責めないのはキラの癖だ。善い意味でも、悪い意味でも。
 だがキラがどんなことを言おうとも、今回のことに関して悪いのは、うっかり今日の職員会議を忘れてキラと約束してしまったフラガなのである。それが誰よりも一番善くわかっているために、フラガはキラの冷たさがどうも歯痒い。
 ここで自分に怒鳴ってくれる恋人ならどんなに有難かっただろうなどと思ってみる。
「・・・ったく素直じゃねーよなァ」
 心の中だけで思ったはずなのに、その言葉は口から出ていたらしく、耳敏く聞きつけたキラは更にそっぽを向いた。
「悪かったですね、素直じゃなくて」
「だぁからそうじゃなくてだな――」
 春過ぎとはいえ、冷え始めた風の吹く屋上に、フラガは行き場所のない溜息を吐きつけた。
 頭を掻きながらキラの前に腰を下ろす。
「・・・・・・怒ってんだろ?」
「怒って無いです」
「じゃあこっち向けってば」
「――ヤです」
 キラと付き合い始めて何度耳にしたかしれない言葉の応酬。
 フラガはキラの顎を掴むと、キラが嫌がるのも構わずに自分の方に向けた。
「ホラ、頬なんかもうこんなに冷たくなってるじゃないか」
 そう言うと、少しだけキラの頬が赤くなっのが薄闇の中でもわかった。こういう仕草に慣れていないのだ。
「そんなの、先生には関係ないでしょう」
「関係あるから言ってんだろ」
 そう言いつついつものように唇を近づけようとすると、キラは全身の力でフラガの胸を押しやり、その腕の中から抜け出した。
 見れば、顔が真っ赤になっている。
「やッ――、やめて下さい、こんな場所で」
「こんな場所って・・・誰もいないぜ?」
「そういう問題じゃありません! だから貴方って人は信じられないんです!」
 強い調子で言い返し、唇は触れてもいないのに、キラは唇を拭う仕草を見せた。
 それから傍に投げ出された鞄を持ち、立ち上がって開けられた扉へ足を向ける。
「――僕、もう寮に帰ります。大分遅くなっちゃったし」
「ちょっと待てよ。帰るってったってもう帰寮時間は過ぎてるだろ?」
 そう言って腕を掴むと、非常階段を降りようとしていたキラの足がぴたりと止まった。
 キラは寮生だ。寮生が教師もしくは両親の許可なく外出することは禁止されている。特に帰寮時間を過ぎて寮に戻った生徒についてはかなり厳しい罰則が与えられると聞く。
 とはいえキラの寮の監督をしている教師とフラガが仲が善い――というよりも因縁の相手であるため、口利きによりキラは時折フラガの部屋に泊まることも出来るのだが、その辺りのことについて、フラガはキラに対して「教師の権限」と説明しているため、キラは詳しいことは知らない。
 実は今日既に「今日はキラは帰んないぜv」とフラガはその教師に説明しているのだが、勿論そんなことを知るはずもないキラは、このまま寮に帰れば罰則を与えられると思うだろう。
 そう思って言ったのだが、キラは意外な返答を返した。
「別に善いです。クルーゼ先生の部屋に泊めて貰いますから」
「・・・ちょっと待て! どうしてそこにラウが出てくるんだよっ?」
「前、生徒会の作業で遅くなって帰寮時間過ぎちゃったとき、クルーゼ先生が部屋に入れてくれたんですよ。それで、そのときにいつでも来れば善いって言ってくれたから」
 フラガは因縁の相手ならぬキラの寮監であり自分の双子の兄であるクルーゼの姿を思い出し、そしてあのクルーゼがそんな睦言をキラに囁くところを想像してしまって、
「ラウが・・・お前に?」
「クルーゼ先生、僕の寮監なんですけど。・・・で、『自分の部屋に戻るなら罰則が必要だが、寮監の部屋についての罰則は決められていない』って仰って、それで」
「あんの野郎、ヘリクツこねやがって・・・っ。――で、お前まさか朝まで奴と・・・?」
「仕方無いでしょう、だって自分の部屋に戻ったら一週間朝御飯抜きなんですもん」
 振り返って頬を少し膨らませながらそう言うキラに、フラガは眩暈を起こしそうになった。
 クルーゼの少年好きは知っていた。――が、まさかキラに手を出すとは思ってもいなかったのだ。
「ななな何にもされなかっただろうなッ? 朝起きた時はちゃんと服着てたか??」
「何どもってるんですか。フラガ先生じゃあるまいし、僕はきちんと服は着て寝ますよ」
「・・・そ、そーか。・・・いや、無事だったなら善いんだ。無事だったなら・・・」 
 ごもごもとフラガは思わず口ごもる。
 そう言えば、この間からやけにクルーゼは自分を馬鹿にした目つきで見ていたなとか、最近のキラの体の不調はなかっただろうかとか思い出していると、
「・・・何百面相してるんですか」
 とキラが呆れた声で突っ込んだ。
 そしてふうと小さな溜息をつくと、
「――何を心配してるのか知りませんけど、帰りませんよ、僕」
 とフラガにだけ聞こえるくらいの声で言った。
 「え?」とフラガが顔を上げると、少し視線を逸らしたキラが、「今日は寮には帰りませんよ」と付け加える。
 その言葉の意味をフラガが図り知るより早く、キラが次の言葉を紡ぐ。
「・・・別に、怒っていたわけでもないし」
 そう言うと、白塗りの非常階段を一段だけ降りる。
 そしてそこからじっと階下を見下ろした。
「怒ってたわけじゃなくて、ただ――」
 そこでふつりと言葉が切れる。
 フラガはキラの隣から階段を数段降りると、キラの視線に自分の視線が合うあたりで足を止めてキラを振り返り、
「ただ?」
 じっと目を見つめると、フラガの視線から逃れるように、キラは錆びた手すりに目をやった。
「ただ――いつも、僕ばっかりが待ってるんだなって・・・思って」
 それだけですよ、とキラは言った。
 不器用な言葉の紡ぎ方だったが、それでフラガには判った。
 付き合い始めてもうすぐ一年。教師と生徒という関係のせいか、待ち合わせはいつも人目のつかないところで、キラが待ち、フラガが待たせるという構図が出来上がってしまった。
 別段気にしたこともなかったのだが、待っている間、キラは一人だ。
 今回のようにフラガが遅れてしまい、待つ時間が長くなれば、その分だけキラの一人の時間も長くなる。
 それはきっと寂しい時間だろうのに、そんなことをキラは一言だって口にしない。
 ずっとずっと待ち続けている。
 その姿は酷く――息が詰まるほどに愛おしい。
 勿論そんなことを言ってしまえばキラは顔を真っ赤にして怒るだろうが、そんなキラを目にすると、人前など全く構わずに抱き締めてしまいそうになることがある。
 今も冷えた頬ごとキラを攫ってしまいたいのだが、そんなことをしては余計にキラの怒りを煽るだけだろうから、あえてその気持ちを抑えている。
 キラは16歳。そして自分は28歳。この年差だけはどうしようもない。
 そして、年差ゆえの互いの感情の違いというものも、どうしようもないことである。
 自分のキラへの想いは、おそらくキラの自分への想いを容易く越え、それはキラなど予想もつかない程なのだとフラガは自覚しているが、その想いの強さをキラに知られるのが怖くて隠し隠しに付き合っている。
 いつか――キラが自分に気付く時が来るのだろうか。それはいつなのだろう。そしてそのときキラは自分にどんな眼差しを向けるのだろう。
 他者を想う気持ちを、全く純粋に屈託無く綺麗なものだと信じているキラ。
 体を重ねてもなお、穢れることなく凛としているその姿。
 いつか、その眼差しが自分だけに向けられることはあるのだろうか。
 自分のキラへの醜いまでの嫉妬心に気付き、それでもそれを認めてくれる日が来るのだろうか。
 それは気の遠くなるような時間である。
 キラがいつも待ち合わせにフラガを待つのだとしたら。
 ――そうだ、自分だって。
 気付くと、苦笑を刻んだ唇が動いていた。
「待ってるのはお前だけじゃねーぜ?」
 フラガはキラの手を引くと、小さな唇に口付けた。
 キラの手から鞄が滑り落ちる。その手は躊躇うように彷徨い、やがて相手の体へと回される。
 そして同時に、白塗りの非常階段は持ち主を失った鞄を受け止め、カァンと響く声を上げた。

 (終)






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