セント・クラウスに祈りを



 眩暈がするほど白い廊下だ。
 何処からが壁で何処からが床なのかが曖昧である。
 くらり、と一瞬キラは眩暈を覚えて壁に手を付いた。
 無重力空間でも無いのに足取りがおぼつかないのは、見間違えてしまうこの通路の白さのせいだろう。
 数えるほどしか通ったことのない廊下の白さを、キラは余り好きではない。
 白、という色は人を狂わせる色なのだという。
 無音の真っ白な部屋に閉じ込められると、真っ暗な部屋に閉じ込められるよりも数倍、人は発狂しやすくなる。それは勿論統計上、データとして把握しているに過ぎない。
 狂わせる、というよりも惑わせる色なのだろうとキラは思う。
 白は白以外のどんな色にも染まらない。
 全方向から当たる光は無影燈のようで、総ての影を均等に分散させる。だから、足元には影さえも無い。
 幽霊のようだ、とキラは溜息をついた。
 壁伝いに数歩。
 ふと、壁に触れていた指先に違和感を感じ、そっと指を離す。
 すると、白い壁に完全に埋没していたコンソールが、ピ、とキラの指紋を認識し、親指の爪ほどの大きさのレンズがスルスルと表れる。それに左目を近づけて、角膜の個人認証を行う。
 この動作を行うのは、少なくともこの建物に入って十数度目で、すっかりキラは慣れてしまっていた。
 それもここに訪れる毎度がそうなのだから、面倒な反復動作を既にキラは記憶していた。
 生体応答を認証し、するりと人ひとり分が通れるくらいの隙間が広がる。隙間の向こうはまだ闇だ。
『認証コードと所属部隊を』
「No.327184、地球連合軍大佐ネオ・ロアノーク直属特殊捜査員――キラ・ヤマト」
 認証しました、と無機質な声が告げたかと思うと、バチッと音を立てて壁の向こうの世界が広がった。
 唐突に白い世界から生まれた色彩にキラは目を細めた。
 数歩歩けば、背後で扉がまた無音で閉まるのが判る。
 狭さを全く感じさせない空間だ。
 柔らかく敷き詰められた絨毯。部屋の一角を閉める大きな机。地下深くである筈なのに差し込む太陽の光――。
 キラは一通り見渡して、人の気配が無いことをいぶかしんだ。
 そもそもキラはその人物に呼ばれてやってきたのだ。しかも、この部屋は、部屋の主がいなくては決して開かない仕組みになっている。それは、この部屋の主が如何に社会的地位の高いところに在るものであるかを示してもいる。
 キラは薄く唇を開いた。
 その主を呼ぼうとして。
 ふと。
 衝立の向こうの大振りなソファにひとつ、大きな人影があるのを見つけて息をついた。
「大佐」
 呼んでも、返事は無い。
 眠っているのだろうか――とキラは余りにも柔らかすぎる絨毯に足を乗せて運んだ。
「寝てるんですか?」
 衝立の後ろを覗く。
 そこには肩口まで伸びた金色の髪が揺れていた。
 その髪を受け止めるようにして、胸元の開かれた黒い軍服が、その持ち主のしっかりとした筋肉を纏ってソファに寝そべっている。
 その様子は遥か高位を示す軍服と余りにも場違いに思えて、キラは溜息をついた。
 目は、開いているのか閉じられているのか判らない。
 それは、その黒い軍服の持ち主が、両目をすっぽりと覆ってしまうほどの仮面をつけているからだ。
 どうせ眠るなら、とキラは部屋の中を見渡す。
 隣の部屋まで足を運べば、しっかりとした寝室があるのだ。
 それなのに、こんなソファの上で、仮面もつけたままで眠るなんて。
「……こんなもの」
 外して眠れば善いのに、と。
 仮面に伸ばした手を、不意に、がしりと強く掴まれてキラは跳ね上がった。
 己の腕を握るその手を辿れば、それは間違いなく黒い軍服に包まれた、その人であって。
 相変わらずの勘の善さに苦笑した。
「起きてたんですか」
「いつまで経ってもキラがお目覚めのキスをくれないからね」
 そう言ってキラの顔を引き寄せようとする。
 その性急さにキラは僅かに躊躇い、
「仮面、取りませんか」
「ん?……何で」
「何となく」
 嫌なんです、と正直に言うと、目の表情の判らないその男は、口許だけで器用に笑って見せた。
「外したら、キスしてもいい?」
 そういうモンでもない、と思ったが、どの道そうなるであろうことは目に見えていたので、そっと視線を逸らしつつ答える。
「……いいですよ」
 その返事に笑みを深くすると、男は指先で仮面を外した。ソファに寝そべったままで、放るようにその仮面をテーブルへと離す。
 現れた顔を見て、ほう、とキラは安堵の息をつく。
 民族柄もあるのだろうが、恐らく本物の太陽に当たっていないせいなのだろう、色素の薄い肌に、同じく薄い青の、瞳。
 しかし、開いたのは片方の瞳だけだ。もう片方は、主人の意志に従わず、瞼ごとぴくりと震えただけだった。――瞼に生々しく残る傷跡と共に。
 キラはそれをゆっくりと指先でなぞった。これはもうキラの癖になってしまっていた。
 眉に届く傷を瞼を越えて、頬骨の途中まで。
「キラはその傷がお気に入りだな」
 そんな声が男の唇から飛んだ。
 指先を止める。
 ふ、と男の視線がキラに定まるのが判る。
 そのままキラは引き寄せられた。
「……ん」 
 唇から、唇へ。
 かさついた唇が申し訳程度に触れ、ゆっくりと、互いの体温を確かめ合うかのように、触れる面積が広がっていく。
 この人と初めてこれを交わしたのはいつのことだったのだろう、とキラは思い出そうとした。それは、そのくらい昔のことのように思えた。
「何考えてるんだ」 
 不意に唇のほんの近くで囁かれる。
 顎をくいっと持ち上げられた。
 持ち上げた手の、袖の制服が――黒い。
「昔の、貴方のことですよ」
 その修飾語が気に入らなかったのか、男の眉が微かに顰められた。
「昔の?今の俺じゃなくて?」
「白い軍服を着ていた貴方のことを、つい」
 思い出しただけです、というと、男は複雑な表情をした。嬉しいような、怒ったような――過去の自分に嫉妬を感じてでもいるのだろうか。
「どんな軍服でも俺は俺さ」 
 子どものように言い放つと、腹を立てたと言わんばかりの仕草で噛み付くような口付けを寄越す。
 キラは、彼のそんなところがたまらなく好きなのだ。――そう言ったことは一度も無いけれど。
 それは勿論、彼の言うとおり、軍服の色が変わったくらいでは揺るがないものだ。
 けれども、白の軍服を着て、金色の短髪を揺らしていた彼のイメージがあるだけに、黒の上官軍服に金色の長髪、という彼の出で立ちに違和感を感じることもある。
 そして恐らく、その違和感は間違いではないのだ。
 一頻り口付けを交わすと、そのまま行為に持ち込もうとした男を、キラは溜息をついて押し返した。
「『聖夜にセント・クラウスが新しいプレゼントを運ぶ』――あんな厄介なメッセージを送られて、僕がどれだけ困ったと思ってるんです」
「お、気付いたか」
 男は笑った。
 この上官は、いつでもキラを困らせる方法で連絡を取ろうとする。
 まるで暗号めいたメッセージを、しかも足が付かないようにと差出人不明で送るのだから、それがネットワークから無造作に送られたマクロウイルスの類なのかそうでないのか、いつも見分けるのに苦労する。
 勿論それは、万が一内容を誰かに読まれたときに、それと悟らせない為の策なのだろうが、この男にはそれを楽しんでいる節がある、ということにキラは気付いている。
 聖夜とは、12月24日の夜のこと。
 セント・クラウスはサンタクロースのことだが、これは聖夜と引っ掛けているのだろう。
 そして新しいプレゼント。
 それを持って12月24日の夜中に来るように、というこれは体の善い召集命令だ。
 暗号というほどに難解でなければ、サインというのには陳腐だ。
 つまり、自分をからかっているのだろう。
 そう考えると眉間に皺を寄せたくもなる。
「とりあえず」
 危うく脱がされかけた自分の服の胸元から、ロケット代わりに下げた「新しいプレゼント」をネオの前に示す。
「本日の用件を済ませてからにしましょう、ネオ・ロアノーク大佐」
 親指で捻り潰せてしまうくらい小さなその情報チップを見て、その大層な軍位を持つ男は、やれやれとばかりに首をすくめてみせた。

「……つまり、モルゲンレーテでは全方位攻撃システムの改良が可能、ということか」
「可能性だけを述べればそうなりますが、現時点でのデータ不足、レールガンとオールレンジ中距離攻撃とのバランスを考えると、実行に移すのは難しいでしょうね」
 ディスプレイには、次々に新しいタイプの機体が映し出される。それらは殆ど開発中のもの、あるいは研究段階にあるものばかりだ。
 母体となるハードディスクには、キラが持ってきたチップが挿入されている。
「そもそもモルゲンレーテでは、これを攻撃用ではなく、守備の際に全方位に攻撃が出来るよう、救助ポット等に取り付けることを目的として開発されているものです」
「だが明らかに原型はガンバレルだろう、これ」
「そうですね」
「流石オーブと言うべきなのか、こういう技術は早いな」
 そう呟いてネオは苦い顔をした。この技術は元々大西洋地球連合のものであった、と言いたいのだろう。
 確かに小さな一国でしか無いオーブが、大西洋連合やプラントと対等に話し合うことが出来るのは、その背後に多大なる科学技術、特に軍事技術を保有しているからに他ならない。
「こういう時代には役に立たない技術ですよ」 
 ニ年前、血のバレンタインから勃発した地球及びプラント間の戦いは、第二次ヤキン・ドゥーエ攻防戦の後に、締結条約を持って終結が宣言された。
 現在、地球もプラントも手をとりつつ、関係を修復しようと歩み寄っている。
「表向きはな」
 言い放ったネオの声が余りにいつもと変わらないので、一瞬キラはその意味を把握しかねて首をかしげた後、眉を顰めた。
「……どういうことですか」
「火種というモンは、そう簡単に消えないってことさ」
「まさか」
 またあの戦いが、とキラは焦りを含んで、大振りの椅子にゆったりと腰掛けていたネオを振り返った。
「宇宙観測課のモンが言うには、去年の同時期に比べて隕石の数が三倍近く多いんだと」
「それが――何か」
「それも元々は地球と月の引力に釣り合って浮いてた筈の、そこそこ大きいものばかりが、だ」
 キラの声を無視してネオは呟くように言った。まるで独り言のように。
「何か大それたことが起きなきゃいいが、というのがお上方の意見でね」
 地球と月との引力は、一年単位で変わるものではない。ましてや唐突にバランスを崩し、地球に隕石として突っ込むなど、そう高頻度で起こることでも無い。
 引力とはそういうものだ。自分達だって、この地球上にいる以上、引力と遠心力の微妙なバランスの上に生命を成り立たせている。
 地球がほんの気まぐれを起こして早く回り始めたら、あっけなくこの足は地上を離れ、宇宙の遥かかなたに飛んでいくだろう。それはものの見事に慣性の法則にしたがって。
 プラントは、その引力も遠心力も人間の力で生み出している、というそれだけの違いだ。
 円錐状のプラントは、実にその中に住む人間が生き易いように、ただそれだけの為に回転し続ける。
 けれども、自然の力で引力から逃れられない人間は、「蒼き清浄なる世界の為に」と自然を見捨てた者達を睨み。
 自然より人工の太陽に慣れてしまった人間は、「無能なナチュラル共が」と自分達を受け入れることをしない者達を嘲る。
 たったそれだけのことで、戦争は起こる。
 人が死ぬ。
 もう。
「あんなことは――御免です」
 キラの声は心なしか震えていた。
 たくさんの者が、死んだのだ。友人だった者。敵だった者。自分が殺した者。名前も判らないくらいにたくさんの人間が。
「貴方まで、死に掛けたのに」 
 そういうと、ネオの表情が少し強張った。
 目を細める。片目は動かぬから、片目だけ。
 その空色の目は、以前の十分の一の視力も無い。
 ネオは確かに一度死んだ。
 そしてその時に受けた光の強さと衝撃で、片目は傷を、もう片目は不可逆、決して治らぬ弱視という跡を受けた。
 目が見えていない筈なのに、他の者にそれと悟らせないのは、ネオが気配を読むのに優れているからであって、ほんの三歩先に置いてある時計の針さえも読めない。
 キラは時折不安になる。
 本当は彼に自分が見えているのか、それさえも知ることは出来ないのだから。
「それなのに、貴方は」
 ……判ってはいた。
 モルゲンレーテの情報を流せ、という悪戯じみたメッセージを貰ったときから、薄々と判ってはいたのだ。
 全方位攻撃システム、ガンバレル。
「また戦いに行くつもりなんでしょう」
 そう声をぶつけて、キラは顔を背けた。
 ガンバレルは、元々彼の愛機――メビウスゼロに搭載されていた自由操縦型攻撃器だ。
 その操作の難しさと不便さ――最も乗りこなせるようになればモビルスーツの一機と変わらない対戦力を持つのだが――から、モルゲンレーテでは操縦不適応と判断され、救助ポットなどでオートで動かす為に開発されたのだ。
「大体貴方のそんな状態で、ガンバレル搭載のモビルアーマーなんて――」
「出来るさ」
 出来るじゃないな、やるんだ、とネオは笑った。笑う気配がした。キラは俯いていて、背後のネオの表情ははっきりと判らないからだ。
 その言葉に非難めいた反論を投げつけようとして――唇を噛む。どんな言葉を吐いたところで、彼がそう容易く考えを変える人間ではないことくらい判っている。誰よりも、自分が。
 彼が彼自身の口で、再びモビルアーマーに乗ると、そう言っている以上、そうなるのだろう。
 新たな摩擦を予感する台詞さえ、キラには理解することも出来た。双子の妹が、日々どれだけ連合とプラントの間を行ったり来たりしながら、その関係に懸念を抱いているか、ということを知っていたので。
 どうして、戦争は起こるのだろう――。
 キラは心からそう思う。
 誰もが人を殺したいわけではない。殺されたいわけでもない。愛する人を危険にさらしたいわけでも、傷つけたいわけでもない。
 それでも起こる。起こってしまう。
 多分、とキラは目を閉じる。
 ある日突然、何の前触れも無く、起きるものでは、多分無い。
 何か、目には見えないくらいの感情、熱を生まないほどの摩擦、笑顔の中にほんの少し混じる表情の強張り……そんな小さなものがたくさん積み重なっていって、そして。
 引き金が引かれる。
 そしてドミノ倒しのように戦争が起こる。
 それはどうしようもないのか。
 止められないことなのか。
 いつか聴いたカガリの慟哭が耳をついた。
「こんなになってまで、どうして戦うのか、と――聞きたいんだろう」
 キイ、と椅子から離れる音がして、ネオの声が近づく。
 キラは振り向かない。今はネオの表情を見たくなかった。
 ネオは穏やかな声で言う。 
「あの白い軍服を脱いだとき、俺は自分の名前を捨てた」
 ふわ、とキラは柔らかな温もりを感じた。
 一瞬の後に、ネオが自分を背後から抱きしめているのだと判った。
 目を細める。
 黒い軍服。
 彼があの閃光の中で掻き消えて、次に自分の前に姿を現したとき、既にこの姿だった。
 違う髪形に仮面、そして違う名を名乗った。
「俺は、ネオ・ロアノークで、軍人だ。そしてそれ以外の何者でもない」
「……判ってます」
 答えた声が掠れる。
 ネオはそっと優しく、キラの髪に顔を埋めた。
「俺に護るものなんて何も無いさ。勲章も佐章もどうせ、それは死んだ筈の俺に与えられたもので、こんな軍服はまるで」
 喪服みたいだろう、とネオは苦笑交じりに囁く。
 キラは回されたネオの腕に触れた。そしてその指先に己のそれを絡ませる。そうしたい気分だった。
「俺が戦うのは軍人だからさ」
 大佐、と呼ぼうとした瞬間、それを遮られる。
「近いうちに、戦争になるぞ」
 どくん、と心臓が跳ね上がる。ある程度予想された台詞ではあったが、肩が跳ねるのを抑えられなかった。
「ザフトの中におかしな行動を取るヤツがいる。連合のお偉いサンからも圧力が掛かり始めた。――そっくりだ」
「大佐」
「二年前の戦争が始まるときと、まるで同じだ」
 血のバレンタインの悲劇。あれと同じことが起こるのか。……連合とプラントの間で。
「そんな……」
「会議でも艦と隊長機、モビルアーマーやモビルスーツについてのミーティングや確認事項が増えたしな。近いうちに、俺も出るんだろ」
「……大佐」 
 ネオは小さく苦笑して見せる。
「捨てた名前に未練が無いように、死んだ筈の命に未練は無いさ。――でも」
 腕に込められた力が強まる。
「お前、寂しがりやだから」
 そのとき、ボーン、と突然部屋に時計が定時を指すときの音が響いた。
 ネオの部屋に取り付けられたレトロな掛け時計が、十二時を指している。
 一回、二回、三回……その音が、ゆっくりと日付を変えていく。
 聖夜。
 セント・クラウス。
 子どもの頃に一度は信じた偶像だ。
「キラ」
 不意にネオの声音が変わった。
 首筋に唇が押し当てられる。

「呼んでくれよ」

 いつかと同じように、と回された腕が言う。
 そうしたら俺は、と体温が言う。
 死んでいたって、と絡ませた指先が言う。
「何処にだって行くから」 
 低く、荒く、切ない声だと思った。
 伸びた金髪。
 見えなくなった片目。
 片目の色と同じ、薄青色の空。
 自分が(誰かと)戦った空。
 自分が(誰かを)殺した空。
 自分が(誰かを)愛した空。
 自分が(誰かを)失った空。
 今頃、この空を、セント・クラウスも飛んでいるのだろうか。誰かの願いを聞き届ける為に。
 握り締めた指先が震えている。
 大佐、と呼ぼうとして。
 多分それは違うのだと思った。
 誰にも呼べない、自分しか呼べない名前。
 彼の。
 いつか呼び慣れていた筈の。

「――ムウさん」

 十度目か十一度目かの時計の音に混じって、小さく囁かれた声。
 ネオは頭上からキラの額に口付けを落とした。そして、唇に。
 その体温に身を委ねて、ああ、判った、とキラは目を閉じる。 
 

 
 聖夜。
 ネオが本当にセント・クラウスに願ったものは何だったのか、キラは気付いて、気付かない振りをした。



 (終)



Merry Christmas!!!