夕焼けはゆっくりと空を染めていく。
 アスランは、その空を、そして境界を、それを為す海を静かに見つめた。
 目を細めると紅い太陽の輪郭までも瞼に焼き付いてしまいそうだ。
 しかしそうすれば、どれだけこの場所を離れたってこの紅さを忘れることはあるまい、と思って苦笑する。
 勿論、自分がこの場所を、この地球から見える太陽を忘れることは決して無いのだけれど。
「アスラン」
 呼ばれて視線を遣る。女性のそれとはまた違う、けれど柔らかい声だ。
 ラクスの声を小鳥のさえずりのような、と表現するのには慣れていたが、その声はどうだろう、と思う。
 さえずりのような賑やかさは無い。高さも、大きさも。
 だが、ベルベットのように優しく耳を包んで離さない声。
 男の声をそんなふうに思ってしまう自分がおかしいのだろうか、と思いつつも、返事をした。
「キラ」
 彼は波打ち際の本当にぎりぎりのところを、危なげなく歩いている。この海辺は彼の住居の近くだ。ラクスと、また共に暮らしている大勢の子供たちと何度も訪れた場所なのだろう、海辺の歩き方は実に上手い。
 それでもついつい声を掛けてしまう。彼を心配するのは、もはや自分の日常だ。
「そんなに近くを歩いてると、濡れるよ」
「そうかな。気持ちいいよ。アスランももっとこっちに来ればいいのに」
 遠慮しとく、と笑いながら、波を追う彼の足取りを見る。
 さくりさくりと砂の上に残っていく足跡。波が彼の足跡を浸食し、けれど一度ではその総てを消し去らずに、うっすらと痕跡を遺す。
「カガリは忙しそう?」
「相変わらず。今度はプラントに行くって言い出した」
「僕の妹とは思えない行動力だね」
「向こうは自分が姉だと思ってるらしいけど」
 どっちみち一緒だよ、とキラは笑う。
 物静かで、必要なときにだけ口を開くキラと、いつだって怒鳴り声で周囲を困惑させ、あるいは頭で考えるより先に口や手を動かしてしまうカガリ。
 二人が双子なのだと言われたところで、結びつけるのは容易くない。
 あの戦争が終わって、キラはいよいよ無口になってしまった。その分、言葉では足りない分まで、しっかりと空気で伝わるようになったとは思うのだけれど、彼の声が聴きたいときには少し物足りない。
 そう言うとキラはいつだって顔を赤らめ、アスランはいつだって僕を喜ばせるのが得意だ、と困ったように笑う。
 その顔さえ好きだと言ったら、どんな反応を見せるだろうか。
 自分が彼に対してどういう感情を持っているか、それはよく知っている。キラも知っている筈だ。それだけの経験を自分達は詰んできた。今だって、今夜キラを自分の館へ呼ぶために、こうして迎えに来ているのだ。ここに着いたときは、いつもどおり、キラはラクスやこども達と一緒だったけれど。
 だが、その気持ちがどれだけの重みのものか、あるいはどれだけの深みのものか、それを知ってしまったら、キラは果たしてそれでも笑っていられるだろうか、とアスランは思う。
 ひっそりと自嘲し、視線を海辺から沿線の道路へ目をやったとき、ふとアスランの目に留まるものがあった。
 ふわりふわりと砂の上で揺れているもの。
 最初は海辺に打ち上げられた芥だろうか、とも思ったが、毎日ラクスがこども達と掃除をしているのだから、それはあるまい、と思いなおす。
 何だろう、と近づいて拾い上げてみると、それは薄い紗幕のような布だった。
「アスラン、どうしたの?」
「――いや」
 不意に視線を外してしまった恋人を不審に思い、キラが波打ち際で首を傾げる。
 アスランはその布を手に、少しでも太陽の近くへ、海の近くへと足を運ぶ。
 キラが近寄ってきてアスランの手許を覗き込んだ。
「なに、これ」
 布は広げると大きな正方形に近い形をしている。その裾には同じ柔らかさの布で小さく花が形取られており、裾から垂れ下がるように小さなレースが縁取られている。
 先ほど、ラクスに呼ばれて集まっていった少女のうちの誰かの持ち物だろうか。
 そう思っていると、キラが口を開いた。
「これ、ラクスが作ってたやつだ」
「ラクスが?」
「そう。女の子達が、結婚式ごっこをやりたいって言い出して」
 思い出したようにキラがクスクスと笑う。
「可愛かったなあ。男の子と女の子がね、一組ずつ、こう横に並んで。並ぶだけじゃあつまらないって言うから、ラクスが急いでコレ作って。」
「お前は?」
「僕は神父役。ちょっとマルキヨさんの服を拝借してね」
 キラがコホンと咳をし、片目を瞑って神妙な口調で囁く。
「"あなたは永遠の愛を誓いますか?"」
 その様子に、アスランが笑みを浮かべた。
「何だかんだ言ってお前も結構似合ってたんじゃないのか」
「ま、新婦の母親役だったラクスよりはマシだったんじゃないかな。何せ全部の組が終わるまで、ラクスったらひたすら涙を浮かべ続けなきゃいけなかったんだから」
 それを想像して、アスランも噴き出す。
 どんなにおざなりなものであったか言うまでもないが、しかし子供達にとっては大切な「結婚式ごっこ」だったのだろう。もしかしたら結婚なんて、本当はそういうものかもしれないな、とアスランは苦笑いをしながら思った。重要なのは、それが本人にとって大切であることだ。神父が18歳の少年でも母親役が歌姫の少女でも、この際は関係あるまい。
「それで、この布は何に使うんだ」
 アスランが差し出した布をキラが受け取る。
 それを、ふわりと自分の頭に載せてみせた。
 キラの頭に載せられたそれを見て、アスランも納得する。
「ベールか」
「そう」
 薄いベールを被って神父が笑う。
 夕陽の光がその紗幕の隙間をやさしく染め上げる。するり、と風が僅かに吹き、キラはベールが飛ばされないように両手の指先で留めるように押さえた。
 キラが見上げる。
 いつもは次の行動を躊躇わせる澄んだ紫の目も、今は夕焼けに灼かれて判らない。
 だから、アスランは気付くとその身体を引き寄せていた。
 キラが驚いたように目を丸くする。
 アスラン、と。
 その唇が動くのを見て、アスランは目を閉じる。
 そのまま、わざと恭しくキラの手の平に口付けた。
「私は永遠にあなたを愛すると誓います」
 笑みを口許に滲ませ、そっとキラの表情を見遣る。
 困っている雰囲気が伝わってきて、苦笑へと変わる。
 アスランはキラの手の平を取ったまま、片目を細めた。
「神父様?」
 その言葉に、アスランが何を求めているか理解したのか、キラが更に動揺したように視線を一瞬揺るがせる。
 紅く染まっている頬は夕焼けのせいだけではない。
 唇が震えている。
 キラは聞こえるか聞こえないかくらいの声で、囁いた。
「誓いの、キスを。」

 空と海の境界、そこで静かに世界を染めていた太陽は、ベールで隠された二人の口付けに嫉妬したように、しかし誰にも知られぬように、一瞬、灼けつくように紅く輝いた。


(終)



「へ」 ベール:覆う、隠す


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