クレヨンの花




 男は、錆びた金網の外から、じっとその建物を見つめていた。
 今はもう使われなくなった建物。昔は白い函のように見えたその建物は、今は廃屋同然のボロ屋と化している。
 あちこちにはコンクリート片らしき塊も散らばっていて、勿論人影もない建物の敷地内は、寂れたゴーストタウンにも似ていた。
 ただ、ゴーストタウンならば、昔にその場所に飛び交っていたのは笑い声や楽しげな話し声であったかもしれない。
 だがこの場所に飛び交っていたのは、悲鳴と絶叫だった。
 男は目を閉じる。今でも思い出せそうな気がした。
 人と人が家畜同然に押し込められた狭い部屋。
 子どもの叫び声。
 入ればもう二度と帰って来ることは出来ないシャワー室。
 何人の人間を、この手でそのシャワー室に押しやっただろうか。
 男はもうその正確な人数さえ覚えていない。
 排斥せよ、と政府は言った。
 胸に黄色の星を付けた者は、人間ではない。生き物ではない。排斥せよ、排斥せよ。
 男は政府に従うしかない人間だった。そういう位置にいるべき人間だった。
 間違っているとさえ思わなかったのだから、きっと狂っていたのだ。
「あ、――所長じゃないですか」
 背後から飛んだ声に、男は振り向いた。
 どこかで見たことのあるような無いような男が、自分と同じような背広姿で立っていた。
 年は三十前後といったところだろうか。
「・・・誰だ?」
「第五班長、654から675号室担当のルイス・マイスターです」
 そう言って自分に敬礼して見せる姿勢に、男は昔自分の部下だった若者の面影を思い出した。
「ああ、・・・あのマイスターか」
「思い出していただけましたか。お久しぶりです、所長。」
「とりあえずその敬礼は解け。・・・それに俺はもう所長じゃない」
 男が所長と呼ばれていた時代と変わらない口調でそう言い捨てると、ルイスは少し苦い顔をした。
 申し訳有りません、と詫びるように呟く。 
 男は懐のポケットから煙草のケースを取り出し、それをルイスへと差し出した。
「・・・どうだ?」
「いただきます」
 ルイスが一本、そして男が一本、ソフトケースの中から煙草を取り出す。
 ルイスのライターで火を付けると、錆びた金網を絡めて紫煙が二本流れた。
 男は大きく息を吸う。
 吸いなれたはずの煙草が、やけに胸に染み入るような気がした。
「今日は――どうしてこちらへ?」
 ルイスは煙草の灰を落しながら尋ねた。
 実際年齢は男とそう変わらないのだが、その丁寧な姿勢は変わらない。
 若い頃はそれに加えて、若い男独特の希望に溢れた表情をしていたような記憶もあるが、余り定かではない。
「お前は?」
「私は、・・・この建物が取り壊されるという話を聞きまして」
 それで最後に一度だけ見ておこうと思い、この場所を訪れたのだという。
 そう、あの戦争が終わってしまってから、もう十年が経つのだ。
 当時収容所として使われていたこの場所を取り壊そうとする意見は、昔の恥辱を消してしまおうとする現政府の考えうることだった。
 その案は全員一致で可決。この場所は、あと一ヶ月もすれば取り壊し工事が始まり、跡形もなく消されてしまう場所なのだ。
 男の方も、理由は大して変わらない。
 ただ、取り壊される前に、どうしても手に入れなければならないものがあった。
 そう口に出して言うと、ルイスは眉を寄せて不思議そうな顔をした。
「・・・手に入れなければならないもの、でありますか」
「ああ。ここが取り壊されたら無くなるからな。その前に持ち出したい」
 男はそう言うと、錆びた金網に手をかけた。昔は交流電圧が流れていた金網は、今はその用途もなく錆びれ切っているだけで、場所によっては蹴り倒せばボロボロに崩れてしまいそうな脆くなった場所もある。
「中に入るんですか?」
「そのつもりだ」
 昔出入りに使っていた裏口の扉をガツッと叩く。
 すると、掛かっていた鍵も相当脆くなっていたのだろう、たった拳一つで簡単に壊れてしまった。
「・・・政府や警察にバレたらまずくないですか?」
「大丈夫だろう。奴等は鍵なんて確認しない。したとしても浮浪者が迷い込んだのだろうと思うのが関の山だ」
「はあ・・・」
 ルイスは男の後について、壊れた裏口をくぐった。
 男の視界に入るのは、赤茶けた大地と白い建物。この地面が赤いのは、多くの人間の血を吸った為かもしれないと、莫迦げたことが頭をよぎる。
 元々は真ん中の広場を中心とした正方形の外線沿いに作られていたのだが、無謀な増設を繰り返したため、建物はかなり無秩序に並んでいる。
 終戦当時のままなのだろうか、どこの建物も扉は開きっぱなしになっている。
 安っぽいコンクリート造りの建物は、指で擦るだけでパラパラと粉が落ちてきた。
 離れて見ると白く見えた建物も、近くで見ると十年のうちにすっかり外装を変え、汚れた灰色になっている。
 男は壊れた扉を蹴り、そこから建物の一つの部屋を覗いた。
「・・・これは酷い・・・」
 そう漏らしたのは、ルイスの方だった。
 部屋の中には真っ暗だった。それでも開けた扉からさし込む光で覗けば、今の扉を蹴り倒した衝撃で舞い上がった埃が視界を遮っている。
 壁は外壁と同じ汚れた灰色だ。ところどころ黒ずんで汚れているのは、この部屋で殺された人間の血の色だろうか。
 だが、ルイスが呟いたのは埃と壁の汚さではなく、床に無造作に置かれているモノだった。
 モノ――、それは布を纏っていた。十年前に見慣れた、この収容所の罪人に着せる服。それが風化されてしまったのか、ボロボロになってモノに纏わりついている。
 舞い上がる埃を放ってそれに近付くと、それが茶けた人骨であることは容易に判った。
 腰を曲げて横たわるように死んだのだろうか、腰の骨から上と下が異様な程に歪んでいる。
 この部屋に放置されたまま死んだのか、それとも殺すために放置されたのか。終戦の解放で生き残った者は全員この収容所から出されたはずだが、出所してもどうせ長くないとここに残った者の骨だろうか。
 暗闇に慣れた目で見ると、そんな死体が五,六体は転がっていた。
「酷いと言うがな、・・・これは俺達がしたことだ」
 男は自分に吐き捨てるように言うと、目を細めて死体を見やった。
 そして戸口のところに立ち尽くし、口を押さえていたルイスを軽くどつく。
「どうした、気分でも悪いのか」
「いえ・・・」
「不思議なものだな。あの頃は平気で日に何十人も殺したものを」
 やはり狂っていたんだな、と男は続けて言った。
 ルイスは何もいえず、部屋を出て再び歩き始めた男の後を追う。
 男は埃の積もる収容所の中を、まるでその埃の中に十年前の自分を見つけようとしているかのように歩き回った。
「――ここがガス室だったな」 
 そう言って、『シャワールーム』という看板の取れかけた建物を見上げる。
 その建物は前の収容部屋よりもずっと老朽化が早く進み、コンクリートの天井は既に崩れ落ちて残骸となっていた。
 残った一部の壁には、当時『シャワー』に用いられた金具の先だけが見えている。
 もしきちんとした形で残っていれば、二十人は入れるくらいの大きさをした建物だ。だがそれは今では小さく見える。
 罪人に『シャワー』を浴びさせるとき、常にこのシャワールームには四十人を越える人間がすし詰めにされた。
「ここで・・・どれくらいの人が死んだんでしょうか」 
「さあな。数え切れないくらいだ」
「ここに着いたばかりの人を入れたこともありましたね」
「・・・そうだな」
 長い旅を終えて収容所に連れられて来た人々。
 彼等には汗を流せという優しい言葉をかけてシャワー室に入れた。
 そして、毒のシャワーを浴びた後、そこから生きて出て来る者はいなかった。
「――狂っていたんでしょうか、私たちは」
 ルイスは残骸を見ながら小さく呟いた。ふと視線を落したコンクリートの壁の一欠片には、誰かが苦しみの余り引っ掻いたのだろうか、爪痕にも似た傷が残っていた。
 単純作業で人が殺されていく日々。
 まるでゴミを片付けるような感覚。それが当たり前の常識。
 恐ろしかったのは人を殺したことではなく、人を殺すことを何とも思わなかった自分達。
 狂っていたのだ。
 男は深く溜息をつくと、背広のポケットから、楕円状の白いケースを取り出した。
 普通の、何の変哲もないプラスチックのケース。戦時中は高価なものだったが、今ではそれなりに手に入りやすいものになった。
 ルイスは男の動作に気付いて、眉を顰める。
「・・・何ですか、それは?」
 男は答えず、そのケースをぱかりと開いた。
 白いケースの中には、さらに白い布で包まれたものが入っている。
 男はその白い布をゆっくりと開いた。
 ルイスは近寄り、それが何であるかを確かめると、先ほどよりも不思議そうな顔で男を見上げた。
「・・・クレヨン・・・ですか?」
「ああ、・・・そうだ」
 男は穏やかな声で答えた。
 男の手にしたケースに入っているのは、小さくなった一本のクレヨン。
 クレヨンを包んでいたはずの印刷紙は既になく、そこには茶色の裸のクレヨンが残されていた。
 質は余り善くない。それも相当古いものだ。
 これはどこで手に入れたのかと尋ねようとしたルイスは、男の視線に気付いてはっとした。
 男は今までルイスが見たこともないほど穏やかな表情をしていたのだ。
「これは、俺が戦時中に手に入れたものさ」
「・・・戦時中に?」
「ああ、そうだ」
 クレヨン一本とは言え、戦時中に手に入れることは難しい。おそらく男が所長だから出来たことであったのだろう。
「俺がここの所長になって間もない頃の話だ。・・・今でも覚えている。第1班、003号室――俺の管轄の収容部屋に、遠くの街で隠れていた十人ほどの『黄色い星』が連れて来られた」
「・・・・・・」
「その中に一人、このクレヨンと同じ髪の色をした少年がいた。まあ――よくある色ではあるんだがな」
 茶色い髪というのはそう珍しい地方ではない。
 それというのも、そもそも様々な人種や民族がまざった地方の人々であったから、男のように金髪碧眼の者もいれば、ルイスのように黒髪黒目の者もいた。
 男は話を続ける。
「そいつは――名前は知らないんだが、とにかく絵が好きらしかった。その頃はまだ収容される人数も少なくて、それでも人を詰めた部屋の壁に、落ちている石やら木やらでカリカリやってるんだ」
「絵が・・・?」
「まだガキだったがな、バカみたいに毎日毎日壁に向かってるから、面白がって聞けば、絵が好きなんだとかホザいていやがった」
 男の口調が乱れる。
「俺も若かったんだろうな、そのバカさ加減に敬服して、その頃は調達さえ難しかったクレヨンを一本、街から仕入れて来たんだ」
「・・・所長が、その子の為に?」
「ああ。若かったんだ。それでそいつは色んな絵を描いたようだったな。小さなパンを包む新聞紙だとか、挙句の果てには自分の体に絵を描くんだ。汚れた体だ。それでもそれを、俺が身回りに行く度に嬉しそうに見せるんだ」
「・・・・・・」
「・・・特別扱いをしてはいけないことは、所長である自分が一番善く判ってたはずなんだがな。駄目だった」
「・・・・・・所長」
「バカみたいな話だ。この収容所で禁忌を一番初めに破ったのは、俺だったろう」
 男はそう言うと、手元のクレヨンに目を落した。
 粗悪なクレヨン。それを手にし、絵を描いていたという少年。
「そして次に俺がこのクレヨンに触れたのは、・・・それをガス室で拾った時だった」
 男の目に、後悔と愛しさの混じった色が行き交う。
「あのバカ、死ぬって判ってて嬉しそうに持っていやがったんだ、これを。おまけにそのシャワーのコックを捻ったのは俺だった・・・」
「・・・入ったら死ぬって知らなかったんですか、その子は?」
「知ってただろうさ、あいつはな。俺は収容部屋にその十人程を呼びに行って、シャワーを浴びろと言った。あいつは素直にシャワー室に入った。最後だった。最後に笑って俺を見て、こう言ったんだ。『俺に絵を描かせてくれてありがとう』――ってな」
 気付くと、ルイスの頬を涙が伝っていた。
 それを見て男は苦く笑う。
「・・・おい、お前が泣いてどうする」
「すみません・・・、そういうことがあったのかと――」
「話すのはお前が初めてだからな」
 男は崩れ落ちてしまったコンクリートの天井から見える空を見上げた。綺麗に澄んだ空だ。
「・・・それでは所長、手に入れなければならないもの、とは・・・」
「ああ、それは、な――」
 男は口ごもった。
 少年の死を悲しいと思ってはいけなかった十年前の自分。
 ガス室に残された一本のクレヨンを見つめ、それでもそれをゴミに接するように扱わねばならなかった時代。
 少年の、まだ温かい死体に浮かんでいた一筋の笑顔。
 それ以来、殺すことにも死ぬことにも麻痺してしまった感覚。
 ・・・そしてようやく、戦争が終わり、平和な時代を迎えようとする中で、殺すことの恐ろしさと狂っていた十年前の自分を思い出した男自身が、今度こそ少年の死を悲しみたくて訪れたのだと言ったら。
 そうしたらこの若者は自分を蔑むだろうかと、不意にそう考えた。
「ただ、見たかっただけだ。お前と同じように、崩されるこの場所をな」
 そう言うと、だがそれでもルイスは男の言葉に理解したようだった。
 深く礼をして、一足先にガス室を出ようとする。
 ――が、俯いて足早に歩こうとしたルイスの足が、不意に止まった。
「しょ、所長っ!!」
「だから、俺はもう所長じゃないって言ってるだろ――」
「違うんです、コレ――、ちょっと所長、来て下さい!」
 足を止めたルイスが、大声で男を呼んでその場に膝をついた。
 部屋の隅に残った壁に手の平を当て、食い入るようにその一部を見つめている。
 尋常でないルイスの様子に、男はコンクリート片を避けながら近寄る。
「これ、ここ、見てくださいよ」
 ルイスが示したのは、部屋の隅の壁の、ちょうど床と交わるか交わらないかの部分。
 それが男の目に飛び込む。
「――なッ・・・」
 男はそれを目にして、膝まづくように腰を下ろした。
 嘘だ、こんなことは信じられない。
 だって、そうだ、この部屋には何百人、何千人もの人間が入った。
 その中の誰が書いたとも判らないものだ。
 おまけに茶色だ。血の染みがそう見せているのかも知れない。
 だがそう思うには、その壁の一部に記されたものは、余りにも男にとっては克明過ぎた。

 "Thank you"
 
「所長・・・これは・・・」

 その言葉の隣に描かれた小さな花。
 潰れた花。
 花びらが五つ。
 まるで子どもの描くそれ。

「お前は――これが何に見える?」
 男は震えて掠れた声で尋ねた。
 ルイスは答える。
「花に。・・・小さな花に見えますが」
 男は頷く。
「・・・お前もか」
 ルイスはそのときに見た。
 初めて見た。
 ルイスがこの収容所で働いていた間には絶対に見ることの出来なかった、
 一生見ることもないと思っていた、
 男の涙を。
「――あのバカ、」
 それがコンクリートの床に染み込んでいくのを。
「こんな下手なモンを最期に遺しやがって――」

(絵が好きなんだよ。)
 下手な絵を。
(なあ、コレ、何に見える?)
 下手な絵を、それでも一生懸命に描いて。
(違うよ、これは犬、・・・で、これは――)
 俺が敵であるかどうかも知っているのか、知らないのか。
(・・・絵を描かせてくれてありがとう。)

 


 最期に咲かせたのは、こんなに愛しい、クレヨンの花。

 


「・・・こんなバカなやつは見たことが無いな」
 男ははき捨てるように言うと、震える指でクレヨンを取り、それで壁に何かを書き殴った。
 ルイスも涙が頬を伝うのを感じていたが、もう何も考えられなかった。
 男はクレヨンをケースへ戻すと、息を付き、立ち上がった。ルイスも立ち上がった。
「――本当に、バカだった」
 それが決して少年に向けられただけの言葉ではないことは、ルイスにも判った。
 十年前の自分。・・・そして、今の自分。
「・・・さて、」
 男はケースを懐に仕舞うと、壁から視線を引き剥がすように空を見つめ、
「行こうか、ルイス・マイスター」
 そう言うと、空に一つ息をついた。

 

 

 

 そしてその一ヶ月後、建物は最新型のシャベルカーによってガラクタ同然に壊された。
 それは既に過去と遺物として扱われ、その後に残る大量のコンクリート破片に目を向けることは無かった。 
 だが、目を凝らせば、ガス室のコンクリート破片に、わずかに茶色のクレヨンの跡を見つけることが出来ただろう。
 不思議に描かれた花の傍に添えられた、
 "Thanks for your flower."という、粗雑な男の文字が。

 

 


 (終)






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